のじゃロリ、初の窮地
「君に会いに来たんだ、篠宮水樹」
黒霧と名乗る男はそう言った。僕も奴も、双方がただの一般人であるなら、僕のこの姿に見惚れた怪しい男がストーカー行為を行っただけなのだが……現実は、そう甘くはない。
遭遇してから、奴が何らかの力を行使した形跡はない。仙力というものには『残滓』のようなものが発生するのだろうか。
だが、間違いなく、この男は仙力の使い手だ。それ即ち、仙継士。僕に接触してきたことにも、何か深い目的のようなものを感じる。
隆盛を後ろに下げつつ、僕自身も少しずつ距離を取る。仙力は使うなと言い付けられている上に、相手の戦闘力も未知数。
ここは逃げの一手だ。何とか隙を見て、逃げ出す他ない。
「なにが目的じゃ? 金か?」
「まさか。仙継士がそんな理由で接触するはずないだろう?」
正確に言えば仙継士ではない僕は、彼らの流儀に米粒ほどの理解もない。けれど、たかだか金欲しさのために他族の領地を侵すとも思えない。
他に目的があることは分かっていた。それでも、少しでも逃げる時間を確保するために、会話を長く続かせようとした。
しかし……その意図を見透かしたのか、否か。黒霧は『くすり』と笑うと、右の手のひらをこちらに向けて突き出した。
「その前に……そこの人間は邪魔だな」
奴の顔から笑顔が消える。それと同時に、後ろにいた隆盛が肺の潰れたような声と共に後方へと吹き飛んだ。
「隆盛っ!」
隆盛はそのまま道路に倒れ伏すと、ぴくりとも動かなくなる。
すぐさま駆け寄り、状態を把握した。胸の動きを見るに息はしているようだが、血を吐いている。折れた骨がどこかに突き刺さっているのか。
何にせよ、危険な状態だ。このまま放っておけば、最悪の場合、命を落とすかもしれない。
「お主っ……なにをしたっっ!?」
奴が仙力を使ったことは間違いない。だが、奴と隆盛の間には僕がいて、僕は何のダメージも受けていない。
障害物を無視して対象に衝撃を与える術だと仮定すれば説明が付く。
「何って……僕らは仙継士だろう? 答えは決まってるじゃないか」
瞳は見えないが、奴の僕に対する視線と、隆盛に対する視線は質の異なったもののように思える。
たとえば、そう……隆盛のことを、地面を這う虫と同じように見ているような。
奴の中では、仙継士以外は死んでも構わない存在だとでもいうのか。
ふつふつと、心の中に怒りが湧き上がってくる。この男の目的は不明だが、その目的のために僕の親友に手をあげた。到底、許される行為ではない。
拳を作り、今にも飛びかかりそうにもなった。しかし、ここは宵山家の領地。下手に騒動を起こせばまた問題となる。
「おや……激情して襲ってくるかとも思ったが……予想よりも冷静なのか……?」
僕が反撃に出ないことを不思議に思ったのか、黒霧は顎に手をやり、わざとらしく悩む素振りを見せた。
奴はまだ、油断している。僕が今すべきなのは、奴を倒すことではなく、隆盛を病院へ連れて行くこと。僕が巻き込んだのだ。この際、僕の安否は問題から外すべきだろう。
殴りかかる素振りを見せつつ、退却のために力を込める。大通りまで出ることが出来れば、奴も手出しは出来ないだろう。
「……おっと、やめておいた方がいい。君が僕の射程圏外に逃げるよりも、僕が君を再起不能にする方が早い」
しかし、その考えは黒霧には見透かされていた。先ほどの予想通り、奴の攻撃は遠距離系。つまり、奴の射程圏外に出るよりも前に、奴の攻撃に捉えられてしまう。
逃げることは出来ない。戦うことも避けた方が良い。ならば……後は。
隆盛をその場に置き、ゆっくりと立ち上がる。
「……なにが望みじゃ?」
奴の望みは、僕にある。それ即ち、僕が奴の要求を呑めば、隆盛は見逃してもらえる可能性があるということだ。
そう問うと、奴は頭を押さえ、愉悦を抑えきれないような様子で、笑うのを堪えていた。
そして、少しだけ口角を吊り上げたまま、こう言った。
「僕の妻になれ、篠宮水樹」
思わず、耳を疑った。てっきり、この力を手に入れるために解剖されるだとか、都合の良い奴隷にでもされるのかと思っていた。
それが、口を開けば、なんだ。『妻になれ』ときたものだ。これでは、一般人のストーカーと似たようなものではないか。
「……なんじゃと?」
「僕はね、君から感じるんだよ。他にはない、強大な力を」
それは僕の内に眠る仙人の魂のことを言っているのだろう。天音曰く、『類を見ない莫大な仙力を保有する仙人』なのだから。
だが、それと妻になることがどうすればイコールで繋がれるのかが分からない。
「なにが言いたい?」
「つまり、君が僕の子を孕めば、我が黒霧家は更なる力を手にすることが出来るのさ。だから、僕の妻になるんだ、篠宮水樹」
「断るっ! 突然現れてなにを言っておるのだ、お主はっ! 正気かっっ!?」
正気だとは思えない。仙継士というのは、皆が皆、こう狂っている人間たちの集まりなのだろうか。宵山家のような者たちが少数派なのだろうか。
『お前は正気なのか』。そう問われた黒霧は、しかし臆することもなく言った。
「正気だし、本気だ。僕たち、相性も良いと思うんだよ。勝手な想像だけどもね」
その言葉に、思わず背筋が凍るほどの悪寒を感じた。このような人間に犯される光景を想像してしまった自分を、呪ってしまいたいと思った。
そうか。奴が僕に向けていた、品定めするかのような絡みつく視線。あれはまさしく、『品定め』していたのだ。
僕が、奴のお眼鏡にかなう力を有しているのか。そして、奴の『性的嗜好』にかなっているのか。
「狂っておるぞっ……!」
「そうは言われてもね……どのみち、君に選択肢はないと思うけど?」
黒霧が隆盛を指差す。隆盛の具合は時間を追うごとに悪化しているようで、息は浅く間隔も短くなり、顔も青ざめてきている。
「もし君が僕の妻になると言うのなら、その男は助けてあげよう。妻の友人となる男だ。見捨てるわけにはいかないだろう?」
「ほざく前にその殺気を隠してはどうじゃっ……ダダ漏れじゃぞっ……!」
信用は出来ない。見捨てられるならまだ良い方で、僕の知らないところで暗殺される可能性だってある。
だが……どちらにせよ、僕には時間も選択肢も、そう多くは残されていない。
天音の言い付けを破り、仙力を使ってこの状況を打破するか。
それとも、この男の要求を呑み、何としてでも隆盛を逃してみせるか。
二つに一つ。こうなれば、仙力を使うしかない。天音には悪いが、命あっての何とやらだ。罰ならば、甘んじて受け入れよう。
胸の辺りに集中している仙力に意識を向け、掴み取る。仙力を行き渡らせないように抑えて纏衣を解除したのなら、その逆手順を踏めば、纏衣を解放出来るはずだ。
「てんっ……」
纏衣を解放しようとした、その時だ。
突如、どこからともなく飛来した刃物のようなものが、直前まで黒霧のいた地面に突き刺さる。
それは、どうやらクナイのようだった。こんなものを現代人が使うはずがない。使うとすれば、由緒正しく、長い歴史を持つ……特定の家門くらいのものだ。
「おっと……思っていたよりお早い到着で」
クナイを避けた黒霧は、即座にそれが『彼女ら』によるものだと判断したのだろう。余裕のある表情を崩すことなく、ポケットに手を突っ込み、飄々とした態度で言った。
彼女の声がしたのは、僕の背後からだった。
「——それ以上、私の『友』を愚弄するなよ。殺すぞ、黒霧」
いつになく頼り甲斐があって力強いその声に、思わず泣き出してしまいそうだった。
振り返ると、そこにはやはり、天音がいた。それから、正確な人数は分からないが、恐らく一〇名前後の配下が、そこかしこに配備されている。
少し視線を下にやれば、意識は朦朧としているはずなのに、隆盛が得意げな笑みを浮かべている。その手には、『僕のスマートフォン』と『カード』が握られていた。
あのカードは、学校で雪さんに貰った、彼女の連絡先が書かれたものだ。黒霧と遭遇した瞬間、咄嗟に流星に手渡したものだったが……よくぞ、この状況で僕の意図を汲み取ってくれた。
天音、そして宵山家は、自らの領地内に仙継士の侵入者がいることを知っている。その状況で、雪さんは僕に連絡先を教えていた。
突然かかってきた見知らぬ番号からの電話を、彼女は不審に思うだろう。もしかすると、その段階で天音とやり取りをして、その番号が僕のものであると確認したのかもしれない。
仮にそうであったとして、電話は繋がっているのに何の声も聞こえない。更に不信感は増すはずだ。
そして、勘の良い天音ならこう思うはずだ。
『篠宮水樹の身に何かが起きたのかもしれない』
と。
実際のところ、どういうやり取りがあって彼女たちが来てくれたのかは分からない。
だが、来てくれたということは、少なくとも、僕の賭けは成功したということになる。
「へぇ……あのお堅い宵山家の次期当主様が、『友』とはね」
興味深いものでも見るかのように、僕と天音を交互に眺める黒霧。
そうしてすぐに、何か心変わりでもあったのか、あっさりと身を翻した。
「……やめだ、やめ。篠宮水樹だけならまだしも、宵山家次期当主様まで出てこられたら勝ち目はない。数の暴力とはよく言ったものだね」
……逃げる気なのだろう。少なくとも、ここにいる全員を相手に戦えば、奴も無事ではいられないということだ。
「ハッ、逃げる気か? 我が領地で騒ぎを起こしておいて?」
そんな黒霧の背中に向けて、煽るように、天音が言葉を投げる。
すると、奴は顔だけこちらへ振り返って……額に青筋を浮かべながら、初めて『怒り』の表情を見せ、数トーン下がった低い声で言った。
「……勘違いするな。日を改めると言っているんだ。弱小家門如きが粋がるなよ」
と、それだけ言い残して、奴は暗闇の中に消えた。仙力の気配は、もうない。
……途端に、体の力が抜け、膝から崩れ落ちてしまった。
「おっと」
それを、天音が後ろから支えてくれる。思わず目が合い、情けない笑いをこぼしてしまう。
「……すまぬ」
「どうしてお前が謝る。むしろ、私たちが謝らなければならないのに」
申し訳なさそうに表情を暗くさせる彼女は、とても、先ほど黒霧に啖呵を切ったのと同じ人物とは思えなかった。
彼女の登場で、張り詰めていた緊張が解け、安心してしまう。それと同時に、強烈な眠気に襲われた。
学校で波に飲まれた疲れと、黒霧との遭遇で発生した緊迫感。それら全てから解放された瞬間に、疲労がピークに達するのは、ある意味当然とも言える。
「……大丈夫だ、水樹。今日はもう安心して眠れ。私たちがついてる」
「天音……りゅう、せいを……」
「ああ。お前の友も、必ず助ける」
その言葉を聞いて、更なる安心感に支配されたからだろうか。
ゆっくりと睡魔に呑み込まれ、僕は、深い眠りに落ちた。




