僕、『のじゃロリ』になります。
鏡に写るのは、見覚えのない少女の姿。
髪は白く、頭からは狐のような耳を生やし、おおよそ男子高校生のものとは思えないほど大きくくりくりとした瞳は、動揺を隠せずにひっきりなしに動いていた。
「な……なっ……」
口をあんぐりと開き、思わず両手で顔を抑えてしまう。夢ではない。確かに、触れている感覚があった。
「なんじゃこれはぁぁぁああっっっ!?!?」
口から出る音は、これまでの一七年間、自分が発してきたものとは思えないほど高い音で、それが余計に混乱を招き寄せた。
家中に響き渡る、幼き少女の声。それも、自らが意図していなかった言葉が発され……ただただ、頭がぐちゃぐちゃと掻き乱されるばかりだった。
————時は、前日まで遡る。
修学旅行、三日目。長いようで短く、短いようで長かった旅行も、今日が最終日。もう何ヶ月も前から楽しみにしていたというのに、実際に来てみれば、何だか呆気のないような……そんな感覚すら覚えた。
大都会とまではいかないまでも、それなりに栄えた都市に暮らす僕たちが、畑や田んぼしかないような田舎村にやってきて三日間を過ごす。初めは不満を漏らす生徒も多かったけれど、実際に来てみれば、意外にもこの利便性から切り離された生活を気に入る者が大半を占めていた。
かく言う僕は、一度は経験してみたかった田舎村での生活の片鱗を味わうことが出来て、終始満足していたわけだけど……そんな旅行も、この自由時間をもって終了。午後になればバスに乗って学校に帰り、そこで修学旅行は終了となる。
何だか、時間が過ぎるのがあっという間だったような……それとも、のんびりとした時間が流れていたような。奇妙な感覚だ。
「樹、どうしたんだ、ぼうっとして」
「ん? ああ、いや……何でもない」
不意に声をかけられ、そっけない返事をしてしまう。こうのんびりとした場所にいると、嫌に感傷的になってしまう節がある。最後の自由時間だというのに、ぼうっとしているのは勿体無い。
「ほら、早く行こうぜ。颯太のアホが、早く川で遊びたいってよ」
「子供かよ……まったく」
『全くだ』、といった様子で、隆盛が颯太の後を追う。僕もその後を追うように、止まっていた足を動かし始めた。
その時だった
『————、——』
「……?」
何か、声が聞こえたような気がした。声、だったか。それとも、音、だったか。
虫の声ではなく、風の音でもない。川のせせらぎでもなければ、勿論、隆盛たちの声でもない。
あのか細い音は、どちらかと言えば、小さな女の子の声のような……そんな音だった。
『——、————』
(……また聞こえた?)
気のせいではないのだと思う。二度も同じような音が聞こえたのだから、これが僕だけにしか聞こえない幻聴の類でなければ、どこかにこの音の発生源があるはずだ。
辺りを見渡し、それを探す。小さな女の子はおらず、ましてや、人なんてものは班の人間以外には見当たらない。
……ただ一つ、奇妙なものならばあった。
それは、山の奥へと続く、古びた階段。所々足場が砕け、苔むして年季の入った階段だ。こんなところに階段があったなんて、知らなかった。この道は昨日も、川へ行く時に通っていたはずなのに。
声は、階段の向こうから聞こえた気がした。気がしただけで、何の自信も確証もない。
でも、けれどきっと、確かにそうだという確信があった。不思議と、そんな気がした。
……気が付けば、階段へと足を踏み入れていた。足場の悪さのせいで時々足を滑らせ、転びそうにもなったけれど、僕はただ夢中で、その階段を登り続けた。
長い、長い階段だ。テレビでよく見る、神社へと続く階段、それと同じようなイメージだ。雰囲気も、丁度似通っている。
どれくらい階段を登り続けただろうか。息もいい加減絶え絶えになってきた頃、『それ』は見えてきた。
「……祠?」
それは、祠のように見えた。どこか神秘的な雰囲気を漂わせる、古びた祠。
いつの時代のものだろう。僕は歴史に関して全くと言っていいほど知識がないが、これがここ最近出来たものではないということだけは一目で分かる。
それほど大きなものではない。一般的なお仏壇よりも少し小さいくらいのものだ。
お世辞にも手入れがされているとは言えないような状態で、恐らくは原型こそ留めているものの、あまり綺麗にされているようには見えない。
「放置されてるのか……? こういうのって大体、土地の守り神とかが祀られてるもんなんじゃ……」
ゆっくりと、祠に近付く。あの声は聞こえなくなってしまった。この祠から聞こえていたのか、ただの気のせいだったのか……いや、でも、ただの偶然だとは思えない。
何だか非日常的な出来事に、若干心を躍らせながらも、正体不明の祠や声に恐怖する気持ちもあった。
「こ、こういうのって、触ったらバチが当たったりとか……」
中身が気になるところだが、祠を開けて幸運に見舞われただなんて話は聞いたことがない。大抵は呪われただとか、バチが当たっただとか、そういう類の怪談話だ。
それでも誘惑に負けそうになって、一度は祠へと手が伸びる。あと少しで祠に触れるという距離で……誘惑や好奇心といった感情よりも、『恐怖心』が大きくなった。
「……やめとこう。村の人に怒られても困るし」
祠への好奇心を理性で抑えつけ、引き返そうと踵を返した。
——刹那、背後にあった祠から、『キィ』という、何かが軋むような音が聞こえた。
「っ!?」
思わず、勢いよく振り返った。触れてはいない。確かに、触れる前にやめたはずなのに。
それなのに……祠の扉が、開いていた。
次の瞬間、祠から眩い光が放たれる。視界が一瞬で白く染まるほど、強烈な光だった。
「んぐっ、何だっ……!?」
思わず手で顔を覆い、その原因突き止めようとする、開いた扉の奥に、何かが見える。それが光の原因だろうが、それが何なのかまでは分からない。
分からない……が、祠の奥にあったそれは、瞬きをして次に目を開けた時には、消えて無くなっていた。
——代わりに、胸に、強い衝撃を感じる。
「いづっ……!?」
胸に、何かが突き刺さっている。そう感じた。もしかすると、さっき祠の奥にあった何かが、僕の胸に突き刺さっているのかもしれない。
その正体を確かめるためか、痛みに耐えられなかったからか、胸を押さえてその場にうずくまる。これは一体何なのか。体を大きな杭で貫かれるような感覚に襲われながら……段々と、意識が薄れていく。視界を埋める白と、思考を放棄した脳の境界とが曖昧になったその瞬間。
僕は、遂に意識を手放してしまった。
「————き」
誰かが、耳元で声を荒げている。
「————き」
聞き覚えのある声だ。
「————つき」
この声は……昔から聞き慣れている声なのに、思い出せない。一体、誰だ?
「樹っ!」
「うわぁっ!?」
何度目かの呼び掛けで、僕は覚醒した。それと同時に、頭部に激しい痛みが走る。
それが、意識不明の僕を心配して名前を呼んでくれていた隆盛に、飛び起きた衝撃で全力の頭突きをぶち込んだが故の痛みだと知ったのは、状況の把握があらかた済んでからのことだった。
「ここは……」
「ここは……じゃねえよ。心配させやがって」
上半身を起こして周囲を見渡すと、階段を登る前にいた川へと通じる道で倒れているようだった。
「り、隆盛……祠からここまで運んでくれたのか?」
「はぁ? 祠? 何言ってんだ、樹。倒れた時に頭でも打ったか?」
不思議そうに、そう返す隆盛。言っている意味が分からなかった。
「……お前こそ何言ってんだ、隆盛。僕は祠のある場所で倒れて……」
「だから、お前は最初からここで倒れてたんだよ、樹。そもそも、祠なんてどこにあるんだよ」
「いや、そこに階段が……」
……階段が、ない。
そんなはずはない。ここは確かに、さっきまで僕がいた場所だ。今僕がいる辺りに階段があって、その先に祠があったはずだ。
でも、祠はおろか、その階段さえも見つからない。
さっきとは違う場所……いや、確かに田んぼや畑ばかりで同じような景色ばかりだけど、自分のいた場所くらいは分かる。間違いなく、ここに階段があったはずだ。
……そんな馬鹿な。じゃあ、僕が見ていたあれは何だったんだ? 夢? それにしては、あの胸の痛みは……。
「っ!」
ハッとなって、胸を手で押さえる。何ともない。穴が空いているわけでもなければ、服が破れているわけでもない。健康体そのものだ。
「全く……付いてきてないと思ったら、こんなところで倒れてんだから焦ったよ。貧血か?」
「いや……僕は……」
……夢、だったのか? あれが現実だったことを証明する手立てが、僕にはない。だとすると、僕はここで倒れて意識を失い、夢を見ていただけだったのか……?
「……そうかもしれない。昨日、中々寝付けなかったから、そのせいかも」
「そうかよ。まあ、意識ははっきりしてるみたいで安心したよ」
僕は、あれを『夢だった』と思うことにした。これ以上隆盛に心配をかけることは出来ないし、ここで倒れていたという事実がある以上、そちらが現実である可能性の方が高い。
そうだ。修学旅行が終わることが勿体なくて、寝付きが悪かったのも事実。僕はそのせいで道端で気を失い、倒れていた。そう考える方が妥当だろう。
「ほら、立てるか」
「ああ……ありがとう、隆盛」
「後で一応、田中ちゃんに診てもらえよ。頭でも打ってたら大変だからな」
「うん、そうする」
田中ちゃんというのは養護教諭のことだ。大丈夫だとは思うが、ここは隆盛の言う通りにしよう。
それから、特にこれといった問題も起きず、修学旅行は終了した。生徒たちを乗せたバスが学校に到着すると、教師陣の短い挨拶を挟んで、僕たちはそのまま解散する流れとなった。
田中先生の診断は、目立った外傷はないから問題はないだろうというものだったが、念のために病院を受診することを勧められた。
ただ、どのみちこの時間からでは受けられる病院もない。明日は土曜日で学校も休みだし、朝起きてすぐに行けば問題ないだろう。
同じ班の隆盛や颯太たちとも別れ、僕は一人、電車に乗って帰路に着いた。
それからおよそ三〇分後、自宅へと到着する。誰もいない家の扉を開けて、修学旅行用の大きな荷物をリビングに置くと、手も洗わずにソファに寝転がった。
……何だか、最後の最後にどっと疲れが出てしまった。原因は言わずもがな。
何か食べるものを用意しなければ。一年間の長期世界一周旅行に出かけた両親が帰ってくるまで、あと四ヶ月。もうこの生活にも慣れたものだけど、こう疲れが溜まった時には、贅沢にも出前で全てを済ませてしまおうという気になってしまう。
(ああ、だけど今日は……もう、眠い……)
時刻はまだ午後の七時半。だと言うのに、抗えない眠気に誘われ……結局、風呂にも入らずに、ソファの上で睡眠を貪ることとなった。
——翌朝、目が覚めるとすぐに、何か言葉で言い表せないような違和感に襲われた。
何だか、頭の辺りが痒い。そして、重い。昨日はかなり早くに寝たし、寝過ぎて感覚がおかしくなっているのかもしれない。
どれだけ眠ったのか。まだ眠気が取れない中、目を擦りながら洗面所へと向かう。
何だか、体の……主に下半身のバランスがおかしい。歩き辛いというか、いつもと重心の位置が違う。久し振りにソファで寝たものだから、体が強張っているのかもしれない。やはり、面倒でもベッドで寝るべきだったか。
洗面所の扉を開き……何だか、ドアノブもいつもより高い位置にある気がするけど、恐らく、気のせいだろう。まだ眠いせいで頭がぼけているのだ。
鏡の前に立ち、蛇口を捻……ることが出来ない。手が届かない。何でだ? いくら寝起きでぼけているからと言って、蛇口に手が届かないなんてことはあり得ないのに。
(仕方ない……風呂でさっぱりしてから考えよう)
まだぼんやりと靄のかかった頭でそんなことを考えながら、服を脱ごうとした。その時だ。
「……ん?」
シャツを脱ごうとした手に触れたのは、長い髪。後ろ手に確認すると、それは腰まで続いているようだった。
それどころか、その延長線上に……何か、奇妙なものが生えている。丁度、お尻の付け根、尾てい骨と呼ばれる辺りから、もふもふの毛の塊……それこそ、尻尾のようなものが。
「……んんっ!?!?」
何が何だか分からなくなり、服を脱ぐことさえも忘れて、風呂場に駆け込んだ。風呂場には洗面所よりも低い位置に鏡がある。その前に立ち、驚きのあまり開き切った瞳で、鏡に写る姿を見た。
そこに写るのは、到底、自分とは思えないような姿。
腰まで伸びる白い髪に、同じく白い毛の狐のような耳。
お尻からは触り心地の良さそうな白い尻尾が生えていて、ぴょこぴょこと跳ねるように動いている。
背は、随分と縮んだ。大体、小学生の女の子くらいだろうか。くりっとした瞳に、平らな胸。どこからどう見ても、幼い少女である。
もう一度言おう。これは、鏡に写る姿。つまり、高校二年生の男子である、佐藤樹の姿なのである。
「な……なんじゃこれはぁぁぁあああああっっ!?!? (何だこれぇぇぇえええっっ!?!?)」
口からは、出そうと思った言葉とは別の言葉が出る。訳が分からない。
訳が分からない、が、状況をまとめるとつまり……これが僕ってこと!?