決意
何ページにも渡って『しね』『ゴミ』等の罵詈雑言が書き込まれたノート。ゴミ箱に隠され捨てられた上履き。痣が絶えない身体。
大麻の頭を走馬燈のように駆け巡るのは、これまでに受けてきた数々の仕打ちの痕跡だ。
小学校四年生。まだまだ子供で、それでいて早いものなら第二次性徴の兆しを見せ始めて精神的に不安定になる頃。
人類永劫の宿業『いじめ』。
国、人種、性別、年齢を問わず全世界にて行われる悪徳。
そんな悪徳の数多いる被害者の一人が大麻だった。
『酷いだろう。何もしない大人達を恨むだろう。だがな、結局これはお前の問題なんだ。親や教師が「やめなさい」と言ったところでいじめなんてまた起こる。お前が乗り越えるしかない。
……今すぐにとは言わない。外の恐怖を上回る『何か』が見つかるまでいくらでも家に居ろ。
もし外に出て失敗してもまた戻って、それからまた『何か』を探せばいい。
どんな選択をしても、親は子供の味方だ』
一月前の父親の言葉は、小学生の大麻に言いようのない失望と納得、そして安堵を与えた。
何もしてくれない大人に失望した。自分が何とかしなければいけないのは判っていた。
そして何より……自分の選択を尊重されて嬉しかった。
学校のいじめを苦に引き籠る。負けたと言われても否定できない。学校をサボるのは悪いこと。常に罪悪感を抱えながら、しかし今では家から一歩も出れなくなってしまった。
そんな自分が嫌で、しかしそれを変革するエネルギーは何処にもなくて。そんな自分が許されたと感じた。
父に励まされてから、大麻は家の中でできることを必死に考えた。
いじめ関係の情報をネットで調べ、父の本棚からコミュニケーションについての書籍を抜き取る。
その日も大麻は父の本数冊を抱えて自室に戻った。
「? 何この本?」
机の上で持って来た本を確認していると、明らかの他とは装丁の違う黒紫色の本が目に入った。タイトルには【黒魔術入門】と書かれている。
「……父さんってこんな本持ってたんだ……」
普段は厳格な父がこんなオカルトな本を持っていたことに驚きと笑いが込み上げてくる。
心理学や教育に関わる難解な文章に疲れていた大麻は気分転換に【黒魔術入門】のページを開いた。
文章を読むことまではしなかったが、偶にある妖怪・怪物のイラストを見て、「次は何が出てくるんだろう?」と思いながら見ていると、最後のページに目が釘付けになった。
『召喚魔法陣』
そこに描かれていたのは入門という単語とはかけ離れた精緻な魔法陣と、それを描くための手順だった。
(そういえば、最近は工作もイラストも書いてないな……)
「……ちょっと気分転換にやってみようかな……」
元々大麻は工作や絵を描くのが好きだった。気分転換にこの魔法陣を描いてみることにした。
まず鉛筆・定規・コンパス・ポスターサイズの大紙・方位磁石サイズの紙、といった必要な物を揃える。後は実際に描くだけ。
といってもこれが意外に難しかった。魔法陣の手順が想像以上に難解だったのだ。
方位磁石で東西南北を正確に確認しながら、決まった方位に向けて決まった長さの線と難解な文字を記入していく。六芒星のマークの各頂点には宝石が必要と書かれていたので、後で返すと心の中で謝りながら母の化粧箱よりいくつかのアクセサリーを持ち出した
「はぁ……完成……!」
最後の頂点にイヤリングを置いた大麻は張りつめていた気を解いて魔法陣を見下ろした。学校の図工や自由研究で絵や工作をしたことは何度か大麻だが、今回はこれまでの人生で一番の出来栄えだ。
「後は、呪文は呪文を唱えれば悪魔が召喚でき……」
「大麻~、ご飯よ~」
「あ……は、は~い」
台所から母親の声が聞こえてきた。どうやら呪文の実践は夕飯の後になるようだ。
夕飯・風呂・歯磨きを終え、いよいよ就寝というところで大麻は再び床に魔法陣を広げた。
大麻の内心は九割九分がただの遊びと思いつつも、一分だけは『もしかしたら』と思っていた。苦労して魔法陣を描いたのだから最後までやってみよう。もしそれで何かあれば……程度のモチベーションだった。
「ウノンセイカ……ハンシ……イセイカハイ……テカイ カハイ……」
魔法陣の次のぺージに書かれた呪文を詠唱する。
「タクニキウゴ!」
大麻は暗闇の中にいた。
いやこれは正確な表現ではないだろう。何故なら大麻は暗闇の中に光る魔法陣の上に大の字で金縛りにあっていたのだから。
「っ⁉ ~~~~~~⁉⁉」
悲鳴をあげようにも声が出せない。起き上がろうにも身体が動かない。周囲を見渡しても何も見えない。正しく闇の世界だった。
(な、何⁉ なんなのこれは⁉ ぼ、ぼくは一体……!)
完全にパニックになって震えることしかできない大麻にさらなる衝撃が待っていた。
『汝が……我を読んだのか……?』
目の前の壁から声が響いた。
(か、壁が喋った⁉ あ、あれっ? あんなところに壁なんて……)
闇の世界と思って気づかなかったが、大麻の目の前には〝壁〟があった。ただ巨大で色も周囲と完全に同化していたために大麻が気づけなかったのだ。
その事実を理解して壁の上の方に目を向けた大麻は……そこで本当の恐怖と驚愕を味わうことになった。
「~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっ⁉」
(ば、ば、ばば化物っっっ⁉)
そこには死神がいた。
闇の襤褸を纏っているため横幅は判らない。ただ背丈は大麻の通う小学校校舎よりも遥かに大きい。さらに襤褸から露出している右手にはその巨大な体躯に見合った大鎌が携えられている。
何より目を引くのがその双眸だ。肉の一片も持たない骸骨の面貌には眼球が無く、代わりに青白い炎が煌々と燃え盛っていた。目線等読みようもない炎の眼差しは、しかし間違いなく大麻を写していた。
『なるほど……詳細を知らぬままに我を呼び出す陣を描いたのか……。まさかそのような真似をしでかす愚か者が居ようとは……』
何かに納得するように一人頷く死神。しかし大麻としては今何が起こっているのか、そして無事に帰れるのか。大麻の頭にはそれしかなかった。
『経緯がどうあれ……呼ばれた以上は義務を果たすが我が責任……。中々見どころがある……汝の助けとなることを……』
(な、何⁉ なんなの⁉)
怯える大麻を後目に死神は右手の大鎌を両手で構えた。
そしてそのまま、高く持ち上げると……明らかに大麻の身体に鎌の刃を突き立てる意志を漂わせながらわずかに動きを止めた。
「んんんん~~~~~~‼ んぅぅぅぅぅ⁉」
『汝が内なる狂気、我が力を持って成就させん』
人どころか、神話の怪物すら一撃で切り飛ばさんばかりの大魔刃が大麻の心臓を胴体ごと貫いた。
「あああああああああああああっっっっっ⁉⁉」
大麻はベットから飛び起きた。布団を跳ね飛ばし、枕元の目覚まし時計が机に激突して壊れたが、そんなことは今の彼の意識に無かった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……はぁ……はぁ……ゆ、夢?」
過呼吸一歩手前になりつつも何とか周囲の様子を確認する。見慣れた自室の光景が視界を通して現実を脳に訴える。
「な、なんだ……ただの夢か。はは、っていうかあんなの現実な訳ないって。僕も馬鹿だなぁ……」
引き攣った笑いを浮かべながらベットから降りる。いつもより大分早起きだが、寝汗で全身がベトベトで、夢見も最悪。二度寝する気にはならなかった。
とりあえず寝汗でぐっしょりになったパジャマを着替えることにする。
「……って、え?」
そして上半身裸になった大麻は鏡に映った自分の身体に絶句した。
夢の中で大麻は死神に心臓を貫かれた。そして大麻の左胸には肩を胴体から両断するような大痣が浮かび上がっていた。
「な、なんで⁉ あれは夢で……!」
訳が分からず痣に手を置く。その瞬間、
「って、あれ……なんだ……これ……?」
大麻は立っていることもできずにベットに座り込んだ。眩暈と身体の奥底から湧き上がってくる熱で身動きが取れない。
そして大麻の頭は身体以上の非常事態に見舞われていた。
これまで受けてきた数々の非道な仕打ち。家族との思い出。気に入っていたアニメ。人が切り刻まれるホラー映画、落書きだらけの机。台所に立つ母。近所を流れる川、etc
これまでの大麻の人生が無秩序に頭の中で勝手に回顧されていく。頭の熱はどんどん上がり、最早頭痛にまで襲われ始め、そして再び気を失った。
改めて目覚めた大麻は今度は狼狽えることなく目覚める。そして鏡を見て自分の身体を確認し、心臓の傷をそっとなぞった。
「…………あ、あっははははは……凄い、凄いよ。あの魔法陣は本当に、本物だぁ……!」
あの死神がどういった存在なのか、大麻には判らない。自分の身に何が起こったのかすらも判らない。さらに言えばそんなことはどうでもいい。
ただ一つだけ、大麻が確信を持って言えることがある。
「これで、これで僕は……本当に友達ができる……。親友を作れる……! ははは……ぁははははははははははっ!」
自分は何かが変わったと。