エリの残した願い
それからさらに数日、僕は何も飲まず、何も食べず、同じことを繰り返した。意味もなくレイナさんの日記を読み返して、彼女の使っていた五尺棒にそっと寄り掛かったりした。
気が付いたらエリの部屋で寝ていることが多くなっていた。
大体の時間は、あいつの残した暗号に目を通していた。
なんであいつが、これを僕に残したのだろうかと考える。
この暗号は、解けば何かしらの文章が浮かび上がる仕組みになっている。そしてそれはきっと、僕に宛てたメッセージなのだろう。
だとしたらどうして、暗号の形で残したのだろう?
伝えたいことがあるなら、直接それをメモに書いて残せばよかったじゃないか。
こんな回りくどい方法……もし僕が解けなかったら、あいつの最後の言葉が分からないじゃないか。
もし、解けなかったら……。
「……それは、ダメだ」
あいつが、どうして暗号を残したのかはまだ分からない。
だけどきっと、そこにはあいつの想いがこもっているはずだから。
それを解き明かさないと、エリが浮かばれないから。
僕は解くことにした。
上の線は五線譜を表していた。右斜め上にそれをまたぐようにして引かれた線との交点が、下の文字列の縦の列と一致している。
つまり、ドレミファソラシドが、それぞれ割り振られることになる。ここまではいい。
ただ、このままだと右の数字列と左の文字列の数が一致しない。
もう一つヒントがなければ、先へ進めない気がする。
だけど、暗号が書かれた紙には、これ以上ヒントになりそうな言葉は見当たらなかった。気になるのは「※濁点は考えないでね」という注意書きだけど……どういう意味なんだろうか。
何かを見落としているのではないかと何度も読み返し、何か気づいていないことがあるのではないかとたくさん、たくさん考えた。
エリの最後の想いを、僕に伝えたかった言葉を、必ず解き明かそうと。
きっとそれがエリの願いだから……。
「エリの、願い……?」
その時――僕はエリのつぶやきを思い出した。
『ソラト病がなかったら、こうやって自由に外に出られたんだよね……』
ソラト病がなかったら。
そう彼女は言っていた。僕にぎりぎり聞こえないくらいの小さな声で。
だからきっとあれは、あいつの本音であり、あいつの願いでもあるのではないだろうか。
だとすれば。
「ソラトを、無くす……?」
ドレミファソラシドの音階が割り振られた文字列から、ソとラ、そしてドの文字列を消してみる。濁点は考えないで、というのは、こういうことだったのか?
四つの文字列を消すと、右の数字列との整合性がだいぶ取れてきた。
こうなると、それぞれの文字が点線で囲われていることにも意味があるような気がしてくる。
だって「数に囚われた」と下には書いてある。この点線が、実線になるような状況が、右の数字列を使うことで発生するのではないか?
暗号は順調に解けていく。
文字を囲うために、右の文字列を七本の線で書き直す。たしかこういうのを、7セグメントディスプレイというのだと、前に読んだ「時計の歴史を刻む針」という本に書いてあった。
もしかしたらあの本を、エリも読んでいたのかもしれない。
これまで停滞していたのがウソのように、謎がするすると解けていく。
頭の片隅で、エリがこのメッセージを暗号の形で残した意味を、再度考える余裕があるほどに。
きっとこれは……僕を励ますためのメッセージなんだ。
ただのメッセージじゃだめだった。
普通に解ける暗号でも駄目だった。
「ソラト病がなかったら」という言葉を思いだして、そこから想起しなければ解けないようなものでなくてはならなかったのだ。
暗号とは元来、互いだけが知りえる「鍵」を使って解ける文字列のことを指していたらしい。
その鍵の形状は実に様々で、暗号が書かれた長細い紙を巻くある一定の太さの棒だったり、互いだけが知りえる言葉だったりした。
だからそういう意味では、エリの残したこの謎は、古典的な暗号の定義に沿っているのだと、そんなことを思った。
解読は最終段階に入った。
数字の線に囲われた文字を、矢印に沿って、左上から順に読む。
「おに……い」
そうして浮かび上がったのは。
「ち……ゃ、ん」
僕が考えていたよりも。
僕が想像していたよりも、ずっとずっと
「しあ……わ」
小さくて、とりとめもなくて、それでいて
「せに……なっ……」
とても優しい、言葉だった
「てね」
「おにいちゃんしあわせになってね」
頬の上を涙が流れ落ちた。
ソラトのない世界で、僕が幸せになること。
それがエリの最後の願いだった。
「どう、して……みんな、みんな……人のことばっかり……」
レイナさんは僕たちのために、ソラト病の抑制法を探していた。
エリはソラトのいない世界での、僕の幸せを願った。
みんなが未来を向いていた。
「そ、うか……」
ずっと僕は……エリに昔のように楽しく過ごして欲しいと願っていた。
ソラト病にかかる前のようにと、人だった頃みたいにと、そればかり考えていた。
そんな過去に囚われていた僕の目線を、未来に向ける。
それが、この暗号の役目――エリの願い。
今はもういない二人の温かい想いを受けて、僕は泣いた。
ただひたすらに、これまでの分も、これから先の分も泣いた。




