最悪の選択
「よし、レイナさんは部屋にいるみたい。そーっと、抜け出すぞ」
「ね、ねぇ。やっぱりやめない? 見つかったら怒られちゃうし……」
「大丈夫だって。すぐそこまで、ちょっとだけだから。エリだって、久しぶりに外、出たいだろ?」
「……それはそうだけど」
次の日、僕はエリを外に連れ出すことにした。
村のはずれにある、景色がきれいな丘にいかない? と誘うと、エリは最初「レイナさんに迷惑かけちゃだめだよ」と渋っていた。
新しい謎かけも持っていくし、すぐそこだから大丈夫だと何度も言うと、最後には「じゃあ行く」と小さくつぶやいた。
幸いにもレイナさんは部屋にこもって何か作業をしているみたいだったから、外に抜け出すのは簡単だった。
「わあ……」
外に出ると、エリが口を開いた。
「空、おっきい……」「風、きもちいい」「地面ふかふか!」
当たり前のことを、当たり前じゃないみたいに、嬉しそうに言った。
くるくると回って、ときどき躓いて、それすらも楽しそうにしているエリを見て、僕は心底外に連れ出してよかったと思った。
丘の下から吹き上げる風が、エリの髪をもてあそぶ。はにかみながら髪を耳にかける仕草が少し大人っぽくて、ああこいつも成長してるんだなって思った。
横顔をぼんやりと眺めていると、エリの口が小さく動いた。
「ソラト病がなかったら、こうやって自由に外に出られたんだよね……」
それは、頬を撫でる柔らかな風にかき消されてしまうくらい、小さなつぶやきだったけれど、僕の耳には確かに届いた。
自分がソラト病を患っていることに関して、普段エリは何も言わない。
泣き言も弱音も、初めてソラト病を発症した日以来、聞いたことがない。
だから、エリの独り言はより一層、僕の胸にしみた。
「ねえ、お兄ちゃん」
今度はしっかりとした語調でエリが僕に声をかけた。さっきの言葉は聞かなかったふりをして、僕は聞き返す。
「なんだよ」
「もし私が死んだらね、私の部屋にある木箱を開けて欲しいんだ」
「は、はぁ? なんだよそれ……縁起でもないこと、言うなよ」
「もー、そんな怖い顔しないでよ。一応言ってみただけ」
「一応でも……死ぬとか、なんとか、そんなこと言うな」
「うん、分かった。もう言わない」
「おう」
「ふふ。ね、あっち行こ? きれいなお花が、ぶわーって咲いてる! ぶわーって!」
そう言ってエリは笑って走り出した。いつになく高いテンションのエリの後を追う。
この時、エリがどんな気持ちでいたのか、どうしてあんなことを言ったのか。
――僕はもう少し後に知ることになる。
一度家から抜け出すことに成功したから、僕たちは楽しくなって、それから度々レイナさんの目を盗んで村に出かけるようになった。
村の人と出会ってしまわないように、行く場所は決まって人気のない場所ばかりだった。それでも、エリは楽しそうだった。
そんなことを何度も繰り返すうちに、だんだんと僕たちの「ダメ」の境界線はあいまいになっていて。
だから……あの日僕は、最悪の選択をした。
村のはずれにおいしいパン屋さんがあるらしい。
お昼ごろには売り切れてしまうくらい人気のあるパン屋さんで、日中レイナさんは仕事で忙しいから、僕たちはそれを食べたことがなかった。
「今日は噂のパン屋さんに行ってみようか」という僕の提案に、エリは最後まで渋っていたけれど、僕は半ば無理やり連れていくことにした。きっと丘の上に連れて行った時みたいに、行けば楽しいに違いないのだから。
深めのフードのついた服を着て、僕たちはこっそりと村に向かった。
「やっぱりこっちの方は人が多いね……ちょっと怖い、かも」
「レイナさんの家は村からはちょっと離れてるからね……。でもフードかぶってるし大丈夫。ばれないばれない」
「ばれたらどうしよう……」
「大丈夫だって。エリは心配性だな」
そんな他愛もない会話を交わしながら、ちょうど一番家が多い地域に差し掛かった時――
「――っ!」
塔から音が降り注いだ。
とても、とても。強い音だった。
「くっ……エリ、これを……!」
僕はポケットに忍ばした謎かけをエリに見せた。
これまでも外出中に何度かこういうことはあったから、できるだけあわてず、ゆっくりと、エリの手に紙を乗せて。
「ぐ、ぁ……」
だけど
「あぁ……ぁああああああ!」
エリはその紙をぐしゃりと握りつぶした。禍々しい黒い爪が、歪な形の甲殻が、エリの白い肌をどんどんと覆っていく。
「ぁあああああアアああああアアアアアアアアアアア!」
すさまじい咆哮は、衝撃を伴って僕に襲い掛かった。
地面にたたきつけられた僕は、混乱する頭を抱えて視線をあげる。
音狂いの三文字が、脳裏をよぎった。
「な、んで……?」
『なぜ、君の作った謎を解いている時、変容や音狂いの状態になったり、ならなかったりするのか。そこを解き明かすことこそが、エリの幸せにつながると私は思うよ。だからそれまでは、家でおとなしくしているのが一番だ。今はまだ我慢の時だ、カイト』
レイナさんの言葉を思い出す。
ああ……知っていた。分かっていた。だけどあえて、それを無視した。
目先の楽しさにとらわれて、レイナさんの忠告を無視したから。
「ゴァァアアアアアアアアアアアアアアアア!」
だから、こうなったのか。
悲鳴があがる。怒声が飛ぶ。
土ぼこりをあげて、家が倒壊する。
ついさっきまで平和だった村に、悲鳴と怒号が飛び交っている。
僕は暴走するエリを、ただ茫然と見ることしかできなかった。
無力な僕は、立ち上がることも、声を上げることもできず、血の気だけが引いて行って、意識が遠のいていって。
そして視界が暗く、黒く、染ま――
「まったく、なんだって今日に限って村の中にいるんだ君たちは!」
凛とした声が僕を現実に引き戻した。周囲の怒号が、川に飛び込んだ時みたいに、耳に入り込んだ。
「レイナ、さん……?」
「後ろに下がっていろ、カイト! エリは私が……ここで食い止める!」
地面をけり上げる鋭い音が聞こえた時には、既にレイナさんはエリの懐に入り込んでいた。
鋭い衝突音が響いて、レイナさんの五尺棒とエリの爪がぶつかり、弾けた。
よろけたレイナさんの脇腹に、エリの回し蹴りが入る。
少し顔をしかめながら、レイナさんが口を開く。
「おいおい、遅めの反抗期か? 文句があるなら……ちゃんと言葉にして伝えてみろ!」
エリの猛攻は止まらない。およそ人のものとは思えない咆哮をあげながら、レイナさんに黒光りする爪を振り下ろし続けている。
塔から降る音は、まだやまない。
早く止まってくれと、止んでくれと願った。
だけどそんな僕の願いなんて、当然聞き入れられるはずがなかった。
「がっ……」
エリの肘がレイナさんの腹部をえぐった。
続けて、一瞬宙に浮いたレイナさんの足を払い、追撃をかける。刹那、交差するように五尺棒がエリの顔面を襲った。互いが紙一重でそれをかわし、距離を取る。
一拍置いて始まったその後の攻防は、僕の目では追いきれなかった。
ただ、無数の衝突音が周囲に降り積もっていて、視認できないくらいの数の打突が応酬していることだけは分かった。
やがて一言、レイナさんがつぶやく。
「すまないエリ。足を一本、もらうぞ」
ひときわ大きく空気を切る音がして、五尺棒がエリの右足に振り下ろされた。強烈な一撃は、エリの右足をへし折って彼女の動きを止める――そのはずだった。
甲高い音が鳴って、レイナさんの五尺棒が弾き飛ばされる。
「なにっ!?」
エリの右足が、毒々しい色の甲殻でおおわれていた。ソラト病は、塔の音が降り注ぐたびに進行する。レイナさんが狙いを定めた右足が、まさに今、変容した。
予想外の手ごたえに体勢を大きく崩したレイナさんに、エリが容赦なく襲い掛かる。
「レイナさん!」
僕の叫び声をかきけすような、ぐちゅりという嫌な音がして。
エリの右腕が深々とレイナさんの胸を貫いていた。
肉片の混ざった真っ赤な血しぶきがパッと散った。
「あ、あぁ……」
エリが右腕を抜くと、レイナさんの体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
音狂いはまだ続いているようで、エリは右足を引きずりながら、ゆっくりと村の中へと歩いて行った。
「あぁぁ……」
僕は地面に倒れたレイナさんに近づいた。胸からあふれ出る大量の血が、もう取り返しがつかないという現実を、無情にも突き付けていた。
「レ、イナさん……」
僕の声に反応して、レイナさんが首を傾けた。
何かを喋ろうとしている。
だけど口を開くたびに、彼女の口からは血があふれ続けたから。
僕に伝えようとした言葉はすべて、血の中に紛れて、地面に吸われていってしまった。
やがてレイナさんはあきらめたように静かに笑って
「ぁ……」
僕の頭を引き寄せて、自分の額と僕の額を合わせた。
力なく、頭が撫でられる。
「ごめ……ごめん、なさい……。レイナさん……」
額がすりつけられた。首を横に振っているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「僕は……とんでもないことを……」
唇にレイナさんの親指が当たった。頬を優しく包んだ手は、やがて離れて、村の奥を指した。血にまみれた口が、小さく動く。
『行け』
そう言った気がした。
エリを追えと、そう言っているのだと思った。
あいつを守れと、命じられたのだと気づいた。
だから僕は、走り出した。
自分の恩人の死に際を看取らずに、置き去って、走った。
ごめんなさいと、胸の内でつぶやく。
いつもいつも生意気でごめんなさい。
約束を破ってごめんなさい。
何の恩返しもできなくてごめんなさい。
最後に伝えた言葉が、「ありがとう」じゃなくてごめんなさい。
住宅地に差し掛かった。たくさんの人の気配がする。
怒号と悲鳴が飛び交っている。
角を曲がればすぐそこだ。
切れた息を整える余裕もなく、僕は足を動かし続けた。
ごめんなさいと、また胸の内で叫ぶ。
この期に及んで、まだエリは、エリだけは助かってほしいと、そんな虫のいいことを考えてごめんなさい。どうかあいつだけは助けてあげてくださいと、普段祈りもしない神様にお願いしてごめんなさい。
でも、他にどうしようもないから。
僕に何ができるのかも分からないから。
だからただ謝り続けて、祈り続けて、懇願を続けて。
そして僕は――その光景を見る。
エリを取り囲む数人の屈強な青年たちを。
エリの体を貫いた、無数の槍を。
勝利の雄たけびを上げる、たくさんの村人を。
「エリ!」
と、叫んだのだと思う。
そこから先の記憶はひどくあいまいだ。
村人の群れをかき分けて、エリのもとに駆けよった。
エリは僕の顔を見ると、安心したように笑って――そのまま息を引き取った。
「嘘だぁああああああああああああああああああ!」
村人たちはエリの亡骸を抱きかかえた僕を遠巻きに眺めていた。
近づきたくない、声もかけたくない。だけど、目を離すのも怖い。そんな複雑な気持ちだったのだろう。
そんなやつらのことは心底どうでもよかったから、僕はしばらくその場にとどまり続けた。