ソラト病
朝起きると、エリの額に青白い鉱石が埋まっていた。もう五年も前のことだ。
まだ八歳だったエリは、鏡に映った自分の姿を見て、大声で泣いていた。
ソラト病がいかに恐ろしい病であるかは、学校で嫌というほど聞かされていたからだと思う。
父さんも母さんも泣いていた。
今思えば、あの涙にはどんな意味がこもっていたのだろうかと、疑問に思う。だって父さんも母さんも、その日のうちにはエリのことを殺そうとしたから。
だからあれは、自分の娘を失うことではなく、そんな残虐なことをしなくてはならない、自分自身を哀れんだ汚い涙だったんじゃないかと思う。
ともかく、父さんと母さんが血のつながった他人になったから、僕はエリを連れて逃げ出すことにした。だけど当時ようやく十歳になったばかりの僕が、そう遠くまで行けるはずもなくて。
エリと一緒に行き倒れていたところを拾ってくれたのが、レイナさんだった。
◇◇◇
「カイト。君は聡いが、愚かだな」
夕飯時、蒸かしたジャガイモをつつきながら、レイナさんが楽しそうに言った。
昼間、僕がベランダから叫んだことを言われているのは明らかだった。
「それ、矛盾してません?」
「ふ。やはりまだまだ子供だなあ。聡明さと愚鈍さは、時に同居するものだよ」
子供じゃありません、とここで言うのは負けな気がして、僕は黙ってご飯を飲み込んだ。
「ソラト病の話をしたら、エリのことが話題に上がるのは明らかだった。エリはこの家から自由に出ることもできず、一方的に言葉を浴びせられるのは分かり切っていたのに、どうして。という顔だな」
「……」
本の続きが気になるから、と早々に夕飯を食べ終えて、自分の部屋に駆けこんでいったエリのことを思う。レイナさんの迷惑になるといけないから、なんて言ってあいつは僕のことを止めたけれど……一番傷ついているのは、他の誰でもないエリのはずなんだ。
ソラト病を患っているエリは、家から出ないようにとレイナさんからきつく言われていた。音狂いの状態になった時、すぐに自分が対応できるように近くにいて欲しいのだそうだ。
外に出るときは、レイナさんが必ずついてきて、しかも数えるくらいの回数しか出ることを許されない。エリは一年の大半、ベランダより向こう側に行くことができないのだ。
「知識というのは平等に、公平に分け与えられなくてはならない。主観に沿った解釈を教えるわけにはいかないし、誰かの知りたいという欲求を止める権利は何人たりとも持っていないんだよ。エリもそれはよく分かっているはずだ」
なんだか言い訳しているようにしか聞こえなくて、僕は口を尖らせた。
「でも、エリは音狂いになりません。変容だって、まだ右手がちょっと歪な形になっちゃってるだけですし……。僕が作った謎かけを解いてる限り、あいつは大丈夫なんです」
エリがソラト病を発症した日の夜、塔から音が降ってきた。エリは苦悶の表情を浮かべ、獣のようなうめき声をあげながら、部屋の壁を壊した。
死をあれほど身近に感じたのは、後にも先にもあの時だけだった。父さんは震える手で護身用の狩猟銃を構えて、母さんはただ部屋の隅で震えていた。
僕の目の前には自我を失ったエリが立っていて、変容を始めた凶悪な右手を振り上げた。
だけど……その手が振り下ろされることはなかったのだ。
「謎かけ、ね……。そんなの突飛な話過ぎて、誰も信じないだろうさ。なんせ、実際にこの目で見るまで、私も半信半疑だったからな」
僕は昔から謎かけや暗号を作るのが大好きだった。そして、エリはよく僕の作った謎かけを解いて遊んでいた。だからだろうか。
あの日、エリは僕を襲うことなく、静かに床に落ちた暗号を解き始めた。
謎かけや暗号を見せている限り、エリは塔の音を聞いても暴走しない。そう確信した僕は、エリを連れて逃げだすことを決意したんだ。
「でも、事実です」
「いいや、まだだ。まだ不安要素が残ってる。なあ、カイト。そもそも、どうしてエリは謎かけを解いている時に『変容』も『音狂い』もしないんだ?」
またこの質問か、と僕はため息をつく。返答は決まっていた。
「知りません。いいじゃないですか、暴れないなら」
「それも間違いだ。正確には、暴れる時もある。そうだろう?」
何度暴走したエリを止めたと思ってるんだ。と、レイナさんは人差し指で傍らに立てかけた五尺棒をとんとんと叩いた。僕の伸長ほどもあるすらりとした棒は、彼女の護身用の武器だった。
遺跡を巡り、幾度となく野良ソラトと戦った経験のあるレイナさんは、音狂いしたエリの暴走をいなし、危機を脱してきた。
「最近はめっきり回数も減ったじゃないですか……」
「たまたまかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにせよ、今のままではあまりにも不安定だ」
レイナさんが寄り掛かった椅子が、ぎいと音をたてた。
「なぜ、君の作った謎を解いている時、変容や音狂いの状態になったり、ならなかったりするのか。そこを解き明かすことこそが、エリの幸せにつながると私は思うよ。だからそれまでは、家でおとなしくしているのが一番だ。今はまだ我慢の時だ、カイト」
「……はい」
「ふふ、いい子だ。さ、今日作った謎を見せてくれ」
レイナさんの言うことが間違っていないのは僕にも分かっていた。
だけど……じゃあそれが解明されるのは一体いつになるんだろう?
五年先?
十年先?
それまでエリは、いつ降るかも分からない音におびえながら過ごさなくちゃいけないんだろうか?
外で元気に走り回る同じくらいの世代の子供たちを、ただ眺めていることしかできないのだろうか?
そんなことをもやもやと考えていると、エリが部屋から元気よく飛び出してきた。
「レイナさーん! この本ね、とーっても面白かったよ! 音楽ってすごいね! 面白いね!」
「ははっ、そうかそうか、気に入ったか。苦労して採ってきた甲斐があったってものだ」
「次もまた、こういう本採ってきて?」
「保証はできないが、善処しよう」
レイナさんはエリの頭をなでながら、優しく言った。
分かっている……分かっているんだ。
外に出ないようにという制約は、他の誰でもない、エリのことを思って言っているのだということも。
外に出られないエリのために、売ればかなりの値段になるはずの古書を、遺跡からそのまま持って帰ってきてくれていることも。
僕たちを養うために、以前よりも村での仕事を増やしているということも。
そして何より……見ず知らずの僕たちを大切に思ってくれているということも。
全部全部、分かっているんだ。
だけど、それでも僕はあいつに、自由に外の世界を歩いてほしかった。
ソラト病にかかる前みたいに。