8
何が起きたのか、新妻靖子にはわからなかった。
蓮華芽衣子が何かを言った直後、自分の体がゆっくりと落ちていく感覚に襲われた。
そして、靖子は思い出していた。
自らの過去を。そして、今、自分が抱えている問題の始まりを。
私が両親の実の子でないということを初めて知ったのは小学校に入学して間もない頃だった。
ある日の午後、私が学校から帰ってきて間もなく、その女性は現れた。
母も彼女を知っているような様子を見せていたが、決して彼女の来訪を歓迎しているようには見えなかった。
彼女は居間にいた私を目にすると――
「靖子ちゃん、久しぶりね。私のこと憶えてる?」
と親しげに声をかけてきた。もちろん、私には覚えがない。それでもきっと自分のことを知っている人なのだろうと、私は丁寧に頭を下げた。
そんな私を見て、彼女は目を細めた。
「立派になったわね。靖子ちゃんは大丈夫? 問題ない?」
私はその言葉の意味がわからなかった。
「そういう話は止めてください」
母が慌てて止めに入ろうとすると、彼女はそんなことを気にすることもなく、さらに言葉を続けた。
「ねえ、もう一人預かってもらえないかしら」
「何おっしゃってるんですか」
驚いて母が問い返す。
「大丈夫よ。実の子でもない靖子ちゃんをこんなに立派に育てているんだもの。あなたなら大丈夫よ。一人も二人も一緒でしょ」
その時の母の慌てた顔はこれまで見たことがないものだった。
「止めてください。子供の前で何言ってるんですか」
「あら? まだ話していないの? 靖子ちゃんを引き取ってもらう時、ちゃんと話したわよね。そういうことはいずれわかるんだから、早いうちから話しておいたほうがいいのよ」
「ウチにはウチのやり方があります」
「そんなこと言ってるうちに話しづらくなるのよ。隠しておくのは良いことじゃないわ。ねえ靖子ちゃん、あなたはね――」
私に向かって話し出すのを――
「か、帰ってください」
少し怒ったように母が彼女を追い返す。
その女性は、私が幼い頃に預かってくれていた施設の園長先生だった。
園長先生はそれからも時折、訪れては同じように両親に頼み込んだ。母はそれを嫌っていたようだが、園長先生はそんなことを気にすることはなかった。両親は養子を取る変わりにと、施設に寄付をするようになったようだが、むしろそれが悪かったのか園長先生はいっそうやって来るようになった。
「うちも大変なのよ。あなたたちのように理解があるご夫婦っていうのは少なくてね。ねえ、お願いよ」
彼女が来ると、私はいつも部屋から出てこないように言われた。それでもこっそりと耳を澄ますと、そんな彼女の大きな声が聞こえてくるのだった。
いつも彼女が帰っていくと、両親は二人で暗い表情で俯いていた。
ある日、その話を聞き怒った祖母がその園長先生を自宅に呼び出した。その中でどんな話し合いが行われたのかは私にはわからない。
ただ、夜になってから祖母が現れ――
「もう心配ないよ。あの人はもう現れないから」
そう言ってから私を強く抱きしめてくれた。
その後、園長先生とは会っていない。
ただ、その出来事は幼い私の心に深い傷を残した。
そんな私が、常に誰かに頼っていたいと思うようになったのは自然なことかもしれない。
ずっと祖母は私の心の支えだった。
学校の帰り道、私は時折、祖母の家を訪ねてはその家の庭に多く咲く花たちを眺めた。私にとって癒やされる時間だった。
縁側に座り、庭の花の手入れをする祖母を眺めた。
「それは何をしているの?」
「朝顔の支柱を立ててるんだよ」
「朝顔って自分だけで生きていけないの?」
「美しく咲くためだよ。それに支えられて生きるのは悪いことじゃない。この世の中、誰かにすがって生きるなんて当たり前のことさ」
「当たり前なの?」
「そうさ。この世の中、いろんな生き方があるもんさ。支えが必要な時はいつだって誰かに支えてもらえればいい」
祖母が私のことを言っているのは間違いなかった。
「私、あの家に居てもいいのかな」
「当たり前じゃないか。あんたがそんな心配をするのは仕方ないのかもしれないね。でもね、あんたのお父さんもお母さんもあんたのことが大好きなんだ。あんた、いつかこの家に住んでおくれよ」
祖母の言葉が嬉しかった。
そんな祖母が亡くなったのは中学を卒業した春休みだった。
私は最大の理解者を失った。
そして、それが私の生活に大きな影を落とすことになった。それは単に祖母を失ったことの悲しみというだけではなかった。
祖母の存在は両親にとっても大切な支えだった。
その祖母を失ったことで、私は一人でいることが不安になった。いつも誰かがそばにいてくれないと、ちゃんと立っていられないような思いが心をしめた。
私はその存在を求めた。
高校に入学したその日、私は自分が頼りにしていい人を探していた。
真っ先に惹かれたのは音無雅緋さんだった。
「ねえ、音無さん、音無さんは部活、どうするの?」
放課後、私は恐る恐る話しかけた。
「興味が無いわ」
「わ、私も部活には入らないつもりなの。じゃあ――」
「私に媚びないで」
バッサリと彼女は私を切り捨てた。
驚いたがさほどショックではなかった。それほどまでに彼女は突出していたからだ。あまりに強すぎる存在は私がすがることも出来ないだろう。私がすがろうとすれば、きっと彼女は私のことを突き放す。
驚いたのはその彼女に対して意見をした人がいたことだ。それが蓮華さんだった。
「音無さん、そんな言い方ないんじゃないの」
「そお? 悪いけど、あなたたちに対する言い方に気をつけるほどの余裕が無いの」
雅緋さんはそのまま帰っていった。
もちろんその蓮華さんも私にとって強すぎる存在だった。ただ、その日から彼女は私にとっての憧れとなった。
私がもっと強ければ、私があの人のようになれたなら。
そんな思いで私はいつも彼女をそっと見つめるようになった。
両親が離婚について話し始めたのが今年に入ってからだ。もともと二人の関係は以前のものとは少し違っていたらしい。祖母が亡くなったのを機会に、さらに関係が悪化したようだ。
私はどうなるのだろう。二人が言い争うのを見るたびに、私はそんなことを考えるようになった。
私は二人の子供ではないのだ。
二人にとって、きっと私はただの荷物でしかない。
このままでは私は捨てられてしまう。
そんな不安にかられた。
(あの人のようになれたなら……)
蓮華さんへの憧れはさらに強くなっていった。蓮華さんのようになりたい。せめて、彼女の傍にいられたら。そんな時に文化祭の季節が近づいてきた。実行委員になれたなら彼女と一緒にいられる時間が増える。でも、こんな私がなれるはずがない。
誰かにすがれば、誰かに全てを委ねてしまえば、こんな悩みは消えるのかもしれない。
その思いは日に日に強くなっていく。
そんな思いで私は祖母の家の前に立つ。
祖母が亡くなった後、時々、母が庭の掃除をしているらしいが、庭は以前よりも荒れるようになった。それでも花は毎年のように咲き乱れる。
朝顔が、祖母の作った柵に蔓をからませている。
――私がおまえを守ってあげるよ。おまえの想いを叶えてあげるよ。
それは亡くなったはずの祖母の声。
私は聞こえてくる声にすがった。