8.賽は投げられた sideロンダ
「うん、いいよ」
緊張していった駆け落ちの誘いを彼は、実にあっけなく承諾した。ぽかんとしてしまう。逆に焦ったのは私だ。
え? 私、ちゃんと言ったわよね?
駆け落ちって、言ったよね?
動揺して目眩がしてきた。それなのに、目の前の人は平然とコーヒーを飲んでいる。私は顔をひきつらせた。
「今の仕事もやめて、家族にも会えなくなるのよ?」
「あー、そうだね。でも、大丈夫だよ。俺は気楽な四男だし。俺がいなくなったって、「へぇー」で終わるだろうし」
へぇーって、……どんな家よ。
どんな家族なのよ……!
「仕事はまぁ、アルファ君がいるし、なんとかなるんじゃない?」
なんとかって……。
「駆け落ちを願ったわりには、俺のことを心配するなんて、君はいい子だね」
「いい子って……」
「そんないい子ちゃんが、出会ったばかりの男に駆け落ちしたいなんていうんだから、そうとう追いつめられているんでしょ?」
う。するどい……
黙っているか迷ったけど、私は大きく息を吐くと、理由を話した。自分の夢のこと、ミランダのこと、そして、婚約式のこと。
「なるほどねぇ。はははっ。アルファ君ってばやるなぁ。婚約式だなんて」
「笑い事じゃありません。とにかく、婚約式の前に私が消えれば、ミランダしかいなくなる。元々、二人はうまくいっていたんだもの。お母様だってミランダが婚約者になることを納得せざるをえないわ」
「そんなにうまくいくかなぁ。君の話を聞いている限り、ミランダ嬢は、自分が身代わりだっていう自覚があるようだし。アルファ君を好きだとしても、君がいなくなったら、自分のせいだと思い込んで、アルファ君と婚約をしなくなるかもしれないよ?」
「それは……」
ミランダの性格からして充分、ありえる話だ。でも、他に方法が見つからないのよ。
ぐるぐる考えていると、ヨーゼフ様が実に単純な答えを示してくれた。
「ちゃんと思いを伝えることだね」
思いを伝える?
「どうも君は、いや、君たちは言葉が足りないように思える。相手を思う気持ちはあるのに、本心を伝えていない。それが事態をややこしくしているんだよ」
彼は手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。いつもの軽口ではなく、ゆっくり話だした。穏やかな笑顔だったけど、私を見る目が鋭くて、背筋が伸びた。
「ミランダ嬢はアルファ君のことが好きなのに、君に遠慮して、それを伝えてない。アルファ君はミランダ嬢が好きなのに、好きって伝えてない。どうせ、婚約式の話だって、母親が勧めてきた縁談だけど、自分が好きだから正式にしたいってだけなんだろう」
彼の指が私をさす。
「そして君は、ミランダ嬢が好きで二人がうまくいってほしいと思っているのに、伝えていない。相手を思っての行動って言えば聞こえがいいけど、俺から言わせたらただのお節介。いい迷惑」
指がおろされる。彼の発する声が冷ややかになった。
「君が今からやろうとしていることは、幼稚で、自分のことしか考えてない、身勝手なことだ」
冷や水を頭から被ったような衝撃があった。
――自分のことしか考えていない。
私、ちゃんとミランダのことを考えていたかしら。結婚したくなくて、逃げ回っていただけじゃないのかな。知り合ったばかりのこの人も巻き込んで。
……最悪だ。私、子供だわ。
落ち込んでうつむいていると、彼が手を伸ばして、ポンポンと頭を撫でる。それが意外なほど優しくて、目頭が熱くなった。
「……子供扱いしないでください」
「ははっ。涙目で睨んでも可愛いだけだよ」
それにかっと頬が熱くなり、眉がつり上がった。彼はにこにこと相変わらず笑っていた。それを見ていると、毒気が抜かれちゃった。
「……逃げることはやめにします。家族と話し合います」
「うん。それがいいと思うよ」
いい子、いい子と撫でられて、こそばゆい。
「……その……ごめんなさい」
「え?」
「私の浅はかな考えで、あなたを巻き込むところでした。ごめんなさい。あと……」
私はちらっと彼を上目遣いで見た。
「叱ってくれて、ありがとうございます」
頭を下げた。顔をあげると、彼は脱力して、テーブルに突っ伏していた。え? なになに?
「やばい……」
「え?」
ヨーゼフ様は片目だけをこちらに向け、上目遣いづかいで私を見つめる。なんだろう。心なしか、彼の頬が赤いような気がする。
「今、すっごく君にキスをしたい。してもいい?」
「は? キス??」
「うん。口づけをさせてくれませんか?」
は?
え?
ええええ!?
口づけですって――!?
「だめ?」
「ダメですよ!!」
甘えるように見つめられて顔が熱くなる。
いやいやいや、いーやあああっ!
なんでそうなるの?! 私、謝っただけよ!
好きともなんとも言ってないわよね? ねぇ!?
はくはく口を動かしていると、彼の顔が近づいた。え? 近い?
「ロンダ……」
低く囁かれた声。初めて呼ばれた名前に、頭が真っ白になる。私は見ていられなくて、目をつぶった。
むにーん。
たっぷり間を開けた後、頬に痛みを感じた。驚いて目を開けると、いたずらっ子のような彼の笑い顔があった。
「ははっ。変な顔ー」
からからと笑われながら、頬が引っ張られている。頬がぐにーんって、引っ張られているわね。ぐにーん……って、なにそれ!
この男~~~~っ!
私の純情をもてあそんだわね!
許すまじ!
「放してください!」
手を振りはらうと、彼は肩をすくめた。その態度がキザったらしく見えて、今度こそひっぱたいてやろうと、手を振り上げるけど、あっさりかわされた。
「ははっ。怒らないー、怒らないー」
「これが怒らずにいられますか!」
「あれ? じゃあ、期待したの?」
「なっ!」
「期待しちゃった? 俺とのく・ち・づ・け」
カッチーン。
今度こそ殴ってやる。
ええ、この拳をもって、殴ってやるわ!
「その固く握りしめられた拳はおさめてね。怖いから」
「怒らせたのは、そっちでしょ!」
「ははっ。その調子、その調子。そうやって元気に怒っていた方が、君らしいよ。しょぼくれた顔よりずっといい」
振り上げた拳は行き場をなくす。ものすごくわかりにくいけど、もしかして、慰めてくれた?
もう冷めてしまったお茶を飲みながら、彼は変わらず笑っていた。
なんだか、腑に落ちないけど、私もお茶を飲む。冷めきったそれは、苦い茶葉の味だけが口に広がった。
「あ、そうだ。色々とうまくいったらさ、一緒に駆け落ちしよーね」
「は?」
「せっかくの君からのお誘いなんだし、忘れないでね」
今度こそ私の怒りは頂点に達した。
「忘れてください!」
そう言って振り上げた手はまた、なんなくかわされてしまうのだった。
*
その後、逃亡計画をやめた私は家族に本心を打ち明けた。夢のこと、そのために婚約することはできないということ。ばあやを丸め込んで身代わりを計画したこと。そして、ミランダとアルファ様がうまくいってほしいと願っていること。逃亡しようとしたことまで、全部、隠さず。
お母様から、とんでもなく怒られるかと思った。
でも、お母様は怒らなかった。怒っていたけど、泣いてた。バカな娘だって、なぜ、もっと早く言わなかったんだって、泣いていた。
叱られるよりも堪えた。
あぁ、本当に私はバカだった。バカな娘でごめんなさいって何度も、何度も謝った。
ミランダにも叱られた。例えアルファ様と婚約できても、私がいなくなったら、喜べないって。
「ロンダがいなくなるなら、私は婚約なんてしないから!」
「ミランダ……」
「アルファ様はお慕いしているわ。でも、でもね、私はロンダが大切。だって、家族じゃない……二人だけの姉妹じゃないっ…… 私のために離れるなんて言わないで。離れる時はロンダが幸せになる時よ。それ以外はダメ……ダメダメっ……絶対にダメなんだから……!」
泣きじゃくるミランダを抱きしめて、私も泣いていた。ごめん、ミランダ。ごめんなさい。バカなお姉ちゃんでごめんなさい。
それからミランダは、緊張の糸が切れたのか倒れるように寝込んでしまった。
ミランダの体調がなかなか戻らない間に、アルファ様からの手紙が届いた。お母様を説得して私自身がお話をしたいって言った。
私から始めたことなんだから、自分の手で身代わりを終わらせなくては。
そう思って、アルファ様の前に立っている。
私がロンダだと言うと、アルファ様は驚いたように目を見張った。
*
「私がロンダ。あなたとお会いし、手紙のやりとりをしていたのは、妹のミランダです」
唖然と聞いているアルファ様に、立て続けに言う。
「私は婚約などしたくありませんでした。それは夢があったからです」
アルファ様に火をはく竜を探しに行く夢があることを告げた。
「だから、私はミランダに身代わりをするように仕向けたのです。でも!」
ぐっと力を込めて言う。
「ミランダは悪くありません。あなたとお会いする日に、わざと寝込んでいるフリをしました。手紙を書かせるようにしたのも全て私がいいました。全ては私のせいなんです!」
私は頭を下げる。
「ミランダに嘘をつかせたのは、この私です。お母様も私の思惑を知りませんでした。ですので、全ては私が悪いのです。どうか、どうか罰するなら私一人でお願いします。私一人にしてくださるなら、どんなお咎めも受けます」
必死だった。
でも、私にはこれしかできないから。
処罰によっては夢も諦めようと思っていた。
今は夢より家族が大事だから。
だからどうか、どうか。
長い沈黙の後、アルファ様が近づいてくる。
「失礼」
「え、」
ゆっくりと手を伸ばすと、首にかかった後ろ髪をはらった。
行動の意味が分からず、アルファ様を見上げる。
「君にはないんだな」
「え?」
「私が思いを寄せる女性には、ここにホクロがあったはずだ」
その言葉に驚いた。アルファ様の言うとおり、私達は瓜二つだけど、一つだけ違うところがある。
それは、首にあるホクロ。ミランダにはあって、私にはないもの。アルファ様は気づいたのね。
「ミランダ……というのだな。本当の名前は……」
アルファ様が愛しそうに妹の名を呼ぶ。それだけで、込み上げてくるものがあった。
「君を罰することはしない」
「しかし、私は……」
「君のおかげで、私はミランダに会うことができた。感謝こそすれ、罰するなんてとんでもない」
アルファ様が少し微笑まれる。
「彼女に出会わせてくれて、ありがとう」
その言葉に涙がこぼれた。私はバカなことをしたけど、一つだけやってよかったことがある。
それは、アルファ様とミランダを出会わせたこと。
それだけは、やってよかったと心から思う。
「もったいないお言葉です。私の方こそ、妹の相手がアルファ様で、本当によかったと思ってます。あの子、体が弱いことで、結婚を諦めていましたから…」
「そう……なのか。今もミランダは」
「私が色々とやらかしたものですから、心労を重ねて、今も寝込んでいます」
「そうか……」
「あの……アルファ様。ミランダが病弱なこと……その……二人が結ばれるにあたり、障害になるのでしょうか?」
お母様が一番懸念していたことだ。ミランダがいくらアルファ様を好きでも、たとえ、アルファ様も同じようにミランダが好きでも、病弱なミランダに伯爵夫人が務まるのか。私もそれは心配だった。
「問題はない。私が伯爵を継ぐとなっても、彼女の体を考慮してなるべく、屋敷ですごしてもらうようにする」
アルファ様は真摯な眼差しをむけてくれた。
「私はミランダがいい。ミランダと添い遂げたい。そのための努力は惜しまない」
力強い言葉に、安堵のため息が出た。
「よかった……ほんとうに、よかった……」
呟いた後、私はアルファ様に手紙を差し出した。
「これを伯爵様に」
「父上に?」
「ことの詳細が書いてあります。本当はお会いしてお詫びしたいのですけど、お忙しい方だと聞いたので」
「両親には私から言う。なにも君一人が悪者になる必要はない」
「いいえ。嘘をついたことには変わりはありません。私、二人のこれからに、しこりを残したくないんです」
アルファ様は大きく息を吐き出した。
「わかった。預かる」
ほっとする。
「だが、覚えてほしい。父上や母上が何を言おうと、私の気持ちは変わらない」
それに微笑んで、私はお礼を言って頭を下げた。
アルファ様はああ言ってくださったけど、伯爵夫妻が同じ考えとは限らない。侮辱されたと思うかもしれない。ミランダとの婚約を嫌がるかもしれない。それだけは嫌だった。
だから、願いを込めて真摯に手紙を綴った。
どうか、どうか、二人がうまくいきますように。
アルファ様とミランダが初めて出会ったときみたいに、私はベッドの中で必死に祈った。
ただ、祈った。