6.逃げられたのなら… sideアルファ
走り去る彼女の背中を目で追いながら、血の気が引く思いがした。失敗した。彼女を怖がらせた。自分の顔がいかつく、女性を怯えさせるものだということを、すっかり忘れていた。
顔を近づけ、声に熱を込めるべきではなかった。
彼女から見たら、私の態度は命令するみたいに聞こえたはずだ。今日は軍服姿だから、余計に高圧的に見えただろう。
「っ……」
なぜ、近づいたんだ。
彼女とは将来を見据えて、ゆっくりと距離を縮めようと思っていたのに。
彼女だって、〝ゆっくり互いを知りましょう〟と手紙に書いてくれたじゃないか。それを私は……
両手で顔を覆い、後悔のため息を吐いた。
なぜ、婚約式をしようと言った。
なぜ、焦って距離をつめた。
彼女からの贈り物が嬉しくて、感情的になったのは認める。彼女への愛しさが込み上げて、喫茶店に戻るのを惜しんだのも確かだ。
まだ二人でいたい……なんて考えてしまい、彼女の細い腕を掴んで、力ずくで引き寄せた。乱暴なことをしたと思う。
彼女の目を見たら、自分のものに早くしたくて、婚約式の話をしていた。
なんだ、この感情は。
私は何を焦っているんだ。
頭を大きく振り払い、ベンチから立ち上がった。驚かせたことを誤らなければ。
しかし、急いで戻ると、彼女は目も合わせてくれなかった。
上気していた桃色の頬は、真っ白になっていた。それを見て、想像以上に怖がらせたことに、気づいてしまった。冷や水を頭からかぶったみたいに、全身が強ばる。
言葉は凍りついて、喉からでてこなかった。彼女に対して謝罪すら言えず、その日は彼女とあっけなく別れてしまった。
最悪だ。
彼女から届いた手紙により、後悔の念は、さらに深くなった。
──────
アルファ様へ
先日はせっかくお会いできたのに、逃げるように帰ってしまい申し訳ありませんでした。
家族と話し合いますので、婚約式の話は少しお待ちください。
どうか、お体に気をつけてください。
ロンダ・カリムより
──────
いつもより短い文章。彼女の心が私から離れていくのが、ありありと伝わってくる。
家族と相談か。
前にもあったな。優しい断り文句だ。しばらくすれば、彼女の父親から縁談白紙の手紙が届くだろう。そうやって前にも断られた。だから、今度も、きっと……
悪い想像だけがふくらみ、最悪の未来しか描けなくなる。想像するだけで、鋭いものでこじられたように、胸がずきずき痛んだ。
これで、おしまいなのか。
彼女との縁は、これでおわりなのか?
あの笑顔は、もう……見れないのか?
嫌だ、と思うのに、今の自分に何ができるというのだろう。
婚約を解消されても、考え直してほしいと、すがるのか。彼女は嫌がっているのに、無理やりものにするのか。そこまでして、彼女が欲しいのか。
「……そんなことできるか」
はっと、漏らした言葉は自嘲が含まれていた。
私は羽ペンをとり、短い手紙をしたためた。
――――
ロンダへ
この前は驚かせてすまなかった。
返事はいつでもいいから、ゆっくり家族と考えてほしい。
ハンカチをありがとう。
アルファ・アールズバーグより
──────
手紙を書き終えて、香水を炊いて封筒に香りづけした。彼女が好きだといったカーネーションの香りだ。
店で香水を見つけて、気づいたら買っていた。
無意識に香りづけをしていて、はっとする。
未練がましくて自分でも嫌になる。
「はあ……」
胸ポケットにしまいこんだハンカチを取り出して、広げる。彼女が私の幸運を願ってくれた四つ葉のクローバーを見つめた。
「君と一緒にいるのが、私の幸運だよ」
刺繍された葉を指でなぞり、私はしばらくの間、ハンカチを見つめつづけた。
*
その後、彼女の返事はこなくて、虚しい日々が続いた。毎日、詰所の配達係に確認をしているが、一向に手紙がこない。あからさまにため息をついてしまい、近くにいたヨーゼフが声をかけてきた。
「毎日毎日、うっとおしいぐらいため息をついてどうしたの?」
ムッとして、顔をしかめる。
「別に……」
「ちっとも、別にって顔じゃないけど、どうしたの? 話してごらんよ。一人で悩むより、誰かに話す方が気が紛れるよ?」
ヨーゼフの言葉に余計なお世話だと思いつつ、心は限界だった。私は休憩時間に、彼に婚約式を断れるかもしれないと話した。
彼はやれやれと言いたげにため息をついた。
「で? いつまでウジウジしているのさ」
言い方に腹が立って、短く答えた。
「今は、待つしかないだろう」
私に何ができるというのだ。
「そんなの逃げだよ」と、ヨーゼフは切り捨てた。思わず眉根をよせる。
「だいたい、どうして急に婚約式なんて言い出したの? なんかいいムードだったから、勢いで?」
その通りだから、言葉に詰まった。言い出したきっかけは、勢いだった。でも。
私は手を前に組んで、指先を見た。知らずに指先に力がこもっていた。
「……彼女を早く自分のものにしたくなった」
ぴゅーっと、からかいの口笛がなる。ヨーゼフを睨むとニヤニヤされた。
「本気になっちゃったんだ」
「そうだな」
隠すことでもないので、素直に言うと。
「いいね、いいね。君から婚約式を言い出すなんて初めてじゃないの?」
指摘されて、確かにと思った。破談になると思っていたから、婚約式をすることすら、最初は考えていなかった。今までも、婚約式の前に断られていたから、私から言うこともなかった。
「でさ、君の本心は伝えたの?」
「本心か?」
「そうそう。君を好きだから、婚約式をしたいって言ったのか?って聞いているの」
目をしばたたいた。私の顔を見たヨーゼフの目が据わる。
「…………本心は伝えてはない」
「……そうだと思ったよ」
ヨーゼフは芝居がかったしぐさで、肩を落とした。
「あーあ、じれったいたらないね。彼女の苦労が分かる気がする……」
「苦労?」
「伝えてないものはしょうがない。それはいい。でもさ、もし、このまま婚約解消なんてなったらどうするの? それでいいの?」
「………」
「婚約解消になったら、ロンダ嬢とはまるっきりの他人だよ? それでいいの?」
「………よくは……ない」
「彼女の微笑みも、優しさも、熱っぽく見つめる瞳も、自分には向けてくれないかもしれないんだよ? それでいいの?」
「よくは……ない」
「誰か他の男が、彼女の愛情を独占して、あの柔らかそうな唇に口づけするんだよ? それで――」
「よくはない」
他の男が彼女と口づけするなど、想像もしたくない。他の男が彼女に触れるなんて、許したくない。触れていいのは私だけ。私だけにしたい。
「ふふん。いいねー、アルファ君。嫉妬に狂った男の目をしているよ」
嫉妬? これが? こんな黒い感情が、彼女を食らい尽くしそうな感情が、嫉妬か?
「今の気持ちを、彼女と話すことだね」
「………」
「手放したくないのなら、本当に欲しいのなら、なりふり構わず奪うまでだよ。アルファ・アールズバーク」
本当に欲しいのなら。
再度、自分に問いかける。
彼女が欲しいか?
答えはすぐにでた。
私は彼女が欲しい。自分のものにしたい。誠心誠意、愛情を注ぎたい。そして、彼女の愛ももらい受けたい。なら、今、すべきことは?
「彼女と話してくる。私の気持ちを言葉で伝えたい」
そう言うと、ヨーゼフは満足そうに笑った。
「フラれたら骨は拾ってあげるから、ぶつかってらっしゃい」
ヨーゼフの言葉に少し笑ってしまった。
心の中にあった霧が晴れたようだ。結果がどうであれ、今は進む。そう思って彼女へ手紙を書き出した。
────
ロンダへ
君と話がしたい。大事な話だ。だから、今度の休みに会いに行く。
君の好きなカーネーションの花束を持って会いに行く。
アルファ・アールズバークより
────
休みの日、私はカーネーションの花束を手に一人、彼女の家を尋ねた。扉をノックし名を告げると、夫人が出てきた。顔色は悪く、ぎこちない笑みを私にむけていた。
「これはアルファ様ようこそ……」
「いえ。私の方こそご都合も聞かず訪ねてしまい申し訳ありません。ロンダ嬢はいらっしゃいますか?」
「あのロンダは……その……」
歯切れの悪い言葉をする夫人の後ろから、すっと人影が出てくる。ロンダ? 一瞬そう思ったが、勝ち気そうな瞳が、彼女のそれとは違う気がした。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「君は、彼女の妹の……」
「ミランダです。覚えていてくれて嬉しいですわ」
丁寧にお辞儀をする彼女を見つめた。
「あいにくお姉さまは体調が優れなくて、お会いになるのは無理そうなのです」
体調が悪いのか。
「それは、すまない時に来た。せめて、一目だけでも会えないだろうか」
「申し訳ありませんが、アルファ様にうつしてはいけないと言われております。お姉さまの気持ち、分かってください」
そう言われると何も言えない。まったく、私はタイミングが悪いな。
「ではこれを」
「まあ、素敵な花束。お姉さまも喜びますわ」
花束を渡し終えて出直そうと考えた。すると、彼女の妹が、にこりと微笑んで言った。
「せっかくですので、少しお話しませんか? お姉さまのことでお話したいことがありますの」
「ロっ――!」
夫人がなにかをいいかけた。それを妹は指を一本口元に立てて、遮った。
「では、アルファ様、参りましょう」
「あぁ……」
ロンダのことで話したいこととは、なんだ?
私は彼女と共に歩きだした。
ゆっくり二人で歩き出す。実によい天気だ。彼女と歩いた時もこんな日、だったな。少し感傷に浸っていると、妹が足をとめる。
「アルファ様。アルファ様は、お姉さまが好きですか?」
思わぬ質問に足を止めた。相変わらず彼女の妹はにこにこと笑っている。真意がよく分からないが、その答えは彼女の身内に隠しておくようなことでもない。
「好きだ」
真剣に言うと、彼女の妹は満足そうに微笑んだ。
「よかったわ。お姉さまも、アルファ様のことが好きです」
その言葉に目を見開く。
彼女が、私を好きだと?
驚きすぎて思考を停止させる私を見つめ、妹は話だした。
「私もお姉さまが大好きなんです。お姉さまには、幸せになってもらいたい。だから、アルファ様に本当のことをお教えしますわ」
さぁと、私たちの間に風がふいた。
「私の本当の名前はロンダ。ロンダ・カリム。あなたの本当の婚約者ですわ」
私は小さく息を飲み干した。
彼女たちと出会ったときに感じた違和感を思い出す。
母上の話では、ロンダはしっかり者で伯爵夫人という仕事をこなしてくれそうだと言われていた。ヨーゼフと彼女の会話を聞いた印象では、目の前の彼女の方が、母上から聞かされていた女性に当てはまった。
しかし、私は彼女が嘘をつくような人と思えなかった。あんな純粋な人が、名前を偽る必要もないだろう。だから、疑念はすぐに消した。
なぜ、彼女たちは入れ替わりなんてしたのだ?
私は薄く開いた口を引き結び、目の前の女性を見つめた。