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四季彩宝石箱  作者: 泉柳ミカサ
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空っぽのバカラグラスを氷で満たして

バカラグラスの中で氷がカランと音を立て崩れた。

八畳ほどしかないバーで馬鹿に響く。

八坂が足繁く通う『グラス.ラ.レーヌ』にはBGMはない。そのため氷一音が場を統べる。

「相談?」八坂は旧友の氷崎を見つめていた。

昨夜、突然氷崎から相談があるとの連絡が入った。

八年振りに会ってみると、氷崎の顔には翳りがあった。彫りの深い顔が余計に陰を誇張させている。学生時代、陸上部でトラックを快走していたころの精悍さは微塵もない。

「まぁな」氷崎は不安定に視線を泳がせ、手元のテキーラを呷った。

カウンター席が八つのみの店内には、客は二人だけだ。

「神妙な顔して、相談事ってこっちか」

八坂が冗談めいて小指を立てらせた。

旧友の顔が固まり、やがては凍てついた。目だけがウロウロとあてもなく動いている。

図星、の二文字が脳裏を掠めた。八坂は微笑みながらバーボンを口に含んだ。喉を潤すより、考える時間が欲しかった。

バーボンの苦味から逃げるかのように、学生時代の氷崎が蘇った。

顔のお陰か、はたまた個人の才能か、当時の氷崎は月並み以上に女性との交遊を営んでいた。一人の女性で頭を悩ませる男ではなかったはずだ。

八坂はグラスを木製のコースターに置いた。「訳ありか?」

「恋をしたんだ」氷崎がいった。

「恋? えらく聖人君子気取りな発言だな」

ジョークに変えてみせたものの、脳内は余計にこんがらがった。女性との付き合い、扱い……どれを取っても氷崎の方が勝っていた。

一言、彼の方が大人だった。

「お前を信頼した上でだが……」氷崎が語尾を濁らせる。

「何だ改まって、水臭い。そんなチグハグな関係じゃないだろう」

「それはそうだが、彼女のためにも口外はよしてくれ」真剣そのもので捲し立て、氷崎が勢いそのままにグラスを大いに傾けた。

八坂は眉間を力ませた。もう冗談で表情を暈せられる領域ではなくなった。彼以上の覚悟が必要だ。

「もちろん口外などしない。だが、どういう意味だ? 彼女に問題があるのか」

氷崎はゆっくりグラスをコースターに乗せた。「それは難しい問いだな。仮にこれを彼女の問題点として捉えるなら、非常に遣る瀬ない。だがイイ線だ」

「ひどく婉曲じみたコメントだな」

「悪い……でもこれを見れば、俺のいわんとする意味がわかるはずだ」

そういって氷崎はジャケットの内ポケットから写真を一枚取り出した。

「なるほど、そういうことか……」

写真には二つの笑顔があった。場所は遊園地か、背景に観覧車が映っている。その前で氷崎がピースをしている。いい笑顔だ。

そして氷崎の隣にはピンクのダウンコートを羽織り、負けじと屈託のない笑顔を浮かべる、幼女がいた。

「バラっていうんだ、彼女」氷崎が徐にいった。カウンターに指で『葉羅』となぞり書きする。

「可憐な名前じゃないか」

「だけど棘がある」

「笑えないシャレだ」八坂はいった。「ちなみに彼女はいくつだ」

「確か今小二だから、今年で八才だ」

八坂はそうかと呟き、改めて写真を眺めた。

葉羅は綺麗にとかれた茶色い髪を後ろで一本に束ねており、大人びた雰囲気を漂わせていた。ただ、それでも八坂が今まで関係を築いてきたどの女性よりもあどけなかった。

「彼女――葉羅さんはお前のこと、どう思ってるんだろうな」八坂は写真を氷崎へ戻した。

「感じのいいお兄さんだろうな」

「まぁそうか……」八坂は天を仰いだ。「向こうの両親はなんと?」

「まだ打ち明けてない。いい人だけに、な」

「じゃあ、お前はどうしたいんだ」天井から視線を下ろし、氷崎を見つめた。かつての精悍さがようやく垣間見れた。

「付き合いを経て、結婚を、と考えている」

「揺るがないんだな」

氷崎が強く頷いた。しかし、哀が混ざった青い顔色だ。「やっぱり変か」氷崎が呟いた。

「ん?」

「八才の子を愛すことだよ。馬鹿みたいだろ」

「そうだな……もし葉羅さんが十六なら、心底お前を馬鹿にしてたさ」

「……なぁ八坂、その八才の差って何だと思う?」

「さぁな」八坂がまた一口バーボンを流す。「ただ一ついえるのは、この世で八才の壁はまだまだ厚いってことだ。空っぽな馬鹿ばかりだよ」

氷崎がフッと嗤った。「それは今後の俺への洒落た釘打ちってか」

「そうじゃないさ」そういって八坂はグラスに残っていたバーボンを一気に流しこんだ。「マスターいつものコイツのも含めて二杯頼む」

マスターと呼ばれたベストを着こなした初老の男性は一つ目を合わせてから、無言で作業に入った。

男性は専用の保存庫から酒瓶、冷凍庫から胎児ほどある円柱の缶を取り出した。

「何だあれは」

「氷だよ」

「氷?」氷崎はきょとんとした顔つきで、ことの成り行きを待った。

初老は缶に容れられていた氷山をアイスピックで欠いた。胎児の握りこぶしほどの氷塊がバカラグラスに落とされていく。

そして酒瓶から、真白な液体が岩鼻で捩るせせらぎのごとく注がれていった。

しばらくして二つのグラスがカウンターに並んだ。

「まぁ飲んでみろ」

いわれた通り氷崎はグラスを傾けた。

「……」

「どうだ」

氷崎が目、口を閉じ余韻を味わった。たっぷり二分、氷が場を統べる。

「深く、硬いな……水か?」ようやっと、氷崎がぼそりと呟いた。

「あぁ、だがただの水じゃない。純水だ」

「純水……」

「だが、こうも深いのは氷があるからだ」

「氷?」氷崎が首を傾げた。

「この店の氷は他とは比にならない。扱ってるのは最低でも純氷、上にいけば、銘酒にも使われる名水や営業許可の得た井戸水のみで汲んだ水を凍らせている。さらに極めつけはこれだ」八坂は目の前のグラスを指した。「この氷は十万年以上も前の氷だ」

「十万年前……」

「気が遠くなる話だろ。年を経れば経るほど氷ってのは純度を増すんだ。……愛もそうなんじゃないのか?」八坂が優しく問いかけた。

柔和な蜃気楼が店内に降り包む。氷崎の表情がいくぶん澄み立った。

「なるほどな……この氷の前じゃあ俺の悩みはちっぽけってわけか」

「いや、そうじゃない。ただお互い時間が若かっただけさ。これから共にときを経て、純度を増していけばいい話だ」

「もう少し、あと少しの辛抱か」

「いや、もうすぐさ。世間の氷が溶けるのは……」

また氷が場を統べた。

氷崎は堪らず純水をすべて流し入れた。

喉が贅沢に鳴った。

「乾杯」八坂もグラスを空け、氷崎のグラスに付け合わせた。

バカラグラスの中で氷がカランと音を立て崩れた。

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