死にたかったか、龍馬 その七
同年一月十七日(一八六六年三月三日)兵庫から船で大坂に向かう
同年一月十八日(一八六六年三月四日)大坂・薩摩藩邸に入る
「いよいよ、薩長同盟成約と寺田屋遭難事件という時期に入ります。十八日に大坂に着いた龍馬は三吉慎蔵を伴って、幕臣の大久保一翁をその屋敷に訪ねます。いくら旧知の間柄とは言え、大久保は幕臣、一方、龍馬は幕府から見たら危険人物とされていた人ですから、訪問された大久保もびっくりしたのではないでしょうか。訪ねて来た龍馬に、君は奉行所から厳重手配のお尋ね者になっているよ、と忠告したほどです。龍馬はこの忠告を受け、感謝して大久保邸を辞去したということですが、どの程度、龍馬は身の危険を感じていたのでしょうかねえ」
「良く言えば、大胆不敵、悪く言えば、危険に鈍感、リスク管理ができていない人ということになりますなあ。自分に迫る危険に敏感で常に細心の注意を怠らなかった桂小五郎、『逃げの小五郎』とは大分性格が違う人だった」
小泉さんが笑いながら言った。
同年一月十九日(一八六六年三月五日)淀川を遡航、伏見・寺田屋に入る
同年一月二十日(一八六六年三月六日)京都薩摩藩邸に入り、西郷・桂の間の齟齬を知る
同年一月二十二日(一八六六年三月八日)京都薩摩藩邸において薩長同盟の成約なる
同年一月二十三日(一八六六年三月九日)寺田屋において伏見町奉行配下の襲撃を受ける。伏見薩摩藩 邸に潜伏
同年一月二十九日(一八六六年三月十六日)伏見薩摩藩邸から京都薩摩藩邸に移る
同年二月五日(一八六六年三月二十一日)桂の書簡に朱筆で裏書きをする
同年二月二十九日(一八六六年四月十四日)京都薩摩藩邸から伏見薩摩藩邸に移る
同年三月五日(一八六六年四月十九日)西郷・小松らに同行して大坂を出港する
同年三月十日(一八六六年四月二十四日)鹿児島に着き、小松邸に入る
「龍馬は念願の薩長同盟を果たしました。中岡も薩長同盟推進派ですが、この時は不在で薩長同盟成約には立ち合っていません。龍馬が西郷を叱り飛ばしたという逸話も有名です。一月二十日に龍馬が、桂と西郷が薩長同盟の成約に向けた話し合いをしているであろう薩摩藩邸に勇躍赴いたところ、桂が憮然とした顔で帰り支度を始めている。妙だな、と思い龍馬が桂に訊ねたところ、薩長同盟に関する話は一切出ない、立場上、長州からは切り出せない、仕方がないから帰る、と桂は龍馬に語るのです。聞いた龍馬は激怒して、西郷のところに行き、長州があまりにも可哀想じゃないか、と言って西郷に食ってかかるのです。龍馬の言葉を聞いて、西郷は直ちに桂の居る部屋に赴き、非礼を詫び、漸く薩長同盟に関する話し合いに入るという件です。司馬遼太郎はこのあたりを書きたくて、『竜馬がゆく』を書き始めた、という話を残しています。面白い話です。案外、小説執筆の動機というのはそんなものかも知れませんね。この薩長同盟が成立した時点で、幕府の命運は既に尽きた、とする歴史家も多いところで、一介の脱藩浪人が天下の帰趨を決したと言っても過言ではなく、龍馬が果たした最大の仕事となりました。しかし、禍福は糾える縄の如し、という格言もある通り、世の中、いいことばかりではなく、ちゃんと悪いこともやって来るものです。薩長同盟成立という沸き立つ気持ちで常宿の寺田屋に戻り、護衛役となって貰っている三吉慎蔵を相手に酒を酌み交わし、さあ寝ようかと思っていた矢先、伏見奉行所の役人が寺田屋を囲み、龍馬を捕縛しようとするのです。寺田屋遭難事件の勃発です。捕方に気付いたお龍が二階の龍馬たちの部屋に駆け込み、捕方襲来を告げるのです。龍馬は高杉晋作から貰ったピストル、三吉は使い慣れた手槍で役人と闘います。この闘いの際、龍馬はピストルを持った手指を役人に斬りつけられ、負傷することとなります。しかし、諦めることなく、寺田屋を逃れ、その後、いろいろとあったものの、無事薩摩藩邸に匿われることになるのです。この時、お龍は入浴中であり、物音がするので浴室の格子から覗いて見たところ、大勢の捕方役人が居るということに気付き、ほとんど裸のまま、二階に駆け上がり、龍馬に注進したという有名な逸話が残されています。緊迫した雰囲気の中でとても色っぽい情景もあり、ドラマでは結構盛り上がるシーンですが、実は入浴中では無かったというのが真相らしいです。午前二時と言えば、草木も眠る丑三つ時ですか、その時まで龍馬と慎蔵は飲んでいて、さあ寝るかということで、お龍は龍馬たちの飲み散らかした膳を階下の台所で洗っていたところ、役人の襲来に気付いた、というのがどうも真相であるとのことです。別に、裸でも何でもなかったわけで、ちゃんと衣服は着ていました」
同年三月十六日(一八六六年四月三十日)お龍を伴い、日当山温泉に泊まる
同年三月十七日(一八六六年五月一日)塩浸温泉に赴き、傷養生につとめる
同年三月二十八日(一八六六年五月十二日)霧島温泉に行く
同年三月二十九日(一八六六年五月十三日)高千穂峰に登り、天の逆鉾に戯れる
同年四月十二日(一八六六年五月二十六日)二十七日間の新婚旅行を終え、鹿児島に帰る
「龍馬は正式にお龍と結婚し、西郷さんたちに同行して鹿児島に行き、日本で初とされる新婚旅行を楽しむことになります。龍馬とお龍、一番楽しい時期だったと思いますね。龍馬はこの新婚旅行を長い手紙に綴り、乙女姉さんに送っています。天の逆鉾を引き抜いたり、ピストルで鳥を撃ったり、人生で最良の時を満喫したと思います。龍馬の死後、お龍さんは折に触れ、龍馬と暮らした日々を懐かしんでいます。その懐かしい思い出の大半はこの二十七日間に渡る新婚旅行では無かったでしょうか。薩長同盟の功労者として薩摩は龍馬夫妻を精一杯もてなしたでしょうし」
「新婚旅行。ああ、そう言えば、木幡夫妻の新婚旅行の話はまだちょっとしか聞いていないなあ。少し、休憩してから、新婚旅行の話、もっと詳しく話を聞かせてよ。どれ、美智子たちを呼んで来るから」
と言い残して、小泉さんは少し離れたところにあるキッチンの方に歩いて行った。
少しして、小泉さんは美智子先輩と雅子を連れて、戻って来た。
「さあて、木幡君、メキシコ新婚旅行の話を一杯聞かせてよ。前はほんの触りだけで物足りなかったから」
美智子先輩が私と雅子双方に視線を向けながら言った。
こういう時の美智子先輩の眼は狩人のような眼になる。
こうなったら、昔からそうだ、後輩の私としては観念する他はない。
まあ、しょうがないとばかり、観念して私たちの二週間ばかりの旅の話をした。
「メキシコという国は日本から見て、同じ北半球にはありますが、まさに地球の反対側にある国で遠い国です。飛行機でも十四、五時間はかかります。ここを新婚旅行の地に選んだのは僕ではなく、雅子のほうなんです。はい、ここからは雅子さんに譲ります」
雅子は私を見て、微笑みながら話を引き取った。
「今、義信さんがお話ししたように、メキシコは遠い国なんですが、私は昔から憧れていました。憧れの源はマヤ文明なんです。いつかは、マヤ文明の遺跡を訪れ、その遺跡に吹いている風を体に感じたいと思っていたのです。それで、新婚旅行はどうすると、義信さんから訊かれた時に、できれば、マヤ文明のメキシコに行きたいとお答えしたのです。行って、正解でした。メキシコシティからユカタン半島のメリダに行き、メリダを拠点にして、チチェンイッツァ遺跡とウシュマル遺跡を巡って来ました。チチェンイッツァ遺跡はとても広い遺跡で、カスティージョという大きな階段状ピラミッドはとても素敵でしたわ。でも、遺跡周辺の野原では、大きなトカゲ、イグアナという名前の大きなトカゲが至るところに居て、びっくりするやら、驚くやら、私がやたら怖がって義信さんから笑われてしまいました。ウシュマルの『魔法使いのピラミッド』という綺麗な形のピラミッドの石檀に居たイグアナを写真に撮って来ましたので、後でお見せしますわ。グロテスクな形のトカゲなんですが、よーく見ると、愛敬があって可愛いんですよ。このトカゲは、メリダの後、数日ほど寄ったカンクーンという大きな観光地にもいました。ホテルの中庭をノソノソと歩いているんです。ここでも、私は悲鳴を上げて、義信さんにまた笑われてしまいましたが。マヤの遺跡も満喫し、メキシコのエキゾチックな風景にも満足し、タコス含め、エスニックな料理にも満足し、あっという間の二週間でした」
私たちはそのような会話を交わし、午後のひとときを談笑しながら過ごした。
その夜は夜景を見ながら、雅子が作った手料理を食べて夕食とした。
そして、翌日は私たちが小泉宅を訪問し、昼食をご馳走になることとなった。
「さて、木幡君、始めよう。昨日は、龍馬とお龍さんが新婚旅行を終えて、鹿児島に帰ってきた、そこまでだったよねえ」
小泉さんと私は応接室のテーブルを挟んで座り、龍馬年譜を取り出した。
同年五月二日(一八六六年六月十四日)五島列島沖でワイルウェフ号転覆す
同年六月二日(一八六六年七月十三日)桜島丸(旧ユニオン号)にて鹿児島を発す
同年六月四日(一八六六年七月十五日)長崎へ寄港し、お龍を小曽根別宅に預ける
同年六月十二日(一八六六年七月二十三日)五島有川町江ノ浜郷に赴き、遭難墓碑を建立
同年六月十六日(一八六六年七月二十七日)下関到着。桂と面談する
「龍馬たち、亀山社中を突然の悲劇が襲ったね」
「亀山社中が薩摩藩の援助を得て長崎の英国商人グラバーから購入したばかりの帆船ワイルウェフ号が長崎を出て鹿児島に向かう海上で激しい時化に見舞われ、沈没してしまったのです。グラバーから買った船の値段は六千三百両ということでした。今の金で言うと、三億円か四億円といったところですね。船よりも大変だったのはその船に乗り込んでいた同志を十二名失ったことでしょう。これは亀山社中にとって大きな打撃となりました。何と言っても、熟練した船乗りを失ってしまったわけですから。龍馬の心中を察するとあまりあるものがあります。でも、その後、ちょっといい話があります。このワイルウェフ号を曳いていたのが桜島丸といって龍馬たちには馴染みの蒸気船で旧名をユニオン号と言います。長州藩のために薩摩藩の名義で買った船で鹿児島に寄港した後、下関に着港した時点で長州藩に引き渡されることとなっていました。さて、桜島丸は長州藩から薩摩藩に供与される兵糧米を五百俵積んでおりました。鹿児島に着き、積荷五百俵を薩摩藩に渡そうとしましたが、西郷隆盛は固辞してどうしても受け取ろうとはしませんでした。致し方無く、鹿児島を出て、下関に入り、西郷固辞の旨を桂小五郎に話し、長州藩に返そうとしました。しかし、桂も結局、受け取りませんでした。『報国の資』として亀山社中が貰ったそうです。乗組員十二名を失った亀山社中の心中を察した西郷・桂の阿吽の呼吸とでも言うのでしょうかねえ。香典代わりの五百俵ということですかねえ。亀山社中と言えば、日本で初めての株式会社であると云われております。とすると、株は一体誰が持っていたのでしょうかねえ。株は持たなくとも、利益に応じて、それなりの配当を得た人が居たのでしょうか。考えられる人としては、龍馬を支援した豪商たちの名前がすぐ浮かびます。下関では、白石正一郎とか伊藤助太夫といった豪商たち、長崎では何と言っても、亀山社中に屋敷を提供していた小曽根英四郎といった豪商の名前が脳裏に浮かびます。彼らは株主というよりは、見返りを期待しない大口のスポンサーであったかも知れません。勿論、将来的に龍馬たちが偉くなった時に、利子を付けて返して貰おうといった商人らしい先読みで応援していたのかも知れませんが。先行投資、或いは、賭博的な投機といった感覚でしょうかねえ。それとも、単に龍馬たちの意気に感じての好意かも知れませんが。まあ、それはともかく、下衆の勘繰りは止めましょうか。この亀山社中は面白い組織で、社長は勿論、龍馬ですが、龍馬のこととて威張ることは一切無かっただろうし、ちょっとびっくりするのは、龍馬以下全員が同じ給料なのです。一律、三両二分という給料でありました。或るメンバーが、確か陸奥だったか思いますが、少し安いと文句をつけたところ、龍馬から三両二分と言えば、一人の下女が一年間一生懸命奉公して漸く貰う金だ、不平不満不足を言うんじゃない、と逆にたしなめられたという話も残っています。一両を六万円と換算すれば、二十一万円という月給になり、大卒新入社員の月給と同じぐらいになります。多いか少ないか、微妙な線ですね。亀山社中の経営も段々厳しくなり、最後の頃には薩摩の紐付きとなり、給料も薩摩から支給されていたという話もあります。これが、土佐海援隊になって、月五両に上がりましたが、足りない、足りないと隊員が会計係の岩崎弥太郎のところに来て、無理やりお金をふんだくっていったという話も伝わっています。丸山遊郭で豪遊すれば、いくらあっても足りませんよねえ」
同年六月十七日(一八六六年七月二十八日)関門海峡での長州対幕戦に参加する
同年六月二十日(一八六六年七月三十一日)白石正一郎宅で高杉晋作と会談する
同年七月四日(一八六六年八月十三日)山口から下関へ対幕戦を見物に駆け付ける
「桜島丸と名を変えたユニオン号は長州藩のものとなり、今度は乙丑丸とまた名を変えます。そして、たまたま行き遇わせた、第二次長州征伐、長州から言えば対幕戦に参加することとなります。龍馬は亀山社中の仲間と共に、幕府と戦うこととなりました。これに関しては、龍馬が故郷の実家に出した有名な絵入り手紙が残されております。海戦の様子を迫真の筆、図入りで記録したルポルタージュとなっています。その後、七月四日は『どうぞ又ヤジ馬ハさしてくれまいか』と小郡から見物に行きましたが、既に長州軍の勝利で戦争は終っており、この龍馬の意気込みは空振りという結果になりました」
同年八月十五日(一八六六年九月二十三日)鹿児島から長崎に到着し、小曽根宅に入る
同年十二月十七日(一八六七年一月二十二日)山口にて桂に溝淵広之丞を紹介する
慶應三年一月十二日(一八六七年二月十六日)長崎・清風亭において後藤象二郎と会談する
「龍馬は三十一歳になりました。後、残り一年足らずの命となりました。しかし、龍馬は慌ただしく動いております。そんな中で、世の中には不思議な巡り合わせがあります。絶妙のコンビ結成というか、だから歴史は面白いとも言えます。土佐藩参政の後藤象二郎との巡り合いです。後藤象二郎は武市半平太の指示で土佐勤王党員によって先年暗殺された土佐藩参政・吉田東洋元吉の甥にあたります。土佐勤王党を憎むこと甚だしく、自分が藩政の実権を握るや否や、武市半平太たち土佐勤王党員を捕え、牢にぶち込み、吉田東洋殺しを徹底的に追求し、関係した者を厳しく処罰して弾圧に努めた男です。土佐勤王党にとっては、仇敵とも言える後藤を溝淵は龍馬に紹介したのです。この時、後藤は薩長が主導する幕府打倒の機運、時代の動き、政局の変化に土佐も参画していくべき機会を窺っておりました。龍馬と関係を結ぶことができれば、龍馬を通じて薩長の情報は入るであろうし、亀山社中の海運輸送並びに武器手配のルートを当てにすることができれば、土佐として大きく幕末の政局に打って出ることが可能となるのです。後藤はかなり野心的な男です。一方、龍馬は龍馬で、亀山社中の経営悪化に苦しみ悩んでおりました。一時は、社中解散も決意したほどです。薩長という顧客に加え、社中を後援、バックアップしてくれる藩を物色していたとも言えます。ここで、両者の提携の必要性は極めて大きくなってきたということです。清風亭という料亭で会った二人は殊の外、馬が合うという結果になりました。この出会い以後、龍馬・中岡というコンビの他に、龍馬・象二郎という新コンビが結成され、龍馬・中岡コンビが薩長同盟締結に向けて協働したように、龍馬・象二郎という新コンビは大政奉還という土佐藩が主導する大きな活動に邁進していくことになります」