人の願いと神の基準
人々は知っているのだろうか。誕生したすべて生命に終わりなど無かったという事実を。
最も終わりを恐れていたのは他でもない神様であるという事実を。
陸玖瀏は妻の頬に付いた血を拭い、その頬を撫でてから来栖と向かい合った。
「奴がここを訪れたとき、儂はようやく世界の変化を知った」
その男は蘇生を目指す奇跡の医師に告げたという。
――爺さん。もう治すことはいい。もう、人は死なない。
死を間際にした患者によく似た、絶望に溺れたような声をしていた。その言葉が事実なら喜ぶべきはずなのに。
――爺さんが望んだんだろ。死人が蘇る世界を。
老医師は男の光無い目を覗き、その男が世界にとって特別だと悟った。老医師にも男にも目を見あうだけで意思疎通をするチカラなどなかったがそれは忘れていたことを思い出す感覚にほど近く、実際にその事実は人類が当然に知ることになった世界の規則でもあった。
――あんたも、世界をこんなにした元凶なんだ。だが、俺とは違う。俺には殺すことしか、終わらせることしかできない。だからあんたに頼む。俺が終えた世界を蘇らせてほしい。
元凶とは何か。老医師には解らなかった。
解ったことは当然だった命の終わりが彼なくしては訪れないというどこか狂気じみた世界の変化と、己が成すべきがいよいよ本当に、死を過程にするということだった。
突然現れ一方的に話し去ろうとする男に老医師は名を聞いた。
――俺は……そうだな、ただの殺人鬼だよ。
自虐的で諦めたように笑みを見せつけた男はそう答え、再び世界を終わらせるために歩き始めた。
老医師にはその背を見送ることしかできなかった。彼がこれから誰かを殺めることがわかっていても、それを止める資格などないということをようやく知った変化した世界から教えられていた。
「今なら儂が元凶の一人だというのがどういうことかわかる」
語っていた陸玖瀏は自分に向けて言うように続けた。
「神様というやつはどこまでも人を愛していた。だから、ただ純粋に人の願いを叶えたわけだ」
話は終わったとばかりに小さく息を吐く陸玖瀏に、来栖は静かに笑った。
「つまり、先生は私に、世界中の狂人に期待しているわけですか。蘇生があれば何度でも殺せるから、人が蘇る世界にしてくれと」
「もうそんな期待も裏切られたがな」
かつてはそうだったと。言外に告げた陸玖瀏に、来栖は腹を抱え笑った。
「先生、面白いですよ本当に。本当に、狂ってます」
人の願いは必ずしも皆同じではなかった。
死を望むものが居れば不死を望むものも居る。蘇生を望むものが居れば当然その逆も。
ならば、人の願いを元に世界を変え続けた神様は、誰を基準に願いを叶えたのだろうか。