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サイレント・マーメイド  作者: たま
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十三話:人魚姫と結末

 朝の光は残酷なほどにまばゆく地上を染めていきました。うつくしい橙色の交った白い陽光は魔法の力に蹂躙されていた藍色の空気をもすべて打ち払い、清らかに浄化していくかのようでもありました。


 スオウはしばらく呆然としておりましたが、やがてもはや何のちからのかけらもない両の手のひらをぶらりとおろしました。

 助ける機会はいくらでもあったはずでした。あの人魚の娘が泡にならずにすむ方法は、ひとの心を読むことのできたスオウになら、もっと早くから探ることができたはずでした。

 もしくは西の魔女が漠然とはいえ自分の力を得ることを目的としていたのなら、はじめから交渉を持ちかけることもできたはずでした。そう、マリンが人間になる契約をする前になら、このようなことは起こらなかったかもしれません。

 もちろんそれは今考えても詮無いことでした。しかしそれでも考えずにはおれませんでした。


 最近のマリンはスオウを見ると本当に嬉しそうに笑っておりました。愛らしい美貌をくしゃりとさせ、ただただ素直に自分の感情のままに笑っておりました。



 もう、無邪気でまっすぐであったあの娘はもうどこにもいないのです。





「ああ、こんなところにいた。スオウさん! 」




 いくら時間が経ったのでしょう。

 丘の上で呆然としていたスオウを呼んだのは館のメイド長でした。重そうなスカートをたくしだげ、慌てたようにやってきたメイド長は強張った表情でまくしたてるようにこう続けました。


「あんたこんなところで何してるんだい。大変だったんだよ、厨房でボヤがあったんだ。あんた、鍋の火を消し忘れてたんじゃないかい! 」


 スオウは目を見開きました。

 たしかにそうでした。マリンを連れて海辺に行く前、自分は火にかけた鍋をそのままにして駆け出してしまったのでした。

 いつもの彼ではありえないことでした。しかしあのときは死を覚悟した人魚の娘のことで頭がいっぱいであったのです。



「……! ソフィア様は、みなさまはご無事ですか! 」


 言うなり走り出そうとしたスオウの腕を、メイド長が捕まえます。


「ち、ちょっと落ち着きなさい! ソフィア様は大丈夫だよ。あの子がひとりで火を消してくれたんだから」


 スオウは蒼白の顔をメイド長に向けました。


「あの子」

「ソフィア様が拾ってきたあの声の出ない女の子だよ。ただ……」


 マリン。


 スオウは思わずつぶやきました。その名前は心を読みとれるスオウしかしらないものでしたから、メイド長はやや怪訝そうな顔をしました。

 スオウは俯きます。すくむような恐怖でいっぱいであったこころをえぐられたような気がしました。残されたのは泣きたいくらいの喪失感、それだけでした。あの娘がそれだけ自分に侵食していたのだとそのとき気づきました。

 スオウは今やただの瞳となってしまった黒いそれをメイド長に向けました。


「……消えたのではないですか? 」

「え」

「あの娘は……朝の光で消えてしまったのでしょう? 」


 消えゆく前、マリンが向かったのは厨房だったのです。おそらくはスオウの消し忘れた火のことに気づいたのでしょう。スオウは以前から口を酸っぱくしてマリンに火の後始末を教えていたことを思い出しました。あの娘は最後の最後にまできちんとスオウの言うことを守ったのです。



 海の泡になって消える、直前まで。




「なに言ってんだい! 」



 するとメイド長があっさりと彼に向って叫びました。

 まるで、夜の夢から朝のはじまりへと引き戻すかのように。



「人間が朝の光で消えるなんてことあるわけないじゃないか! 」




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 マリンの意識があったのは、かまどからもくもくと吹き出ていた煙を蓋をして消したところまででした。

 厨房一杯に広がっていた煙を吸い込んだせいでしょう。あんまりにも苦しくて苦しくて、そして煙が目に染みました。ぼろぼろと涙を零しながら転げるように外に飛び出たところで滲んだ視界に飛び込んできたのは藍色の空を走る白い朝の光でした。水の膜でにじんだそれは、とてもとてもきれいに見えました。


 ああ、消えちゃう。


 けほけほとせき込みながらマリンはへたり込み、そうしてそこですうっと意識が途絶えたのでした。







 ……。

 …………。



 庭で海の泡になってしまったらどうなってしまうのかしら。

 空気にぱちんと溶けてしまうのかしら。

 どうか、痛くなければいいのだけれど。

 


 ああ、それにしてもスオウもマヌケなところがあるのねえ。

 いっつも「タイシュツするときは火のカクニンは必ずしておけ」ってうるさいのに、自分が忘れてしまうのだもの。



「……それは認める」



――まったく、気を付けなければ駄目じゃない。人魚だけでなく人間だって火には弱いのだもの。ああでも火より煙のほうが苦しかったなあ。もくもくしているだけではないのねえ。


「そうだな」


 ふわふわとした意識の中、つらつらと考えていたことに答える声は涙が出るほどひどく懐かしいものでした。あたたかな毛布にくるまれているようなまどろみの中、その優しい声にマリンはにっこりしました。


 ああ、どうしてスオウの声が聞えるのかしら。泡になって、空気に溶けて、もしかしたら風にでもなっちゃったのかしら。それならまあいいかもしれないわ。大好きな人の声だけでも聞こえるなら、そう悪くはないわ。


「それは駄目だ」


 ふわふわしたまどろみの中、そのこたえる声はほんの少しだけ切ないものに聞こえました。低い声に苦く吐く息が混じります。


「それでは俺が、困る」


それはまるで、泣き出す手前の子供のような声にも聞こえました。大人びた低くてやさしい声なのに、それは不思議なことでした。

 失ったはずの頬に、あたたかなものが触れます。

 そうしてやさしい声は告げました。



「だから……いいかげん目を開けろ、マリン」




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