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サイレント・マーメイド  作者: たま
12/14

十二話:人魚姫と朝の光

マリンは走っていました。

 ひたすらにスオウのいる浜辺から逆の方向へ。二か月前に手に入れた足を使ってかけていきます。

 すらりとした白い二本の足も足の裏が地面を踏む感触も、それを交互に動かしてまえにすすむのも、マリンは好きでした。人魚だったころのようにうまく泳げる気はしませんが、足はマリンに地面での生活を教えてくれました。

 走るのは好きでした。思えばマリンが走るとスオウが追ってくるのが嬉しかったこともあるような気がします。厨房から丘の上に向かって草木の匂いを感じながら走ると、ソフィアの邪魔をしないかと、もしくはマリンがへまをしないかとスオウが慌てて追ってくるのです。

 そうしてマリンがリカルド王子にまとわりつくと、スオウは問答無用にマリンを担ぎ上げます。最初の頃はそれが本当に嫌で、スオウの服や髪をひっぱったりしたものですが、いつからかそうやってスオウに構われるのが、マリンの一番の楽しみになっておりました。


 マリンは走りながら、背後をちらとみやりました。スオウの姿はありません。けれど銀の短剣をみつけたら必ずスオウは追ってきてしまうのでしょう。それだけ、彼はだれかにやさしいひとでした。


 マリンは冷たい頬をぬぐいました。向かい風にあっては涙はとても冷たく感じることをはじめて知りながら、袖口で目元をこすります。

 そうして泣きながら走り続けると、やがて息があがってきました。胸元が苦しくなってひゅうひゅうと喉が鳴ります。マリンは立ち止まり、丘の中腹から辺りを見渡しました。東の空はまだ明るくなりません。けれど月は確実に傾いてきていて、それがマリンの心をさらに冷たくしました。死を覚悟していても、死への恐怖が消えたわけではないのです。


 マリンはべそをかきながら歩き続けました。ともすれば恐怖で動けなくなりそうでしたので、楽しかったこの二か月を思い浮かべながら歩き続けました。

 海の中の生活も素敵でしたが、陸の上での生活は確実に「マリン」のいう存在が自分の力で生きてきた証でした。できなかった芋の皮むきもできるようになりましたし、お皿も洗えます。朝は早くから起きて火を起こすことも覚えました。人魚であったマリンにとって火は馴染のないものだったので、スオウが火打石を使って手早く火を起こすのが不思議でなりませんでした。火を起こすときになると傍に座ってわくわくとそれを見ていると、スオウが呆れたようにため息をつき、マリンが心の中で望んでいたとおりに火の起こし方を教えてくれたのです。


「こうすれば一晩中火をつけておくこともできる。けれど使い方を間違えると大惨事になるから気を付けるんだぞ……それにしてもお前、火か苦手なんじゃないのか? 」


嬉しそうに火打石を鳴らすマリンに、かすかに不思議そうにそう言っていた理由も今ならわかります。なんせスオウははじめからマリンが人魚であることを知っていたのですから。知っていて、マリンの目的も承知の上で、それでもいろいろと世話を焼いてくれていたのです。


 スオウのことを思うと、死への恐怖がほんのすこしやわらぎました。料理がうまくて、仏頂面だけどやさしくて、最後まで面倒見がよい青年でした。 察しが良すぎて館のひとたちには忌避されている面もありましたが、それを自分自身で努力して補っている、そのような青年でした。

 ぼさぼさの硬い黒髪も黄色がかった浅黒い肌も表情に乏しい漆黒の瞳も、今のマリンは全部好きでした。ハンサムでも格好よくもないけれど、大好きでした。

 スオウの背中も好きでした。鍋の前に立っている後ろ姿をマリンはよく見ていましたから、そのしゃんと伸びた背筋の綺麗な立ち姿は目をつむってでも思い出せました。


 そうしてふとあることを思い出しました。

 

 マリンははっと目を見開きました。そうして胸を抑えたまま屋敷の方角をみつめます。二か月もの間世話になったあの館のものたちはあるじの気質のせいかとても良いひとたちばかりだったように思えます。声も出せないわがまま娘のことをすんなり受け入れてくれたのは真実でした。


 マリンは首を振り、俯きがちに海に背を向けて歩き出しました。しかしすぐに立ち止まり、やがて決心したように踵を返しました。


月は東の方へ、だいぶ傾きかけておりました。




「あの子の魔法は夜明けまでだよ。それで契約は終わりだ。――それでは幸運を、ひとの子よ」


 スオウとの契約をかわし、魔女はあっさりと去っていきました。魔女の目的がそれであったことは事実だったのでしょう。そんな魔女が最後に残した言葉が皮肉であったのか祝福であったのかスオウにはわかりませんでした。その言葉通りすでにスオウは単なる「人間」になっておりましたので、魔女の心の声などもう読めなかったのです。


 魔女の魔法はスオウの一番いらないものを、今一番欲しいものに変えてくれました。銀色の短剣を握ったスオウはちいさく苦笑を浮かべます。忌まわしい力は長らく彼にとって必要のないものでしたが、ほんのわずかばかりの喪失感を与えたのでした。それによりこれまで彼が命をつなげてきたのもまぎれもない事実だったのです。そして、あの人魚の娘の声をもう聞けないという一抹の寂しさもありました。

 魔女はスオウの表情に気づき、その紅茶を流し込んだような色の瞳を細めました。


「それがいらないものであったとしても、長く持っていたならは情もうつるだろうね」


 そういった魔女はちらりと海上でもがいている鴉に目を移しました。それにはわずかにですが自嘲の色も混じっているようでした。それがどういう意味であったのかも、もうスオウにはわかりませんでしたが。



 魔女と鴉の立ち去った海辺にはただただ静かな波の音がするばかりでした。銀の短剣を右手に握りしめたまま、スオウは走り始めました。

 最後にマリンと目があった時にその心はよめておりました。海と反対の方へ。スオウからできるだけ離れなければ。それだけを娘は考えておりました。

 空は漆黒ではなくなりつつありました。東の空からかすかに群青色に変わってきております。月はまだ冴え冴えとしておりますが、その色が薄れていくのも時間の問題でした。


 海から吹いてくる風がスオウの背を押します。この東の海の果てには彼の故郷があるはずでした。彼は故郷から逃げ出してきました。とおいとおい記憶の中、彼は心の声が聞えるが故に人間たちに混じることができなかったのです。


彼のような存在は西の地では悪魔とよばれますが、東の地ではあやかしと呼ばれておりました。その中でも心を読むあやかしはサトリと呼ばれておりました。

 サトリであった父は物心つくまえにはおりませんでしたし、人であった母を幼いころに亡くしました。それからというもの、本物のサトリとはいかないまでも人の心をよめる力を持つスオウは権力者たちの便利な道具として扱われておりました。人に混じって生きることは辛いことでした。なぜなら彼の力によって人がたくさん死んでいくのです。それは幼い子供にとって恐ろしいことでした。

 とはいえ東の地において人の目に触れずに生きていくのは至難の業でした。東の地はもともとあやかしと人の距離が近い場所でありました。そうしてあやかしの住む土地は人間たちによって侵略され始めておりました。

 そんななか、彼を逃がしてくれたのは三匹のちいさなあやかしとひとりの人間でありました。サトリという概念のない西の地ならおまえの力も隠せるだろう、そういって西の地へ向かう船に乗せてくれたのです。


西の地ではたしかに彼の力のことを知る者はおりませんでした。心を読む存在は、この地にはもともといなかったのです。だから彼はただの子供としてこの地におりたつことができました。

 しかし、です。たどりついた海辺のこの国では奴隷制度というものが存在しておりました。民族の違うもの、肌の色が違うもの、顔立ちが特有のもの、それらはすべて奴隷として捕らえられ、裕福なものたちに家畜のように売買されておりました。東の地の顔立ちであったスオウもすぐに捕らえられました。しかしすぐに奴隷商から逃げ出そうとしたところをみつかり、みせしめとして往来でひどい折檻を受けておりました。

 そこへ偶然通りかかったのは、きれいな服を着た10歳ほどの娘でした。娘は馬車を下りて人垣をわりながらあらわれました。そうしてぼろきれのような状態だった彼を連れ帰ってくれたのです。

 それが、ソフィアとの出会いでした。


 ソフィアはこの海辺の国の、さらに海の端にある権力を持たない領主の娘でした。ソフィアは身体こそ弱いものの、聡明な少女でした。この国のそのようなあり方のことを憂いてさえおりました。植え付けられた奴隷への偏見や他民族への差別意識、自分自身のなかで必死にあらがっている少女でした。


 彼にとってソフィアは神のような存在でありました。しかし彼は彼女の植え付けられた意識が彼を拒んでいるのも知っておりました。心の声はすべてを暴いてしまうのです。

 だから彼はすべてを押し殺して彼女に仕えておりました。彼女の存在が彼にとって唯一の存在であることは変わりませんでしたから、ソフィアが心穏やかに過ごせるようにせめてもの心配りをして生きておりました。


 そんなとき、彼女は海辺に倒れていたこの国の王子を助けました。なにかに惹かれるように海辺にやってきたソフィアはそこで運命的な出会いを果たしたのです。

 そうしてそこでスオウはひとりの幼さの残る人魚を見ました。この海色の髪の人魚が歌によって彼女をここへ呼んだことはその心の声によってわかりました。スオウの視線に驚いて逃げてしまった人魚は、かつて東の地で感じていたあやかしの気配にひどく似ておりました。この地では人魚は精霊と呼ばれ、悪魔とは一線をきす存在でしたが、東の地ではそれらは「あやかし」とひとくくりにされていたことを、彼はそこではじめて知ったのでした。

 だとすれば自分は、サトリというあやかしである自分はどちらであるのだろうか。そう思っていると今度は当の人魚が人間の姿になってスオウの目の前にあらわれました。彼の敬愛するソフィアはいつものように困っていた娘を助けました。娘は声を出すことができませんでした。あのときはうつくしい声でちからのある歌を歌っていたのにどうしたことだ。そう思いながら娘の心を探ると、幼くもまっすぐすぎる感情が伝わってきました。要するに、この人魚はリカルド王子に焦がれた末に人間になったとのことでした。

 はじめはそれにただただ呆れたものでしたが、それは人間の概念に縛られない美しいものでもありました。何故だか、なつかしい、彼を逃がしてくれた三匹のあやかしたちのことを思い出しました。


 娘は考えが幼く、愚かな存在でありました。何の考えもなく稀有なものを引き替えに人間になったことはすぐにわかりました。しかしリカルド王子を慕っているくせに彼の想い人であるソフィアを貶めたり弑そうという考えなど露ほどもないこともわかりました。ただ、リカルド王子を慕っている娘でした。それ以外は何もできない愚かな娘でありました。


 だから彼は娘にひととしての知識を教えることにしました。放っておいても良かったのですが、何故だか放ってはおけませんでした。それはふるい感傷ゆえであることもあったでしょう。あやかしの娘のまっさらな感情が心地よかったこともその理由であったでしょう。そうして精霊、あやかしでありながら人間に焦がれるそれは、かつての両親を思い起こさせましたし、いまの自分の姿でもあったからでもありました。


 それからというもの、彼はずっと娘とともにありました。そうして愚かな娘が何故だか自分に懐いていく過程を呆れた気分でみつめてもいました。彼の心の中にはすでに絶対的な存在がありましたので、それを哀れな気持ちでもみておりました。

 例えるならば、拾った子犬のようなものでした。そう彼は認識しておりました。懐いてくる子犬を無下にもできず、ときには愛らしくさえ思っておりました。馬鹿な子ほどかわいい、そういう言葉がありますがその通りだと苦笑気味に思っておりました。


東からの海風が潮の香りを運んできます。それが走り続けるスオウの黒髪を揺らしました。

スオウは走りながら娘の名を呼びました。


「マリン! 」


 海から一番離れた林でスオウは娘を探しました。しかし娘の姿はどこにもありません。丘にも畑にも、娘の姿はありません。

 スオウは焦りました。月は刻一刻と落ちてゆきます。そうして空の色が徐々に美しい藍色に変化していくのを見て顔色を変えました。冷たい汗がどっと吹きだします。ぬめるてのひらが銀の短剣を取り落しそうになりました。


「どこに……」


 走り続け、ぜいぜいとあがる息の中でつぶやきます。月を睨みつけ、少し待てとも思いました。愛しい男の心の臓をこの短剣で突き立てなければ海の泡になって消えてしまうのです。娘は海の泡になって消えてしまうことを恐れておりました。怖い、怖いと思っておりました。ぶるぶると恐怖に震えながら、それでも結局誰かを殺すことなんてできませんでした。娘の心は最後まできれいなままであったのです。


 その娘を消えさせることなどできないと思いました。それは憐みだろうと彼は思っておりました。けれども憐みでもなんでも、娘になら短剣で胸を刺しぬかれても良いと思いました。


 東からの風が吹き抜けます。

 スオウははっと顔を上げました。薄い雲の切れ間はすでに白みがかっておりました。淡い藍色の絵の具を紙に落としたように雲の切れ間から夜明けが始まっていたのです。

 魔女の言葉が脳裏をよぎります。

 


――あの子の魔法は夜明けまでだよ。それで契約は終わりだ。



 水平線から白く神々しい一条の光が海面を照らしだします。それはひどく美しく、残酷なものでありました。手にした銀の短剣がひかりを映しこんでひときわ輝きます。そうして次の瞬間、それはスオウの手の中でほろほろと光の泡になって消えていきました。あわてて掴もうとしたてのひらをもすり抜け、朝の空気の中ほどけていきます。


 それはまるでマリンの魂そのもののようでした。

 その時スオウを襲ったのは、息もできないほどの強い強い恐怖の感情でした。



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