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第四話

第四話


 今夜のカフェイタリアーノは早い時間から大勢の客で賑わっていた。めずらしくピーク時にはウェイティングチェアが足りなくなるほど。

 俺はオーダー取りとカクテルメイクで大忙しだった。梅雨の蒸し暑い夜のせいか、シャンパンとフレッシュオレンジを1対1で割ったカクテル、ミモザがよく売れた。

 マスターはピッツアを焼いたり、人気の小羊カツレツをソテーしたりと、キッチンを目まぐるしく動き廻っている。額には玉のような汗を浮かべていたが、とにかく楽しそうだ。

「マスターこんばんは!」

 まるで舞台で主役を張る看板役者さながらの登場シーンだった。先に入ってきた中島がひどくもったいぶるようにイタリアンレッドの扉を開けると、寸分の隙もなく堂々とした間合いで石井は現われた。

「やあマスター!しかしイタリアーノは大盛況だね。貸し切りパーティでもやっているのかと思ったよ。ハハハハ」

 石井はニヒルで涼しい目を大きく見開いては店内を見廻している。

「そうかい?でも石井さん。たまにはいいでしょう。ジュンの給料日まであと2日だし、本当はこれぐらい稼がないとギャラなんか出せやしないんだ」

 マスターはいつになくジョークを飛ばすほどご機嫌である。

「石井さん、とりあえずカウンターにどうぞ」

 俺はひとつだけ空いていたカウンターの隅に石井を座らせた。初対面の日から連日のようにやってくる石井だが、未だに会うと緊張してしまう。ニヒルでいて自信に溢れた力強い眼差しはどうも苦手だ。

「そうだジュンくん。仕事のことできみとゆっくり話をしたかったんだ」

 石井はカウンターから躬を乗り出して俺の顔を覗き込むように小声で言った。

「まさか、撮影の仕事なんですか?」俺は目を輝かせた。

「来月早々、新しくできる芸能事務所に参加することになってね、今はその準備で大忙しさ。ただね、あとひとり、有能なスタッフを探しているんだけれど、なかなかいい人材が見つからなくて弱っている」

「そうですか。でもすごいなあ、きっと人気タレントも大勢抱えるんでしょう」

「うん、まあね。そこでジュンくんに相談があるんだ」

「あ、はい」

「きみをうちの専属カメラマン兼マネージャーに推薦してみてはどうかと考えている。もしその気があるのなら一度社長に会ってみないかな」

「え!ちょっと待って下さい!おれはまだタレントの写真なんて撮れないですよ。それに芸能マネージャーなんて、おれにできるわけがないです」

 芸能界?アイドル?カメラマン?俺は目の前にそびえ立つ巨大な壁に囲まれてしまう。

「石井さんひどいや。いきなり引き抜きは無しでしょう」

  聞き耳を立てていたマスターは出来上がったばかりのパスタを皿から落としていた。

「まあまあマスター。そんなに怒らないでよ。ジュンくん、また出直して来るからよく考えておいてね。じゃあよろしく」

 甘いマスクからうっすら笑みを滲ませて石井は慌ただしく出て行った。その後に続いた中島が扉のところで振り返るなり、拳を握ってガッツポーズをしてみせた。

 上機嫌だったマスターからみるみる口数が減る。ポンポン飛び出していたジョークさえ喋る余裕がなくなり、工場の無菌室で黙々とコンピューター基盤を組み立てる作業ロボットのように見えてしまうマスター。

 拝啓、髭オヤジ殿。レストランは笑顔も大切ですよね。早く機嫌を直してください。

 結局今夜は、普段より1時間早く10時で店を閉めることになった。

「ありがとうございました。お気をつけて」 

 最後までいた3人組の客が帰ると、マスターは外のネオンを消しに出て行った。戻ってくるなり店内の照明をマックスにする。俺はマスターと目を合わさずにいた。

 しばらくして、俺が酒類の在庫と仕入れのチェックを終えてもマスターは黙っていた。 普段と変わることなくレジを上げると、売り上げをノートパソコンに打ち込んだ。

「マスターおつかれさま。何かつくりましょうか?」俺は努めて穏やかに訊いてみた。

「ああ、きょうは変に疲れたな。どうだい、麦酒でも飲もうか」

 立派な口髭を撫でたマスター。ようやく笑顔が戻ってきたようだ。

 俺は冷えた瓶麦酒とチーズを持ってマスターの前に座った。恐々口髭を覗き込む。

 髭オヤジ殿。店を辞める気はありませんから安心して下さい。

「おれ、今度石井さんがきた時にはっきり断りますから」

 そう言い終えるよりも先に、俺は冷えた8オンスグラスに麦酒を注いだ。真綿のような白い泡からプツプツと炭酸ガスが弾け飛んだ。

 俺はマスターの言葉を待ちながらさりげなく顔色を窺ってみる。

「何だい。さっきからそんなつまらないことを考えていたのか」

 マスターは気難しそうな顔でグラスの麦酒を一口だけ飲んだ。

 俺は無言で真綿のついた口髭を見つめた。 

「とりあえずお疲れさん。ジュンも飲みなさい」

  ニッコリ笑ったマスターは俺のグラスに麦酒を注いでくれた。そして顔を皺くちゃにしながら立派な口髭を撫ではじめる。

「ところでジュン。うちの店に来て2ヶ月半ぐらいは経つのかな?きみはまじめで料理の筋がいいし、客うけもいい。何よりぼくと馬が合うと思っている」

 いきなり褒め言葉を並べられて恐縮してしまう。

「それはどうも、ありがとうございます」

「しかしだ。いいかい?人間には必ず幾つかのチャンスが巡って来る。ところが一度そいつを逃がすと、次はなかなかやって来ない。じつに厄介な代物なのさ。石井さんとはもう2年以上の付き合いになるが、ぼくは信頼できる人だと思うよ」

 マスターは麦酒を飲み干すとグラスを置いた。

「しかし、おれは、まだマスターと」

 マスターはかぶりを振って俺の話を制すると、精一杯の優しい笑顔を浮かべながら立ち上がった。

 店内の照明がゆっくりフェードアウトする。静かな店内に流れだしたカンツォーネの旋律。心地よいリズムがカフェイタリアーノに木霊すると、俺の心を縛りつけていた鎖が解けていくような気がした。 すぐにマスターは冷えた麦酒を2本抱えて戻ってきた。

「ゆっくり考えればいいさ。さあ、きょうは飲もうや」


 髭オヤジ殿。あなたが少しだけ小さく見えました。




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