第一章 カフェイタリアーノ 第一話
第一話
世紀末の6月である。
数年後に完成する巨大な都市開発プロジェクトの長いフェンスを越えた先を広尾方向に曲がる。2本目の路地を左に入り、細い緩やかな坂道をしばらく登ると、家庭的なイタリア料理でもてなしてくれると評判の小さなレストランがあった。
空に浮かんだ月がうっすら見えてくるこの時刻になると、カフェイタリアーノのネオンはマゼンタピンク色に光を放電する。ちょうどそのタイミングを見計うように現われたふたり連れの男たちが、イタリアンレッドの扉を押し開けた。
俺がカフェイタリアーノでバイトをするようになってちょうど1ヶ月になる。イタリア料理といえば、せいぜい宅配ピザと数種類のパスタだけの知識しかなかった俺を、髭オヤジじゃなくてマスターは快く雇ってくれた。俺がフリーのカメラマン助手をやっていると聞いて興味を持ったらしい。「芸能界のお客さんもよく来るんだよ」そう言って嬉しそうだった。
シンプルなオープンキッチンを囲んだ10人掛けのカウンター席を中心に、大人4人がゆったり座れるテーブル席が3つあるだけの小さな店だが、俺のほかにスタッフはいなかった。(半年近く雇っていないそうだ)撮影のある日は遅れて店に出たり、急に休んだりしなければならない。マスターにはいつも迷惑ばかりかけていた。しかし本業の日雇いカメラマン助手だけでは生活も苦しく、副業でバーテンダーの仕事をはじめて半年余り、クラブからショットバーまでバイト先を6件ほど変えてきた。
「あれ?石井さん!ずいぶん久しぶりだね」
口髭を上品に蓄えたマスターがニコニコしながらカウンター越しに声をかけた。
「いらっしゃいませ、こんばんわ」
カシャカシャ!カシャカシャカシャカシャカシャ!カシャ!
俺はカウンターに座った会社員風の女性客のひとりにヴェネチア物語を作っていた。ラム酒をベースにしたローズレッドのショートカクテルだ。これは数少ない俺のオリジナルだった。
「やあ、マスター!新しいひと入れたの?」
「うん。ようやく新しいスタッフを雇う余裕が出てきたからね」
突然やってきたその客は久しげにマスターと話を始めた。
「そうだ、石井さんに紹介するよ。彼は山岸潤くん。えーと22才だったね?ぼくはジュンって呼んでいるんだ」
「山岸です。よろしくお願いします」
「ぼくは石井です、よろしくね。近頃忙しくてなかなか来てなかったけれど、マスターにはいつもご馳走になっています」
「オッス!中島です」
「ジュン。芸能事務所のモリプロを知っているかい?彼らはそこのマネージャーなんだよ。さっそく写真の仕事を貰えるように売り込まないと」
マスターは嬉しそうにそう呟いた。
え!モリプロって?芸能界の?俺は意外に思った。一見、石井という男はインポートブランドのスーツを着こなして、ゴールド系のアクセサリーが似合う高級クラブのホストのようだ。やや背が低いハンディを除けば、その端正な甘いマスクとスマートな躬のこなしは芸能マネージャーの領域を遥かに越えている。一方、連れの中島は無口で野性的なギラギラした目つきが印象に残る男だ。どことなく裏社会で生きる一匹狼のようなデンジャラスな香りがした。
「石井さん。こう見えてもジュンはフリーカメラマンのアシスタントをやっていてね。何かあったらよろしく頼みますよ」
マスターは俺の両肩に手を掛けて自慢気に言ってみせた。
あのー正直者の髭オヤジ殿。お願いだから天下のモリプロマネージャーたちの前で俺の素性をばらさないで下さい。 第一印象が駆け出しのアシスタントじゃカッコつかないよー。
「きみはカメラ助手なのか。自分でも写真を撮ったりするの」
石井は優しい声で訊いてきた。
「あっ、はい。まだまだ未熟ですけど」
俺はひどく緊張していた。頭が真っ白になって言葉に詰まってしまう。もちろん自分を売り込む余裕なんてあるはずがない。
「よかったら、こんどきみの撮った写真を見せてくれないかな」
冷や冷やものだ。俺は無言でこくり頷いた。
「どんな写真でもいいから」
石井はそう言って俺に微笑みかけると中島を連れて一番奥のテーブル席に座った。
「マスター!昼飯食べ損なったから、お任せで何かボリュームのある奴ください!」
「オッケイ!」
素早く冷蔵庫を開けるなり、仕込んでおいたカツレツ用の小羊肉を取り出して、イタリア風ソテーの準備をはじめるマスター。リズミカルな手さばきはいつ見ても感心する。
「ジュン。細麺のスパゲッティを200グラム茹でてくれるかい」
「はい。まかせて下さい」
自分で言うのも何だが、ロングパスタをアルデンテに茹で上げるテクニックだけはプロ級の自信があった。まだぎこちなく映る動きさえもう少し様になれば、立派なイタリアンシェフに見えるはず?
「良かったじゃないか、ジュン。ちょうど石井さんを紹介しようと思っていたのさ。あの業界は何が起るか分からないからな。チャンス、チャンス!」
マスターは顔を皺くちゃにしながら独り言のように囁いた。
面倒見のいい髭オヤジ殿。ほんとうは俺も内心嬉しくてドキドキしていました。モリプロと言えばアイドル歌手からタレント、CMモデルまで多数抱える大手芸能プロダクションです。上手く付き合えば、グラビア写真やCDジャケットを撮ることだって夢じゃないと思いました。いいや、やっぱり夢でしょう。
「中島さん!麦酒でいいかい」
カツレツをソテーしていたマスターは頃合いをみて声を掛けた。
「くださーい!喉乾いちゃった」
中島は嬉しそうに手で飲む格好をしてみせた。
「ジュン。大至急だ。生麦酒を中島さんに。石井さんにはフレッシュライムを絞ったペリエを持って行ってくれないか」
俺はマスターに言われたドリンクを急いで用意して石井と中島が待つテーブルまで運んだ。スマートに奉仕しようと気取ったつもりが、足を取られてグラスを倒しそうになる。「お待たせしました、どうぞ」
「ありがとう。しかしジュンくんは背が高いんだね。どれくらいあるの?」
「はい。185ぐらいですね」
石井は目を丸くさせて俺を見上げていた。
中島は俺たちを無視して旨そうにゴクゴク生麦酒を飲みこむと、素早く煙草に火をつけて大きく煙をはいた。
「よかったらきみの先生の名前を教えてもらえないかな。案外有名なカメラマンの助手さんだったりして?ほら、アイドルの写真集を数多く撮っている野村セイシンとかさ」
石井はペリエを酸っぱそうに飲んだ。
「とんでもありません。基本的にはフリーの助手なんです。よく手伝うカメラマンの中には女性タレントばかり撮るひともいますが、そんな超メジャーなひとの助手はやったこともありません」
「へえー、ジュンくんはフリーなのか。で、どんなカメラマンになりたいの」
俺は面接試験を受ける大学生のような気分だった。緊張のあまり頭の中が真っ白になる。石井が青年社長で中島は怖面の専務といったところか?困ったことになった。撮りたい写真の方向性さえ曖昧な俺に、将来のビジョンなんて語れるわけがなかった。