番外編:春のあわいにて
王都の春は、猫にとっても心地よい季節だった。
中庭にはハーブが茂り、猫たちが昼寝場所を争って小競り合いをしている。
「……仲いいのか、悪いのか」
縁側でハーブティーを片手に、三咲は笑った。
そのとき、店の扉が軽くノックされた。
「いらっしゃ……あ」
立っていたのは、深緑の外套に身を包んだ青年――セドリックだった。
「こんにちは。今日は、ちょっと気分転換をしたくてね」
「まさかのお忍び訪問? 王族のくせに、猫に会いに来るだけとは」
「君に会いに来たと言ったら、信じるか?」
「……それは、ちょっとズルいですね」
にやりと笑う三咲と、真顔のセドリック。
風が、からかうように吹き抜けた。
◆
縁側に並んで座った二人。
セドリックが手にしたカップの湯気が、ゆらりと揺れた。
「この香り、懐かしいな……」
「レモンバーベナ。気持ちが緩むんですよ。好きなんですか?」
「……子どもの頃、乳母がよく煮出してくれていたんだ。あの人は……ちょっとおかしな人だった」
「どんなふうに?」
「王宮に仕えているのに、“猫のように生きなさい”って私に教えたんだ。“好きなときに寝て、好きなときに目を覚ましなさい。誰かの膝を取ったら、たまには譲りなさい”って」
「……それ、乳母というより猫そのものですね」
「まったくだ。でも、あの人は不思議と、誰にも嫌われなかった。何をしても堂々としていて、他人の評価に踊らなかった」
三咲はそっと目を細めた。
「……素敵な人ですね。猫みたいに」
「君も、少し似ている」
「えっ」
「誰かの期待に応えようとするより、自分の歩幅で生きている。その生き方に救われる人間が、実は多い」
三咲は少し視線をそらして、照れくさそうに笑った。
「褒めすぎですよ。猫にでも懐かれたんですか?」
「懐かれたというより……寄ってきて離れないだけだ」
足元で猫がにゃあと鳴いた。
しばらく風に吹かれたあと、三咲がぽつりと聞いた。
「……セドリックさんって、恋愛とか、したことあるんですか?」
彼は意表を突かれたようにまばたきした。
「なぜ?」
「いや、なんとなく。“制度”とか“使命”とか、固い言葉ばかり使ってるから」
「……あるよ。一度だけ、ほんの短いものだったけど」
「へえ。どんな人?」
「風のような人だった。ふわっと現れて、さっと去っていった。……手を伸ばしたときには、もう遠くにいた」
「切ないですね」
「でも、思い出すと今でも、風が気持ちよく感じる。そういうのも、悪くない」
三咲は、ほんのり頬を赤らめた。
「じゃあ、私も……気持ちいい風になれたらいいな」
セドリックが、少しだけ驚いたように三咲を見た。
「……もうなってるよ」
その言葉に、三咲はしばらく沈黙した。
日が傾き、猫たちが再び伸びを始める。
「……そろそろ戻らないと、サボってるのがバレる」
「サボってたんですか」
「堂々と“視察中”と言い張るつもりだ」
立ち上がったセドリックが、帽子をかぶりながらふと聞いた。
「三咲」
「はい?」
「……この国に、また風が吹くとしたら、もう一度、君と歩いてもいいか?」
三咲は、軽く笑って応えた。
「風はいつだって、猫と一緒にふらっと現れるんですよ」
「なら、吹く日を楽しみにしておく」
セドリックは軽く頭を下げて、扉の向こうに消えた。
風が抜けたあと、猫が膝に乗ってきた。
三咲はその温もりを抱えながら、小さく笑った。
「……あれ、今のって、もしかして、告白……じゃないよね?」
猫は答えず、あくびをして丸くなった。
恋が始まるときって、こんなふうに、風と猫と沈黙だけがあるのかもしれない。
あと少し。あと一歩。
それでも、たしかに心が近づいている――。