エピローグ:そのままで、生きていく
春の王都は、やわらかい風に包まれていた。
「こねこのしっぽ亭」の中庭では、猫が6匹、思い思いの場所で昼寝をしている。
縁側では、三咲がハーブティーを淹れながら、目を細めていた。
今日も一日、誰も“救っていない”。
だけど、“今日を生き抜いた誰か”がまたここに戻ってくる。
そんな日々が、もう何週間も続いている。
◆
三咲が演壇に立ってから半年が経った。
王国の制度に劇的な変化はない。
けれど、「変わりはじめた兆し」は、確かに街のあちこちに現れていた。
たとえば、ある日やって来た男。
服は擦り切れ、目に光はない。
「“守り手”だったんだ、俺。王都の門番。……戦争が終わった後、心が壊れて動けなくなって、それで“役立たず”扱い。気がついたら、誰とも話さなくなってた」
三咲はその話に口を挟まなかった。
ただそっと隣に座り、猫を渡した。
彼は最初、警戒した。けれど――
やがてぽつりぽつりと、戦場のこと、親友のこと、笑えなくなった家族のことを話し始めた。
「……この猫、あったかいな」
「“守られる側”になるのって、案外、いいですよ」
男はふっと笑った。
そのとき初めて、彼の肩から何かがすっと落ちていくのを、三咲は感じた。
◆
またある日には、女の子が泣きながら訪ねてきた。
「“歌い手”だったの。でも、声が枯れて出なくなったら、師匠に“もうお前はいらない”って言われて」
「歌えなくても、生きてていいのかなって……わかんなくなって」
三咲は彼女の手を握った。
そして、一言も語らずに、足元の猫を抱き上げ、彼女の膝にそっと乗せた。
「……あったかい」
しばらくして、少女はしゃくりあげながら、囁いた。
「声が戻ったら、最初に“猫のうた”作る」
「そのときは、ここで披露してね」
小さく笑いあったその瞬間、少女の天職が「歌うこと」ではなく、「生きること」そのものになった気がした。
◆
ある老女が、杖をついてやってきた。
「“育み手”だった。子どもを育てるのが仕事。でも……歳をとったら、“もう感覚が古い”って、若い親からも信頼されなくなった」
「結局、誰かの“理想の育み手”でい続けないと、価値はなくなるのよ、この国は」
三咲はハーブティーを差し出し、隣に腰を下ろした。
「“理想”って、しんどいですよね。猫にも“理想の猫像”なんてないし、気分で機嫌も変わるし、勝手に寝るし」
老女がくすっと笑った。
「……でも、たしかに癒されるわね。その在り方に」
「育てるって、“正しさ”じゃなくて、“寄り添う時間”ですよね。あなたが誰かのそばにいた時間、きっと今も、心に根を張ってますよ」
女はしばらく黙っていた。
そして、静かに涙を流した。
◆
三咲が猫職として“何をしたか”と問われれば、答えはこうだ。
「何もしていない。でも、たしかに“そばにいた”」
その姿は、王都の一部の識者の間で話題になりはじめている。
「無職に近い職業だが、必要不可欠な存在になりつつある」
「癒しという概念が、数値化されないまま評価されるのは、制度初の例だ」
「“在り方”で価値が生まれるなら、この制度そのものの在り方を、今こそ問い直すべきだ」
そうした論議が、少しずつ、でも確実に芽を出しはじめている。
◆
夜、三咲は屋根裏で、手紙をしたためていた。
あて先は、元の世界に残した“過去の自分”へ。
あのときの私へ
あなたが「このままじゃダメだ」と泣いていた夜のこと、ちゃんと覚えてるよ。
会社でこき使われて、数字になれなくて、効率も良くなれなくて、「私は何の役に立ってるんだろう」って自分を責めてたね。
あのとき、誰かが「そのままでいていい」って言ってくれていたら、もっと優しくなれたかもしれない。
でも、今の私は――言えるよ。
「あなたは、そのままで生きていていい」
今、私の隣には猫がいて、何もしてないけど、毎日誰かが救われてる。
それだけで、十分だよね。
だから、安心して。
わたしは、今日も“猫”として、生きてるよ。
朝比奈三咲
その夜、こねこのしっぽ亭には、職を失った若者と、心をなくした騎士と、声を枯らした詩人と、そして猫たちが集っていた。
会話はなくてもいい。
笑顔も、涙も、言葉にしなくていい。
でも、ここには――“生きていてくれて、ありがとう”という空気が確かにある。
三咲は、あぐらをかいて座ったその膝に猫を抱え、ゆるく背を預けた。
自分は今も、なにも成し遂げていない。
けれど。
「……わたしは、わたしでいることを、誇りに思うよ」
誰かが、泣いた。
誰かが、笑った。
猫が、あくびをして眠った。
世界は今日も、少しだけ、優しかった。
Fin.
最後までお読みいただきありがとうございました。