生きる道は、道なき道
春を迎えるには、まだ少し冷たい風が吹いていた。
王都の空は高く澄み、白い雲がゆっくりと流れている。けれど、その下にある街の喧騒は、どこか乾いていた。人々の顔には笑みが浮かんでいても、それはどこか張り付いたようで、言葉の端には疲労と苛立ちが混ざっていた。
「……人の役に立てることが、そんなに偉いことなのかな」
市場からの帰り道、三咲はぼそりと呟いた。
今日はいつにも増して“猫職”をからかわれた日だった。
「今日も“お休み中”かい、猫さんよ〜?」
「生産性ゼロで街をふらつくとは、いい身分だな」
そんな言葉を、もういちいち気にするつもりはなかった。
――気にするつもりは、なかったけれど。
「やっぱり、何もしないでいるのって……怖いな」
自分が“いていい”理由を、他人に証明できないことへの不安。
それは、心にずっと根を張る小さな棘のようだった。
帰ると、こねこのしっぽ亭ではシュリが泣いていた。
店の奥の物陰に蹲り、肩を震わせながら、顔を両手で覆っていた。
「シュリ……何かあったの?」
「……また、言われた。“猫と荷運びの、役立たずコンビ”って……」
三咲は、すっと隣に座った。
「……辛かったね」
「悔しいの。何も言い返せなかった自分も、悔しくて……でも、ほんとに“ただの荷運び”しかできないから、どうしたらいいのかわからなくて……」
言葉のひとつひとつが、喉の奥でつかえながら出てきていた。
泣きじゃくる彼女の肩を、三咲はそっと抱いた。
「ねえ、私、気づいたことがあるんだ」
「……なに?」
「“猫”って、誰かの役に立つために存在してるわけじゃないんだよ。気ままで、気分屋で、でも愛されて、そこにいるだけで癒される存在」
「……うん」
「だったら私の天職って、“誰かに認めてもらうための力”じゃなくて、“人が自分を許すきっかけになる力”なんじゃないかって」
言いながら、三咲は自分の手のひらを見つめた。
そして、泣いているシュリの背中に、そっと触れた。
その瞬間――
ふわりと、空気が変わった。
手のひらから、やわらかな光が滲み出す。白く淡い、春の朝霧のような光。
それがゆっくりとシュリを包み、彼女の震えを鎮めていく。
「……あったかい……」
「私の……スキル、なのかな?」
「すごいよ……ほんとに、猫みたい」
シュリは泣きながら笑った。
その顔を見た瞬間、三咲の胸の奥で、何かがカチリと噛み合った気がした。
“ただ、ここにいること”が、誰かの痛みをやわらげる。
それは、無力なんかじゃなかった。
むしろ、ずっと見過ごされてきたけれど、欠けていた大切な力。
「ありがとう、三咲」
「ううん、私も……ありがとう。シュリが泣いてくれたおかげで、わかったよ」
◆
その夜、三咲は屋上で星を眺めながら、ふと思った。
東京にいた頃、毎日「役に立つ人間にならなきゃ」と必死だった。
誰かに褒められるために、誰かに怒られないために、息をひそめて働いていた。
でも、それで失っていたものが、ここにはある気がする。
心のままに泣くこと。
誰かのそばで、ただ黙って寄り添うこと。
笑顔も涙も、“理由なんていらない”ってこと。
それを許せるこの世界の小さな片隅が、三咲にとっての“はじまりの場所”になるのかもしれなかった。
「……おーい、何してんだ」
屋上の階段から、リオンが顔を出した。
「……星を見てただけ」
「へぇ、猫らしいな」
「猫って、星見るの?」
「知らん。でも、なんとなくそう思った」
少し照れくさそうにそう言って、彼は隣に座った。
「……なあ」
「ん?」
「“生きる道”って、自分で作っていくもんなんだよな、きっと」
「そうだね」
「たとえ道がなかろうと、自分の足で歩いてみれば、それが道になる」
「うん……。そういうの、好きだよ」
リオンは静かにうなずき、夜空を見上げた。
欠けた月が、ゆっくりと光を放っていた。