無職より猫の方がマシなのか問題
「宿代? ああ、異界渡りか。天職は?」
「……猫、です」
「……は?」
そんなやりとりを、三咲はもう何度繰り返したか覚えていなかった。
王都の人々は、異界渡りに興味はあっても優しくはなかった。最初こそ「すごい能力を持っているのでは」と期待されたものの、“猫”という天職が知られるや否や、彼女の扱いは「珍獣」から「厄介者」に変わった。
宿も仕事も、まともには与えてもらえない。
冒険者ギルドも、商人ギルドも、門前払い。
「うちは“実務職”限定なんで。猫? ちょっと……」
「いや、悪いけど動物なら動物屋にでも行ってくれよ」
こんなに「役に立たない」って断言されたのは初めてだった。
王都の南端、路地裏にある安宿「こねこのしっぽ亭」が、唯一、彼女を受け入れてくれた。
その理由は――宿の女将が猫好きだったから。
「なに、天職が猫だって? 面白いじゃないか。だったらうちの看板娘ってことでいいさ」
「……あ、ありがとうございます」
女将・ロッサは丸々とした体格に、笑うと目がなくなるおばちゃんで、事あるごとに実家の猫の話を延々と語ってくるタイプだった。
「ちゃんと働いてもらうよ? 看板娘っていっても、寝てばっかりじゃ困るからね!」
「“猫”なんで、寝るのも仕事かと……」
「冗談言ってる余裕はなさそうだね、嬢ちゃん」
そうして、三咲の“借り暮らし”が始まった。
朝はパンとスープの仕込みを手伝い、昼は皿洗い、夜は店の隅で客の相手をする。
「猫なんだろ? ニャーって言ってみなよ」
「へぇ、撫でたら幸運が訪れるって噂だぜ」
そんな冗談めかした絡みも、無視することにした。
最初は居心地の悪さしかなかったが、働くうちに「猫職」の奇妙な効果に気づき始める。
たとえば、客のテーブルに紅茶を運んだとき。
「……なんだろ。さっきまで肩が重かったのに、すーっと楽になったな」
「おい、あの子……なんか癒し系じゃね?」
自分の存在が、周囲に“安心感”を与えている――そんな感覚があった。
「……いやいや、まさか」
三咲は首を振る。
でも、宿の動物たち――犬や鳥たちが不思議と懐いてくること、常連の子どもが膝の上に乗って寝てしまうこと、女将が「最近肩こりが消えたのよねぇ」などと言い出したこと……
偶然にしては、出来すぎている。
ある日、夕暮れの裏路地で、彼女は屋根の上を歩く黒猫と目が合った。
するりと、三咲の肩に飛び乗ってきた黒猫は、満足そうに喉を鳴らしている。
「……あんた、どこから来たの?」
黒猫は答えない。ただ、すっぽりと三咲の肩に収まって、まるで“ここが自分の居場所だ”とでも言いたげな顔をしている。
その瞬間、三咲ははっとした。
「居場所……か」
ここが、いつまで続くかもわからない。安宿の片隅、名前も持たない“猫”としての日々。
でも。
「……なんか、悪くないな」
誰かの期待でも、世間の評価でもなく、自分で選んだ今日という一日。
疲れたら寝る、気が向いたら働く、人のそばにいる。ただそれだけのことが、こんなにも穏やかで、温かいなんて。
もしかして、“猫”って――
「……無職よりマシかもしれない」
そう呟いて、三咲は黒猫の頭をそっと撫でた。
ふわふわと、心が軽くなっていくのを感じながら。