過労後に異世界転移したら『猫』でした
朝比奈三咲、28歳。
都内の広告代理店に勤める、ごく普通のOL――ということになっていた。たぶん、名刺の肩書きや会社のデスクだけ見れば、そう映っていたはずだ。
「三咲さん、今週中にこれもお願いね! 急ぎ!」
「すみません、あの件、今朝の打ち合わせで変更あったので、再チェックしておいてもらえます?」
「あとでいいんだけど、今夜、資料出せる?」
「……えっと、今日は定時で帰る予定で」
「あー、そっか……じゃあ、明日朝一でもいいよ! 助かる〜!」
笑顔の裏に、なにかを飲み込んで、うなずく自分がいた。
【定時】なんて幻想だった。
気がつけば21時を過ぎ、オフィスには自分と数人の同僚しかいない。
椅子から立ち上がろうとして、脚がぐらりと揺れた。スマホを手に取ろうとして、指が震えた。肩から頭にかけて、鉛のような重さがのしかかる。
――やばい。
そんな直感はあった。あったのに。
「……帰ろ……」
鞄を肩にかけ、駅までの道をとぼとぼと歩く。夕飯を買う気力もなかった。
会社での評価、親からのプレッシャー、同年代の「結婚・出産ラッシュ」。
ふとした瞬間に、「このままでいいのかな」っていう声が心の中で響いてた。
でも、それを口にしたところで、誰にも届かないことも、よく知ってた。
電車に揺られ、乗り換えのために階段を上り――その途中だった。
目の前が、真っ白になった。
◆
……森、だった。
風が頬を撫で、金色の木漏れ日がまぶしい。鳥のさえずりと、土と花の匂い。
「……夢?」
目を開けると、周囲には見たこともない植物と、奇妙に澄んだ空が広がっていた。東京の喧騒も、人工的な音も、ここにはなかった。
体は軽く、服も変わっていた。白くてふわっとしたワンピースのようなもの。どこか神聖な衣装のようでもある。
「お、おい! 君、大丈夫か?」
木陰から現れたのは、金の髪を結んだ少年だった。マントの裾を揺らしながら、腰には細身の剣。見た目は10代半ば――だけど、真っ直ぐな瞳と堂々とした物腰が印象的だった。
「……だ、だれ……?」
「僕はリアン。巡回の途中だったんだ。こんな場所にひとりで? 君、異国の人?」
三咲はゆっくりと起き上がり、頭を押さえながら言った。
「ここは……どこ?」
「ここはレヴァリエ王国、中央の森だよ。まさか……君、異世界から来た人?」
その言葉を聞いた瞬間、三咲の背中に冷たいものが走った。
「異世界……?」
◆
王都は、まるでおとぎ話のようだった。
白い石畳、高い尖塔、空を行く小さな飛行艇。
街を行く人々は、どこか中世風の服をまといながら、便利そうな魔導具を使っていた。
けれど、町に入った瞬間、三咲が異世界人だと知られると、通行人が一斉に振り向いた。
「見て! あの人、異界渡りらしいわよ」
「うわ、本当にいるんだ……初めて見た」
「天職の儀を受けるのかしら?」
「どうせ、すごい才能持ってるんだろうなぁ……チートとか」
ざわざわと、人々の声が周囲から聞こえる。好奇と羨望と、少しの警戒。
リアンはそれを遮るように三咲をかばいながら、言った。
「君の天職を調べる儀式が必要なんだ。こっちの世界での居場所を得るために、絶対に」
そう言って、彼は三咲の手を取った。
手のひらは、ほんの少し、震えていた。
◆
天職授与の儀――それは、魂の中にある「適性」を見極める神聖な儀式だという。
三咲は、大理石の床の中央、輝く水晶球の前に立たされた。まるで舞台の上に放り出されたみたいに、周囲の注目を一身に浴びる。
「異界渡り、朝比奈三咲。天より魂の職を授かりし者よ――」
老いた司祭が声を上げ、呪文のような言葉を唱えると、水晶球が淡い光を放ち始めた。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
まるで、自分の“生き方”があらわにされるような、そんな感覚。
やがて、水晶の中に文字が浮かび上がる。
「……な、なに?」「こんな天職、聞いたことが……!」
司祭たちがざわめき、広間の空気が揺れる。
そして、発表された。
「天職――“猫”」
沈黙。
しばらくして、どこからともなく笑いが漏れた。
「“猫”? 嘘でしょ」
「異界渡りの天職が……猫?!」
「それって、つまり“何もしない”ってこと?」
「いや、もはや動物では……?」
ざわつく空気のなか、三咲は水晶を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「……猫、って……」
司祭の一人が、神妙な顔で補足する。
「この“猫”の天職は……かつて極めて稀に現れた職です。人を癒し、気ままに生きる“象徴”のような存在だと伝えられていますが……」
「……使い物にならないってことね」
誰かの冷たい声が聞こえた。確かにそう言った。
目の前の水晶は、何も語らず、ただ淡く光っている。
――ああ、またか。
何者かになれると思った。
異世界に来れば、何かが変わると思った。
期待した自分が、馬鹿だったのかもしれない。
三咲は、肩を落とし、心の中で呟いた。
「この世界でも、“何者にもなれなかった”んだね、私……」