オシラサマ
「フッフッフッ」
そのものは結局攻撃してくる様子もなく、身をひるがえすと、たちまち闇の中に消えて行ってしまう。やはり人であるはずがなかった。
「これは!」
娘の姿が消えると、そこに屋敷は既に無く、あばら家が残されて居るだけである。
踏み込むと、中には家畜を飼っていたらしい小屋の跡があり、
「これを見て」
レイラが小さなものを拾い上げた。短い棒の先に馬の顔を彫ったもので、布きれで作った衣を多数重ねて着せてある。
「何なの」
「馬のような頭ですが、多分これは人形ですね」
「もしかすると、あの娘の言っていたオシラサマ」
オシラサマとは近隣の村人に信仰されている家の神であり、農業の神や馬の神とされ、桑の木人形とも称される。伝承やそれに伴う儀式は、信仰している各集落の中だけで秘密裏に執り行われることが多く、他者に詳細を明かすことが忌み嫌われているため、未だに解明されていない部分が多い。
昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺してしまう。それを知った娘は馬にすがりついて泣いた。すると父親はさらに怒って、今度は馬の首をはねようとする。すかさず娘は馬に飛び乗ると、そのまま天へ昇り、オシラサマとなったのだという。だからすべてのオシラサマは、動物の肉や卵を嫌うとされている。
「そのオシラサマに聞けば、あの娘の事が何か分かるかもしれないわね」
「ではやってみましょう」
アイダは人形を手に取り、呟く――
「アランヴホートシャザムスヴァー、我の前に出でたまえ」
小屋の外、
中空にぼうっと灯る青白い月の光が、
そぼそぼとアイダの足元にまで差している。
闇の力が勝つか、
月の光が勝つか、
此処は既に衆生の者が住む世界では無いのかもしれない。
レイラたち精霊界の皆が息をこらして成り行きを見守っているのである。
「儂を呼び出すとは……」
やがてぼろを身にまとったようないでたちの老人が姿を現した。
その姿は浮いているようにも見える。
妖物には人に災いをもたらすものも、そうでないものもいる。アイダたちには見えているような、見えないような、物の怪であるかもしれない老人である。
「貴方はオシラサマですか?」
「村の者は儂をそう呼んでおるな」
「その村人が大変な目に遭っているようです」
「…………」
「娘さんが貴方に願掛けをし、助けて欲しいと願っていたのを御存じですか?」
「しばらく前から恐ろしい鬼神が現れて、非道の限りを尽くしているのは心得ておる」
「では何故――」
「儂の力では、あやつに歯が立たないのだ」
老人はやや苦しげな表情を見せた。それで今に力のある一行がやって来るから、それまで待つようにと言っていたというのである。
「そなた達の力ならば……」
だが、アイダたち一同を見回す老人の視線がレイラで止まると、
「あ、あの、私は……」
「…………」
又かとうつむき、ため息をつくレイラであるが、仕方なく次の言葉に移る。
「えっと、私は悪魔、ですが……」
「悪魔じゃと」
「あの、でも、……良い、……悪魔なんですよ」
――もう、何で毎回こんな言い訳をしなきゃいけないのよ――
「儂も手伝えることが有れば手を貸そうではないか」
そう言いながら、そっけなくレイラから視線を移した老人がアイダを見ている。
「分かりました、私たちで出来る事ならやってみましょう」
「…………」
しかし老人がふっと消えた後で、アイダは不思議な事を言い出した。
「あの者は私たちに何か隠しているわね」
「えっ」
オシラサマの力が鬼神に及ばないというのはどうやら本当だろう。それでアイダたちの力に頼るというのは理解できる。確かにあの者では鬼神に対抗できるような力が発揮できるとは思えない。だが、老人の言った話には、何か秘密が隠されているのではないか。アイダたちに話していない真実が有るのではないかというのだ。
「アイダ、一体その秘密とは何なの?」
「まだ何なのか私にも分からないわ。でも鬼神が暴れている理由が何か有るのかもしれない。殺された村人にも何か理由が有るような気がするの」
アイダはさらに皆が驚くような推理を話した。
「例えば村人が鬼神に悪さをしたかもしれないのよ」
「悪さとは、一体……」
アイダはそれに答えず、
「やっぱり、一度鬼神に会って直接話を聞く方が良いわね」
「…………!」
鬼神に直接話を聞くというアイダに皆は驚愕した。どうやら村人を襲っているその鬼神は、この地に特別なつながりが有るようで、この地域だけで暴れているのである。
実は精霊界や人界などは互いに遠く離れているというのではない。横を向けば、後ろを向けば、すぐ傍にその世界が存在している。つまり人界でいうところの同じ空間に別な世界が共存しているような感じなのである。昔から時たま話題となるものに、子供が突然消える神隠しがある。何かのきっかけで人界から他の界に入ってしまったからであり、遠い場所に行ってしまったのではない。言い方を変えれば、皮肉なことに親が探し回っている同じ場所に居るのである。
物の怪などは人界にやって来ては人々を驚かし、また元居た界に去って行く存在である。そして鬼神にも精霊界や人界と同じような界が有り、アイダはそこに行くというのである。
「アイダ一人でいくの、私も――」
「対決をしに行くのではないから、これは私一人で行く方が良いの」
「……分かったわ」
アイダは自身の周囲に結界を張ると、一人になった。
「アラカラカザンヴォカザンヴーー、トシャザーー、アラザムスヴァーハーアラカザンヴォアラホートシャザムスヴァーアラカーー、シャーーヴォアーーシャザムァーハースヴァーハーアスヴァーハーー、トシャアラホートシャザムスヴァー」
そこは月も森も、何も無い闇である。
空気の気配さえないから風も無い――
やがて前方にぼうっと青白く揺らぐ炎が灯ると、それが異形に変化してゆく。
アイダは鬼がそこに居るのではないかと疑った。
しかし、よく見ると、ただ鬼神であろうものだけがゆらっと目の前に居た。それは黑い色をしているから、漆黒の闇に溶け、一瞬分からなかっただけである。人のようで人でなく、鬼のようで鬼でない。薄笑いを浮かべたような気がしたが、闇であるからその表情は見えない。
「やはり来たか」
そのものが言葉を発すると、わずかに血の匂いがする。
アイダは言葉を選ぶようにして、ゆっくり話始めた。
「村人が……、いえ、まずは貴方の話をお聞かせ下さい」
「その方に儂の苦しみが分かるというのか」
「…………」
鬼神はこの成り行きを理解しているようで、じっとアイダを見つめ、つぶやくように息を吐いた――




