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今日もまた扉が遠退いたので

 なにか飲みたい。喉の皮がくっいてしまいそうだ。外では雨雫が滴る音が鳴りやまない。予報によれば、どんよりとした雨雲は数日晴れないらしい。カーテンを開けると、想像よりもずっと激しい豪雨が窓を叩いていた。


 陽子は気怠さに溺れていた。小さな幸せだとか、前向きな希望だとか、そういったものを微熱と一緒くたに煮込んでいるようだった。厳密には平熱なのだけれど、全身の表皮が熱を帯びていて、内臓をじんわりと焼かれている。いやに焦げた肉の匂いがするのはきっと気のせいなのだろう。肩のこわばり、まぶたの重さ。指先で拍動を感じる。そしてこのような体調よりも陽子を憂欝にしたのは、つい一週間ほど前にも仕事を休んだことだ。体調を崩しがちな陽子にしてみれば避けようのない悪習みたいなものだが、周囲は冷ややかである。世の中は普通の人間のために作られ、普通の人間によって回る。決して陽子のためではないし、陽子に思いを寄せられるほど人々は余裕があるわけじゃない。陽子が生きるということは他者に迷惑をかけるということ。人生とはその連続だった。そうしていたたまれなくなっては、職を転々とした。今では積極的に友達付き合いをしないし、パートナーなんてもっての外だった。


 「申し訳ございません。本日吐き気を伴う体調不良のためお休みを頂けないでしょうか」


 「……あのさあ。まだ勤め始めて一か月なのにもう休むの?この間も休んでたし。きつい言い方になるけど、正直さ、うち以外で働くのをお勧めするよ。もしこれからもこのペースで仕事出れない日があるんだったら迷惑なんだ。一年に一度くらいなら構わないんだけどさ。まあ今回はわかったよ、次は来てくれ」


 上司の声は近くに落ちた雷以上に鼓膜を震わせた。悔しい。けれどそれがどこから来て、何に対する感情なのかを明言するのは憚られた。だいいち複雑だったし、はっきりさせてしまってはあまりに廉価な自分の価値が露わになると思った。間違っているのは、いつだって自分だ。



 陽子はかなり早く仕事が出来るようになっていた。実際、新人にしてはよくやっていると褒められた(それがお世辞であったかを判別するには経験不足だったが)。人よりも健やかで満足な時間が少ないので、僅かな時間を必死で使い頭に叩き込んだ。それが、陽子の日々を豊かにしていないのだとしても。ただ平等に訪れる明日のためだけに、今日を費やさねば認めて貰えない。そうやって生きてきた。しかし生得は研鑽を拒み、あるいはいとも容易く奮闘の積み重ねを上回る。それに気が付きながらも、ある程度の幸福を望んでしまうくらいに陽子は若かった。


 人は一人では生きていけない。聞き馴染みのある言葉が、陽子には呪縛のように受け取れた。己の身体に己を否定される。努力はついぞ意味を成さなかった――。


 なにか飲みたい。心中で、暗い具体性を放棄する音がした。重苦しい足に力を入れてを起き上がる。体調も、健康的な明日も、今となってはもうどうでも良かった。どうせ()()()渇きを癒すのなら酒でいい。ジュースみたいに飲んで、ふと時計を見やったときには酔っているような。値の張るウイスキーなどではなく、安い缶チューハイ。


 傘をさしてコンビニへ向かう。雨脚は傘が必要ないくらい強まっていた。陽子が支えてあげなければ、彼はたまの突風に吹き飛ばされそうだった。そこで陽子は思い立つ。「要らないのなら、()()()()あげたら良い」図らずも次の瞬間、強い風が二人を襲った。あまりにも自然に、傘を持つ手は緩められた。思い描いていたより軽やかではなく、無様なほど不格好に彼は飛ばされてそして見えなくなった。陽子は既に、傘の細かな部分が思い出せなくなっていた。確か黒に近い紺色の傘だったはず。あれ、持ち手はどうなっていたっけ――。


 ずぶ濡れのままコンビニに入店した。店員は当然の事象としてなのかひたすらに無関心だったのかわからないけれど、陽子を受け入れた。普段酒を呑まない陽子は何がどういった味なのか詳しくない。いい年齢になってもチューハイの味すら知らないのは、これも望んだわけではないその身体のせいだった。酒を呑むのにも体力は要るのだ。陽子は手あたり次第にパッケージの気に入った缶をカゴに入れた。飲み切れなくたって構わない。だって、そのときは捨ててしまえば良いんだから。


 結局、片手で持つのがやっとというくらいの本数を購入した。入れてもらったビニール袋が張り詰めて逃げ場を失う。


 「店員さん」最後に声をかけると、名も知らぬその人と目が合った。「ありがとう」と、そう言いながら陽子は握手を求めた。陽子の人生において最も素晴らしい発声がされた。その人は戸惑った風に見えたが、恐る恐る両手を差し出した。陽子は一方的に堅い握手を交わして踵を返した。


 雨に打たれつつ、ひとつ缶を開けた。ぷしゅっと爽やかな音は轟音に掻き消された。曇天を仰ぎ、喉を鳴らす。少しのアルコールの刺激。そして柑橘の香りと濡れた土や草花の甘い匂いが鼻孔を支配した。


 陽子は、ただこの雨がいつか止むことを願った。



 

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