オレンジの彼女は、ときどきブルーな彼になる
待ち合わせの時間をだいぶ過ぎてしまった。
夕方から降り出した雨が強くなった頃、夜に降る雨が苦手な僕は彼女に電話を掛けた。
「雨止みそうにもないしさぁ、また今度にしない? 帰りがマジでダルいんだけど」
「はぁ? せっかく私が誘ってやってんだから付き合いなさいよ」
「……分かったよ。じゃあ一杯くらい奢ってくれよ」
「何言ってんの。私の愚痴が聞けるなんてご褒美だよ。それで我慢しなさい」
そう言って彼女は一方的に電話を切った。厳密に言えば、彼女は女性ではない。見た目や声は女性そのものだけれど、彼女は男の部分を残したままの女性なのだ。
そんな彼女と知り合ったのは恵比寿のクラブだった。
「四つ打ち祭り」
という新旧、邦洋問わずとにかく朝までハウスの四つ打ちを流しまくるイベントで、彼女はクラブに溢れ返るリズムに微動だにもせず、フロアの側の階段に腰掛けていた。酔った勢いに任せて僕が「何してるの?」と声を掛けると彼女は野太い声で言った。
「酔ってナンパするなんてダサいんだよ」
僕はその声に一気に酔いが覚めた気分になった。
「あの、もしかして元男性の方だったりします?」
「下半身は現役だよ。はい、もういいでしょ」
「いや、面白れぇな。ちょっと話さない?」
「奢ってくれるんならいいよ」
「安いもんだよ。俺、和哉」
彼女は緩くパーマの掛かったオレンジ色の髪を掻き分けながら「私、聡志」と名乗った。女性名は「杏」だとも。近付いて見てみるとなるほど、肩幅がいくらかガッチリはしていたけど彼女が男性だとは到底思えなかった。
肌が綺麗なのはもちろん、指先さえも女性そのものだったのだ。爪も綺麗に整えられ、赤と銀のネイルが施されていた。
「杏、なんで踊らないの?」
「じゃあ聞くけど、なんで和哉は踊るの?」
「だってクラブだぜ?」
彼女は首を大きく振りながら、ジンライムを流し込んで言った。
「猿じゃあるまいし、人前で踊れる訳ないじゃない」
「じゃあ何しに来たんだよ」
「女友達に置いてかれたのよ。終電もないし、それだけよ」
「だっせぇ!」
「うるさいわねぇ。だったらあんた朝まで付き合いなさいよ」
「オカマとワンナイトする気はないけど、全然いいよ」
「良い根性してんじゃん。じゃあ出よっか、ちょうど退屈してたのよ」
滅多にいない人種に出会えた事で、僕はテンションが上がっていた。意識をちゃんと保ってなければ一瞬間違いを犯しそうになったが、僕らはちゃんとした千鳥足で何とか近所の大衆酒場へ辿り着いた。
そこで聞かされた彼女の人生は中々壮絶なものだった。
幼い頃から自分の性に違和感を抱き、彼女は女の子が好むようなものに憧れ続けていたと言う。
両親は教育熱心な所謂「エリート」一家で、歳の離れた兄は東大を卒業し、今はニューヨークで働いているとの事だった。
そんな兄と比べられる事や、男らしさを無理強いさせられ続けた結果、家にいるのが嫌になり非行に走り、家出もした。そして、自殺未遂を何度も繰り返したと彼女は笑いながら語った。
腕を捲ると、彼女の左腕には無数のリストカット跡が今でも残っていた。
「最近はやらないけどね。昔はこれだけが「生きてる」って思える唯一の手段だった。父親と母親に当て付けるように切ってたわよ。お前達のせいだって言いたかったんだろうね」
「今はもうやってないんだ?」
彼女はジョッキで頼んだモスコミュールを一気に飲み干して酒臭い息を吐いた。
「やってない!」
「偉いじゃん、まともになって」
「違うわよ、金の力よ。親が下手な事しないように、生活費から何から面倒見てくれてるの。離れて暮らせたから嫌な物見なくて済んでるだけで、元の生活に戻ったらきっとまた切るわよ。腕の代わりにチンポ切らせろって言ったら母親に泣かれたけど」
「ははは! どこの親が息子のムスコ切るのに金出すってんだよ!」
「忌々しいのよ、このブラブラしたチンポが。だから今は週に三日だけだけど、働いて金貯めてんの」
「へぇ、危ないバイトでもしてんじゃない?」
「介護よ」
「介護!?」
「そうよ。元気なお爺ちゃん達が私のお尻触るとね、すごく困った顔になるの。面白いわよ」
彼女は腰を上げ、自分の尻を叩きながら言った。
開けっ広げに自分の事を語る彼女を僕は気に入り、それから暇を見つけては一緒に飲みへ出歩くようになった。
恋人でもないし、異性の友人という訳でもない、けど、男同士の友情みたいなものとも違う。
どれにも当て嵌まらない彼女との関係だったけど、僕は彼女と過ごす気を遣わない時間が好きだった。
待ち合わせに遅れた僕を、カウンターに座っていた彼女は赤ら顔で迎えた。
「和哉ぁ! 遅かったじゃない」
「雨が酷くてさ。街中で溺れてたんだよ」
「何それ、つまんない。あ、レバーあるから食べていいわよ」
「ありがと。って、おい、歯型ついてんじゃん」
「試しに食べたら不味かったのよ。サービスよ、黙って食いなさい」
彼女はいつもよりだいぶ早いペースで次から次へと日本酒を空にしていった。五本目のトックリが運ばれ、流石に気になった僕は彼女の手を止めた。
「おい、ペース早すぎじゃないか? 杏をおぶる体力なんか俺にはないぜ」
「あんたが遅いんじゃない? ついて来てみな、ぶっちぎってやんだから」
「何があったんだよ?」
彼女は髪をくしゃくしゃと掻きながらカウンターに突っ伏し、目だけ僕を向いたまま言った。
「えー、もう聞くの?」
「いかにも聞いて欲しそうじゃん。で、何があったんだよ」
「……あんたなんかもういらないって、言われちゃった」
「誰に? 彼氏か?」
「違うわよ、親に」
「親に?」
「そう、弁護士から電話があったの。仕送りももうしないって」
「何で今さらそんなことになるんだよ」
「おまえは変態の病気なんだから早く治せって父親がうるさくってさぁ……私は杏っていう一人の女なのよ! ってこないだ実家でブチ切れてやったのよ。そしたらね、父親も母親も、私の事はもういらないって。女を作った覚えはないって。もう何の関係もないから敷居も跨ぐなって、そう言われちゃった」
何て自分勝手な親なんだろう。僕は正直そう思ったし、彼女が不憫で仕方なかった。使えないからとあっさり捨てられた家電みたいに思えた。
「ひどい話だな……どうすんだよ、これから」
「さぁ? ケツでも使って稼ごうかな。あのクソ親……だったら何で私なんか生んだんだよなぁ、畜生……」
「おまえ、愛されてないんだな」
「そうよ。可哀想でしょ? あ、嘘でしょ……」
「どうしたんだよ」
「ヒゲ生えてきた。ほら、触ってみ」
手を伸ばして彼女の細い顎を触るとチクチクした。
僕とそれほど変わらない硬さのヒゲは、彼女が元は「聡志」である事を思い出させた。彼女もきっと、毎日葛藤しているのだろう。
顎先を触りながら、彼女は念仏のように親への怨み節を僕に聞かせ続けた。
朝方前に店を出ると雨はすっかり上がっていた。生温い風が吹き、側溝にうずくまって吐き続ける彼女に僕はペットボトルの水を差し出した。
すると、ペットボトルを掴むと思った彼女の腕が力強く僕のベルトを掴んだ。カチャカチャと音が鳴り、ベルトが外されて行く。
「おい、何してんだよ! 悪酔いし過ぎだろ!」
「うっさいわね、黙ってなさいよ。すぐ終わらせるから、ねぇ」
「やめろよ、何してんだよ!」
「時々自分でもびっくりするのよ、こういう時にね、男の部分が残ってるんだなって思うの。一番要らないはずのチンポが一番欲しくなるのよ。ほら、早く手、離しなさいよ」
「ふざけんなよ!」
僕はズボンを押さえていた手を離し、トランクス一丁になって彼女を突き飛ばした。彼女は転がり、灯りの消えた商店街のシャッターにぶつかった。無人の商店街にその音が虚しく鳴り響いた。
彼女は惨敗したボクサーのような格好でシャッター前に座り込むと、僕の股間を眺めながら笑った。
「ははっ、ちっさそう」
「うるせぇな。脱がしといて何言ってんだよ」
「興奮した?」
「する訳ねぇじゃん、馬鹿かよ」
正直驚いた事は驚いたけど、少しだけ悪くないかもと思ってしまった自分もいた。けど、彼女がヤケを起こす相手に僕はなりたくはなかった。
彼女は煙草に火を点け、ようやく水を口にした。ズボンを上げ、僕は彼女に言った。
「親から絶縁されたって、おまえはおまえだろ。逆に言えばもう自由になったんだし、これからは杏として生きて行けよ」
「今だって生きてるわよ……だけどさ、一人の女としてね、両親に「杏」って呼んで欲しかった……それだけだったんだけどなぁ」
「これからは皆がおまえの事を「杏」って呼ぶようになるよ。一人の女としてさ」
「まぁ、そうだけどね……」
「元気出せよ、聡志」
僕がそう呼ぶと、彼女は怒った顔で僕に向かってペットボトルを放り投げた。
「何であんたが杏って呼ばないのよ。真っ先に呼びなさいよ」
「だってさ、親がいなかったら誰もおまえの事を聡志って呼ばなくなるじゃん。おまえ、聡志生まれ杏育ちだろ。頑張れよ、聡志」
「ははっ、意味分かんない。何それ」
そう言って彼女は、少しだけ笑った。
酔いと眠気のせいで立ち上がるのもだるくなり、そのまま座り込んでいると少しずつ夜が明け始めた。
「和哉さぁ」
「何だよ」
「あんた意味分かんないけど、良い奴だわ」
「ありがたいけど、チンポは出さねぇよ」
「小さそうだからいらないわよ」
「女の前だと大きくなるけどな」
「じゃあ大きくさせてみようか?」
「ノーセンキューでフィニッシュです」
「あんたさ、特別に許可してあげる」
「何を?」
「聡志って呼ぶ事。あんたは私の事、聡志って呼んでもいいよ」
「当たり前だろ。よろしくな、聡志」
「おう、和哉」
陽が差し始めた商店街で、僕と彼はグータッチを決めた。
朝が近付くにつれ青臭い夏の匂いがして来て、やっと今日の終わりと明日の始まりが交代する音が街から聞こえ始める。
シャッター前に腰掛けたまま、彼に髪と同じ色のオレンジの光がゆっくりと差した。
やがて陽が白く変わり、今日が始まると彼は寝ぼけ眼で「化粧落とさなきゃ」と言って立ち上がった。
立ち上がった彼は、振り返って僕に手を振った。帰るようだ。僕も、帰って寝なければ。
「おい、ゲロ吐くなよ!」
小さくなって行く背中にそう声を掛けると、振り返ってこう言った。
「女の子に対して汚い!」
朝の光に染まりながらそう叫んだ彼の姿は、もうすっかり彼女そのものだった。