(7)
もともと清香が過去に戻ってきた理由は、僕の失踪を阻止するためだった。しかし未来からやってきたカミラに事情を聞き、しかも未来の自分がその失踪を容認していることを知った。過去と未来、その両方を知っている将来の自分が判断したことなので、清香もそれに従うべきなのだろうと思った。その後、さらに未来から鈴ちゃんがやってきたことで、清香はその未来がとても幸せな未来なのだと確信した。
清香が本当の意味で僕の保護を諦めたのは、鈴ちゃんが登場してからだった。
そして清香は、僕にその幸せのレールに乗って欲しいと願った。
たとえ自分の歴史は変わらなくとも、その代わりに多くの人が幸せになるのなら・・・清香はそれで納得したのだという。
★
「私は二十六年後の未来からやってきました」
清香はアミラさんにそう告げた。
アミラさんは清香の言葉に驚いていたし、僕も清香の行動に驚いていた。
場所は図書館に併設してある庭園だった。
僕とアミラさんはベンチに腰を下ろしていたが、清香は僕らの前の芝生に立っていた。
「私の言っていることは・・・にわかには信じられませんよね?」
「あ・・・いえ・・・その」
アミラさんは僕の顔をチラリと見てから言った。
「・・・香平さんから、お話は伺っておりました」
「その月島香平さんも、最初は私の話を疑っていました・・・心中はお察し致します」
「いえ・・・信じていないわけではないのですが・・・その、なんと言いましょうか・・・」
この状況にアミラさんは戸惑っているようだった。しかしある意味それは当然のことで、誰よりもこの僕が清香の登場に戸惑っていたのだ。
話が違っていた。
清香に要望された『帰る前に、もう度だけツーショットが見たい』に応える形でアミラさんを庭園に連れ出した。清香はそれを見たら、そのまま未来に帰るという話だったのだ。僕はてっきり物陰からそっと見守るとか、遠くから写真を撮るくらいのことしか考えていなかった。
清香が僕たちの背後から急に現れた瞬間、僕は『あ、やられた』と思った。そしてカミラや鈴ちゃんの持っている突撃系のDNAは、実は月島家が由来なのかもしれないと思った。
「私は・・・アミラさんにこれを渡すためにきました」
清香はそう言ってアミラさんに一冊の大学ノートを手渡した。
「これは二十六年後に公表される、タイムマシン技術の基礎理論です」
「えっ・・・タイムマシン・・・の、基礎・・?」
「はい・・・そうなる予定です」
「どうして・・・そのような重要な技術を・・・わたしに?」
アミラさんは清香の行動に驚きを隠せないでいたが、一方の清香は事務的に粛々と作業をこなしている感じだった。
「あまり詳しいことは言えませんが・・・未来の地球でタイムマシン実験が開始された段階で、アミラさんの星が地球に外交関係を求めてきます」
「あの・・・それは・・・どういう・・・」
アミラさんはそこまで言って言葉を呑みこんだ。そして少し考え込んで、それから口を開いた。
「つまり将来・・・わたしたちの星の人間が、この技術を目当てに地球に乗り込んでくると・・?」
アミラさんは清香の目を真っ直ぐに見つめたていた。
「・・・その頃、わたし達の星がどういう政治状況なのかはわかりませんが・・・タイムマシン技術に目が眩み、よからぬ考えを持つ人間が現れるのかもしれません」
そしてアミラさんはゆっくり目を伏せた。
「それで地球に・・・不幸な未来が訪れてしまったのですか?」
「あ・・・いえ・・・それは大丈夫みたいですよ?」
思い込みの激しいアミラさんの早合点を、清香が笑顔で訂正した。
「お互いの星は、とても友好的な関係にあるようです」
この清香もその未来を経験していなので実情は知らないはずだが、カミラや鈴ちゃんを見る限りでは地球に不幸な未来がきたとは思えない。
「最後にアミラさんとお話ができて光栄でした」
清香の表情はとても清々しかった。
「私も安心して未来に帰れます」
そう言って清香はアミラさんに手を差し出した。
アミラさんは握手を求められていることを察し、すぐにベンチから立ち上がった。
「そのノートのことは、全てアミラさんにお任せします」
アミラさんと握手を交わした清香は少し寂しげで、それでも満足そうな笑顔だった。
「もし・・・もしも二十六年後にタイムマシンが完成されない・・・そんな未来が訪れるのなら・・・私は」
清香はそこまで言って大きく肩を落とした。
「いえ・・・こんなことを言うのは不謹慎ですね・・・すいません」
清香は何かの言葉を呑みこんだようだった。そして再び事務的な口調で言った。
「もし歴史が変わったしまった場合は、二十六年後の未来で公表して頂ければ幸いです」
「はい・・・あの、歴史が変わるというのは・・・一体、どういう・・?」
アミラさんは清香に問いかけたが、清香はそれには何も答えなかった。
そして僕に軽く一礼すると、清香はそのまま庭園から出ていった。
僕が年上の清香を見たのは、これが最後だった。
しばらく僕とアミラさんは無言だった。庭園に差し込む午後の日差しがベンチの僕たちを照らしていた。傍目に見れば僕たちも、仲睦まじいカップルに見えるのかもしれない。
「・・・香平さん」
アミラさんは一旦ベンチに腰を下ろすと、自分のバックにノートを大事そうにしまった。そして僕の顔をまじまじと見た。
「あの・・・お聞きしたいことが、たくさん・・・あるのですが?」
「・・・でしょうね」
正直なところ僕も困っていた。まさか清香がこんな行動に出るとは思っていなかったのだ。昨日のうちに清香たちとは別れを済ませていたはずなのに、どうしてこういう展開になったのだろう? 昨日の清香の笑いの意味が、今になってようやくわかった僕なのだった。
「今の女性は・・・香平さんの、ご親族の方・・・ですよね?」
「僕の妹らしいですね・・・来年、生まれる予定の」
「まあ・・・やはりそうでしたか」
アミラさんは納得したように頷いた。
「お顔がそっくりでしたので、もしや・・・とは思っていました」
普通に考えればこんな無茶苦茶な話は信じてもらえないはずなのだが、アミラさんは今の話を事実としてすんなり受け入れてくれた。これまでの経緯があるとはいえ、アミラさんは僕よりも柔軟な対応力を持っているのかもしれない。
「それと・・・その妹さんなのですが・・わたしは初見ではありませんよね?」
「・・・そうですか?」
アミラさんは記憶力もいいらしい。
「わたしは喫茶店に入っこられた妹さんを見ました・・・その時は十歳くらいの女の子を探しにきたようです」
「・・・・・・」
「おそらくその女の子は、地球の人間ではないと思われます」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
アミラさんは僕がイメージしていたようなお人好しなだけのお嬢様ではなく、鋭い観察力と高い見識を備えた大人な一面も持っていた。
奇しくもそれを裏付けるかのように、アミラさんはそれから僕に鋭い質問を連発してきた。僕がアミラさんに話した内容の矛盾点や、僕の持っている情報が清香の存在だけでは説明できないこと・・・たとえば『滅びるはずの地球が宇宙と友好関係にあるのはなぜか』『どうして僕がアミラさんの能力を知っていたのか』『このタイミングで妹が去っていく理由』『わたし以外の宇宙人は地球にいないはずなのに?』など・・・僕の妹=情報提供者、と思い込んだアミラさんは清香と会った直後のせいか、僕に容赦なく質問を浴びせてきた。
「香平さんにも話せない事情があるのはわかります・・・」
意外な切れ者だったアミラさんが僕に詰め寄った。
「これでは問題の本質が見えてきません」
「・・・・・・」
これは・・・浮気を問い詰められる旦那の気持ちか・・?
いっそ全てを話した方が楽になれる気もしたが、そうなるとカミラと鈴ちゃんの話題は避けて通れない。その二人が『僕とアミラさんの子孫です』なんて言ったらアミラさんはドン引きするだろう・・・とりあえず地球滅亡のシナリオと、死にかけた僕が宇宙に連れて行かれる未来が待っていり以上、余計なことを話してアミラさんに嫌われるわけにはいかなかった。
そんなわけで僕はアミラさんの質問には何ひとつまともに答えることができず、継ぎはぎだらけのおかしな説明と嘘で取りつくろう言い訳をひたすら繰り返すしかなかった。
「もう・・・わかりました」
すっかり挙動不審になった僕にさすがに呆れたのか、アミラさんが大きなため息をついた。
「今の香平さんの状態が、この前のわたしのような『嘘をつくのが上手じゃない人』の見本なんですよね?」
「そ・・・そうかもしれません」
僕とアミラさんの立場が喫茶店の時とは逆になっていた。
「まさか・・・アミラさんに皮肉を言われるとは思いませんでした」
「わたしだって皮肉くらい言います」
「あの・・・こないだは偉そうなことを言って・・・本当にすいませんでした」
「もう・・・いいですよ・・・済んだことですし」
そう言いながらアミラさんは笑った。
「それに勉強にもなりました」
「勉強?」
「はい・・・あの、けして皮肉ではなくて・・・こうして香平さんが言い訳している姿を見て、わたしも自分を客観視することができました」
アミラさんにも思うところがあるのだろう、申し訳なさそうな顔で僕に言った。
「・・・わたしも自分の偽りの経歴を話している時は、あまり楽しい気分ではありませんから」
僕が喫茶店でアミラさんから感じたことは、実はそれほど間違ってはいなかったようだ。
「わたしは・・・もっと、しっかりしないと駄目なんでしょうね」
「アミラさんは充分にしっかりしていると思いますよ? ・・・正直なところ、もっと線の細い、か弱い人なのかと・・・」
「これでも三人の弟の姉ですから・・・それに一応、わたしの方が香平さんより年上でもありますし」
アミラさんは庭園に差し込んでくる西日に眩しそうにしながらそう言った。
「さて、と・・・」
そう言ってアミラさんがベンチから立ち上がった。
「・・・香平さんのご自宅を見せて頂けますか?」
「・・・え?」
「わたしは香平さんが敵対する勢力の人間だとは思いません・・・が、それでも香平さんの話を信用するには、まだ情報が少なすぎます」
「・・・僕の身元を確認したい、と?」
「それだけが理由でも・・・ないですよ?」
そう言ってアミラさんは首に着けたシルバーのネックレスを指でつまんだ。
「プレゼントを頂いたお礼に・・・冷蔵庫にある食材で、何かお作りしますけど?」
僕は鈴ちゃんが残していった『幸せになれるネックレス』に感謝した。
★
いずれ僕は死ににかける運命にある。
それは数日以内に必ずやってくる。
しかし今の僕にはそんなことはどうでいい・・・なぜなら最悪のイベントの前に、最高のイベントが発生したのだ。
「聞いていた以上に、冷蔵庫の中に食材がありますね」
我が家の台所にアミラさんが降臨したのだった。
「・・・傷む前に使い切った方がいいかも」
僕はアミラさんの背後から冷蔵庫の中を覗きこんで、母の買い溜めをする性格に感謝していた。
「急に家を空けることになったからなあ・・・もう、好きなように使ってもらって大丈夫です」
「それでは、お言葉に甘えて」
そう言ってアミラさんは冷蔵庫の中からめぼしい食材をピックアップし始めた。それから後ろでウロウロしている僕に気づくと二コリと笑顔で言った。
「どうぞ気になさらず、向うで休んでらして下さい」
「あ・・・すいません」
僕がいるとかえって邪魔になるのだろうと察し、僕はすごすごと台所を後にした。
なんか新婚夫婦みたいだなあ、なんて一人でニヤニヤしながらリビングでテレビを見ていると、しばらく経って台所から美味しそうな香りが漂ってきた。
僕は鈴ちゃんに感謝せずにはいられなかった。どうしてアミラさんにネックレスを送ろうと思ったのかはわからないが、それが僕に幸運を運んできたのは間違いなかった。
まさか鈴ちゃんまで現れることはないよな・・?
鈴ちゃんは昨日のうちに未来に帰っていたが、先ほどの清香のパターンもあるので鈴ちゃんのサプライズ登場もありそうで怖かった。それでも新たに第四の未来人が登場するよりは、事情がわかっているだけ楽かもしれない。
僕は改めてこの数日の出来事を思い返していた。
まず清香が僕の前に現れた。その目的は僕の失踪を未然に防ぐためだったが、次にカミラが現れたことで事情が変わった。カミラは清香を止めるために過去に戻ってきたし、僕とアミラさんの関係や未来の清香の状況を教えてくれた。そして鈴ちゃんはアミラさんが僕に興味を持った理由や、僕の周囲に女性の陰かあるとアミラさんが僕から離れていくことや、地球が宇宙人に攻撃される可能性があることを伝えにきた・・・もし次に未来人が現れるとしたら、それはどういう役回りなのだろう? ・・・いや・・・次に現れるとしたら、今度はアミラさんに関係する宇宙人ではないだろうか?
僕はそんなことを想像して、つい可笑しくなってしまった。それがアミラさんの誘拐を企む宇宙海賊だとか、王位継承を巡って政敵が殺し屋を差し向けてくるとか、そんな厄介な来訪者だったら僕では対処できないが・・・。
ピンポーン。
どうやら正解のようだ・・・いやいや・・・そうではない。
玄関のチャイムが鳴った。
「・・・・・・」
これは僕がおかしなこを考えたせいだろうか?
僕は慌てて玄関に走った。
さすがに宇宙海賊が家のチャイムを押さないだろうが、それでも僕には一抹の不安があった。二度あることは三度あっても四度あってもおかしくない。
「あれ?」
しかし僕は玄関の扉を開けて拍子抜けした。
「・・・なんで?」
「なんで、ってことはないじゃない? ・・・可哀そうだから遊びにきてあげたのに」
そこに立っていたのはカミラだった。
たしかに現れたのは宇宙人だったが、それは僕が想像していた初登場メンバーではなかった。
「昨日で・・・みんな帰ることになったんじゃないのか?」
「なんでよ? あたしはパパが失踪する日まで残るって言っておいたでしょ?」
言われれてみればそうだった気もするが、昨日の夜に清香と鈴ちゃんが帰ることを聞いていたので、僕はてっきりカミラも一緒に帰ったのだと思っていた。
しかし今はそんな悠長ことを考えている場合ではなかい。
「カミラ・・・今すぐ帰れ」
「はあ? 何よ急に? ・・・あたしは、一人になって寂しいと思って・・・」
「家にアミラさんが来てるんだ」
「え? ・・・ママ?」
カミラはそこで玄関にある女性物の靴と、台所から流れてくる料理の匂に気づいた。カミラもアミラさんと顔を合わせるのがまずいことは自覚している。
「次に来る時には・・・前もって連絡するわ」
カミらはそう言うと慌てて住宅街の小道を走り去っていった。
やっぱりウチの一族には突撃系のDNAがあるのだと思う。
僕は玄関の扉を閉めると、おそるおそる家の中に戻った。もしかしたらアミラさんの宇宙人センサーにカミラが感知されたかもしれない。
とことがアミラさんは料理に夢中のせいか、カミラの気配に気づかなかったらしい。
短髪にしたから能力が衰えたのだろうか? 宇宙人の能力って猫の髭と一緒なのか?
わざとアミラさんが知らないふりをしているのかと思い台所を覗いてみたが、所狭しと動き回るアミラさんの様子からすると、もしかしたら来客があったことにも気づいていないかもしれない。僕はほっと胸を撫で下ろしながらリビングに戻った。
そして待つこと数十分。
アミラさんの料理は完成したのだった。
「すいません・・・お待たせいたしました」
そう言いながらリビングに現れたアミラさんに、僕は深々と頭を下げた。
「いえ、とんでもないです・・・なんとお礼を言えばいいやら」
「あの、それじゃ・・・わたしは・・・これで失礼しますね」
「は・・・はあ」
あれ? ・・・帰ってしまう?
僕はアミラさんの態度に違和感を覚えた。僕がこんなことを言うのもなんだが、まだ出来上がった料理も見てないし料理がテーブルに配膳された様子もない。それに僕はアミラさんも一緒に夕食を食べていくものだと思っていた。
「アミラさんも一緒に食べていきませんか?」
「あ・・・いいえ・・・わたしは、その・・・」
どうしたんだろう? 急にアミラさんの態度が余所余所しくなった。
「あの・・・アミラさんに急ぎの用事でもあったんですか?」
時間がないのに料理を作ってくれたのなら、それはそれで申し訳ない。
しかしアミラさんは慌てたように小さく手を振った。
「いえ・・・そういうわけでは、ないですが・・・その」
「・・・・・・」
僕は自分では気づかないうちにアミラさんに失礼なことでもしてしまったのだろうか? ・・・あまりにも喜びすぎて内側から変なオーラが漏れ出たとか?
僕があれこれ頭を悩ませていると、アミラさんが申し訳なさそうに言った。
「わたし・・・差しでがましい真似をしてしまって・・・本当に申し訳ありませんでした」
「・・・アミラさん?」
「・・・先ほど玄関で・・・彼女さんらしき女性を追い返す香平さんを・・・見てしまいまして」
「えっ?」
あれを見られていたのか・・・と驚くとともに、それならどうしてカミラに気づかないのか不思議だ・・・なんてことを考える暇も与えずにアミラさんが続けた。
「・・お母様の留守中にわざわざ彼女さんが遊びにいらしたのに・・・わたしが邪魔をしてしまい・・・本当になんとお詫びをすればよいのやら」
「・・・あ、アミラさん?」
あ、しまった・・・そういうことか。
僕は瞬時に理解した。アミラさんの思い込みの強さはこういう場面でも如何なく発揮されるのだ。これは鈴ちゃんが前もって指摘していた通りの展開なのだ。
「わたしは、もう二度とこの家には出入りしませんので・・・先ほどの彼女さんにも、そうお伝えください」
「ちょ、ちょっと落ち着いて・・・とにかく話を聞いてください」
ソファーに置いてあるバックを持ち、そそくさとリビングを出ていこうとするアミラさんを僕が慌てて呼び止めた。
「さっきの女の子は・・・えーと・・・ただの・・・知り合いなんです」
「ご近所にお住まいの・・・ご友人ですか?」
「・・・・・・」
「すいませんすいません・・・立ちいったことを聞いてしまって本当にすいません」
繰り返し頭を下げながらも着実にリビングを出ていくアミラさんに僕は困っていた。
「わたしは一刻も早くこの場を立ち去りますので・・・香平さんもお気遣いなさらず」
そう言って廊下を突き進むアミラさんを慌てて僕が追いかける。
「待って下さい、待って下さい、アミラさん、アミラさん・・・チャイムが、チャイムが鳴った時・・・な、何か気づきませんでしたか」
そう言いながら僕は咄嗟にアミラさんの腕を掴んでいた。このままだとアミラさんは僕の家を飛んで出ていきそうだった。
「ま、前髪は・・・前髪は・・・何か感知しませんでしたかっ」
とにかくアミラさんを引き止めるために僕は思いつくまま言葉を発していた。
「前髪・・・ですか?」
アミラさんは一瞬キョトンとした顔になったが、空いている手で短くなった自分の前髪に触れた。
「・・・前髪が、どうかしましたか?」
僕はこの時ようやく自分がアミラさんの腕を掴んでいることを自覚して、慌ててアミラさんの腕を放した。
「わたしは・・・何も感じませんでしたが?」
「そ・・・そうですか」
「それが・・・何か?」
「・・・・・・」
僕は自分とアミラさんの距離が思っていた以上に近いことにも気づいていた。腕を掴んで引きとめたせいか、お互いの身体が触れそうな位置にあった。アミラさんの顔も至近距離にあって、僕も思わずハッと息を呑んだ。
「香平さん?」
僕の動きがフリーズしたことを不思議に思ったのか、アミラさんが僕の顔を下から覗きこんでいた。僕の心臓が急にバクバクし始めていた。
「もしかして・・・熱があるのですか?」
アミラさんは僕が赤面しているのを誤解したようだ。アミラさんが首を傾げるタイミングで、僕の顔とアミラさんの顔がほんの数センチだけ近づく・・・顔が・・・顔の距離が近いっ!
「・・・きょ、きょりが、ちか・・・」
「はい? ・・・あの・・・声が小さくてよく聞き取れなかったのですが?」
そう言ってアミラさんは、さらに僕に顔を寄せてきた。
アミラさんの体温と、ほんのり漂う香水が僕の頭を麻痺させていく・・・。
「失礼しますね」
あまりにも自然な動作でアミラさんが僕の額に手を当てた。
「・・・熱はないようですが」
アミラさんの手が僕の額から離れた瞬間、僕は数歩うしろに後ずさっていた。このままアミラさんの至近距離にいるのは危険だった。アミラさんは平然としているが、普段から女っ気のない男子高校生には充分に刺激的だった。
ううっ、情けない・・・と思いながら僕はさらに数歩ばかり後退していた。
と、その時だった。
「香平さん? ・・・・あっ」
「・・・あ?」
アミラさんの声が聞こえた。
実際にはそれより少しだけ早く、僕の足の裏に違和感があった。
あ、これはスリッパだ・・・と思ったところで僕は足を滑らせていた。
「お・・・っと」
さすがにスリッパを踏んづけたくらいで転ぶことはないが、それでも緊張して体が硬くなっていたせいで、少しよろけて廊下の壁に手をついていた。
「あ~・・・もう・・・スリッパごときで転びそうになるなんて」
僕は片手で壁を押さえながら照れ笑いをした。
「あの・・・大丈夫ですか?」
心配そうな顔でアミラさんが僕に歩み寄ってくる。そんなアミラさんを見た僕は、この人は本当に優しい姉なんだろうなと思った。
「大丈夫です」
そう言って僕は軽く片手を上げた。
僕はそのつもりだった。
しかしアミラさんの歩くスピードと、アミラさんの距離の詰め方が僕の想定を超えていた。
『空間を支配しろ』
これはスポーツ解説などで聞く言葉だが、敵との距離のとり方やタイミングの外し方、その駆け引き次第でゲームの流れを変えるばかりでなく、時としてゲームの大勢にも影響する。
今回のアミラさんのケースはそれとは異なるかもしれないが、僕のスペースと僕のアクションを一瞬で支配した。
僕は『大丈夫です』と言って片手を動かした、が・・・。
むにゅ。
僕の手に不思議な感触があった。
むにゅ? ・・・なんだ、この『むにゅ』って?
僕は思わず言葉に出していた。
「・・・むにゅ?」
「き・・・・」
アミラさんの胸が僕の手に収まっていた。
「きゃあああ~っ!」
アミラさんが叫んだ。
場所が場所なら僕は痴漢の現行犯で逮捕されていただろうし、人が人なら僕はこの瞬間にビンタを食らっていただろう。
それがアミラさんで良かったのか、悪かったのかはわからない。
アミラさんはカミラの母親なのだった。
叫び声をあげたアミラさんの周囲に青白い光が飛び交った。
あ、そうか・・・アミラさんも電撃を出せるのか。
そう気ついた瞬間、僕はこの騒動の真相を知った。




