(1)
「月島香平さんでしょうか?」
僕はその日の帰り道、生まれて初めて美女に声をかけられた。
女性は二十代の半ばくらいだろうか、品の良い美人のお姉さんでOL風のスーツを着ていた。髪はセミロングで身長は僕より少し低いくらいだろう。
人生初の・・・まさかのイベントが発生した。
僕は普段から女性とは縁の無い生活を送っているので、これは本当に鈴虫の御利益ではないか、なんて考えていた。
「はい・・・月島ですけど」
僕はそう答えながらも『なんで僕のフルネームを知っているんだろう?』と思ったが、目の前にいるお姉さんが美人だったので細かいことは気にしないようにした。きっと僕のようなタイプが標準的な男子と思う。
女性は僕が月島香平であることに安心したようで、やや緊張していた顔に笑顔が浮かんだ。
「よかった・・・もし人違いだったらどうしようかと思いました」
どことなく親しみやい感じの女性だったので、もしかしたら僕は以前にこの人と会ったことがあるのかもしれない。
「あ、すいません初対面なのに・・・私ったら馴れ馴れしいですよね」
はい、初めまして・・・でも僕は馴れ馴れしい美人は嫌いじゃないです。
しかし初対面ということだが、このお姉さんはいったい何者なのだろう? ・・・まさか昆虫の国からやってきた、鈴虫のプリンセスでもあるまい。
目の前にいる男子高校生がそんな妄想をしているとは思っていないだろう女性が、僕に軽くお辞儀をした。
「突然のことで申し訳ございません・・・・あの・・・私は『清香』と申します」
その清香さんは改まった口調で僕にそう告げた。名前だけではこの女性の正体がわからなかったが、僕の好みのタイプが礼儀正しい美人であることはたったいま判明した。
そんな清香さんは妙にモジモジしていた。
「それで・・・その・・・私は・・・あの・・・」
僕に愛の告白でもするつもりなのか? ・・とはさすがに思わなかったが、僕は少し身構えていた。こういう状況で『幸せになれる壺』をセールスされたら買ってしまいそうで怖い。世の中がそんなに甘いものじゃないことは僕でなくとも知っている。
僕はそのまま清香さんの次の言葉を待っていたが、一方の清香さんはなかなかその後の言葉を言い出せずにいた。
「その・・・私・・・私は・・・ずっと・・・今まで・・・」
気づくと清香さんの目が涙で潤んでいた。
え? ・・・泣くの? ・・・どういうこと?
「・・・・・・」
僕は呆気にとられていた。何が清香さんの感情を刺激したのかは知らないが、清香さんは泣いていた。僕は予想外の展開に驚いていたし、率直に『なんだこの人?』と思った。
これって鈴虫の恩返しじゃなくて、もしかしたら鈴虫の呪いなのではないだろうか?
自分でも驚いたらしい清香さんが、慌てたようにポケットからハンカチを取り出した。
「あの・・・ごめんなさい・・・私ったら・・・つい」
清香さんは申し訳なさそうに言ってハンカチで瞼を押さえていたが、それを見ている僕の頭を『情緒不安定』の言葉がよぎった。
「えーと・・・あの・・・まさかとは思いますが」
とにかくこの場はギャグでもなんでも言って、とりあえず場を和まそうと僕は思った。
「・・・お姉さんは、鈴虫の国のプリンセスでは・・・ないですよね?」
このフリがきっかけとなれば『え? それってどういうことですか?』『実は今朝こんなことがありまして』『まあ、そうなですか。愉快な話ですね』『はい、そうなんですよ。あはは』『あらまあ。おほほ』みたいな流れも期待できる・・・かもしれない。
「・・・え? ・・・鈴虫? ・・・プリンセス?」
しかし清香さんの反応は芳しくなかった。清香さんは大きく目を見開いて、僕の顔を茫然と見ている。
僕は急いで前言の撤回をした。
「あ、いや・・・なんでもないです・・・今のは忘れて下さい」
僕はこのままだと頭のアレな男子高校生と思われてしまう。少しだけ背中が汗ばんできて、僕は早くこの場を立ち去りたくなっていた。
本当に僕のことをヤバイ奴だと思ったのかどうか定かでないが、清香さんの涙の量が一気に増えていた。
「なんで・・・なんで・・・そんな変なことを、言うの・・?」
清香さんはとうとう鼻水もすすり始めた。
「プリンセス・・? プリンセスだなんて・・・どうして、そんな意味のわからないことを・・・」
「あの、すいません・・・ほんの冗談のつもりだったんですが・・・」
「こ・・・この頃から・・・もうこの頃から・・・精神的に・・・おかしくなっていたなんて・・・」
とんでもない誤解と偏見の言葉を口にして、清香さんは小さく嗚咽していた。
『一流の男は、美女を泣かせて初めて一人前になれる』
これは外国俳優の言葉だっただろうか? ・・・というか、この状況とは絶対に違うと思う。
とにかく清香さんは泣いていた。リンリン鳴かなかったのがせめてもの救いだったが、僕はどうにも困っていた。さすがに路上で泣いている女性を置いて、一人で逃げ帰るわけにもいかない。
「あの・・・大丈夫ですか?」
もしかしたら清香さんは少しくらい大丈夫じゃない人なのかもしれない。
「・・・・どこか具合の悪いところでもありますか?」
「・・・・・・」
しかし清香さんからの返事はなく、相変わらず鼻をクスンクスンとさせていた。僕はなんとなく童謡の『犬のおまわりさん』を思い出していた。何を聞いても答えてもらえないおまわりさんの悲しみを、今の僕はハートで感じていた。
「あの・・・本当に大丈夫ですか?」
今の僕にできるのは、こうやって話かけることくらいだ。
「どこかで少し休憩したほうがよくないですか?」
「・・・・・・」
「き・・・お姉さん?」
するとここで清香さんが反応した。
「・・・お姉さん・・・なんて・・・呼ばないで・・・」
「・・・は?」
なぜに『お姉さん』がNGワードなのかは不明だが、とにかく清香さんは僕の言葉に反応した。僕も名前で呼びかけようと思ったのだが、それも馴れ馴れしいような気がしたので止めていた。
清香さんがハンカチの隙間から僕の顔を見た。
そして言った。
「私は・・・私は・・・あなたの妹です」
「・・・・・・」
僕には妹はいない。生まれてから十六年間ずっと一人っ子だ。
そしておそらく、この世には自分より年上の妹は存在しない。それはイコール『姉』である。年上の義理の妹とか年下の叔母とか、特殊な条件や立場ならそういう話もありえるが、僕の常識では年上の妹は存在できない。
「あのう・・・僕は一人っ子ですし、年齢も十六歳なんですけど・・・」
これがまだ『私はあなたの姉です』なら飲み込むこともできた。僕に生き別れの姉がいるとか、実は父に愛人がいて子共を作っていたとか、そういうの設定なら話を合わせることもできた。清香さんはかなりの美人だったので、少しくらいの変人なら仲良くなってもいいと思っていた。
「私は・・・私は今年で二十六歳になります」
あ、この人・・・危険な人かもしれない。
僕より十歳も年上の妹という話を貫くつもりなら、ちょっと関わらない方がいいタイプかもしれない。
しかし清香さんはハンカチを強く握りしめながら言った。。
「でも・・・それでも、本当なんです・・・信じてください」
僕はダッシュでこの場から逃げ出したい衝動に駆られていた。こんなに感情を揺さぶられたのは生まれて初めてのことだった。こわい、こわい。
そして清香さんはここでさらにミステリーな発言をした。
「私は・・・私は未来からやってきた・・・あなたの妹なんです!」
「・・・・・・」
誰か・・・誰か僕を・・・僕をこの窮地から救ってくれませんか? ・・・僕の心の声が世界の誰かに届きますように・・・と、それはさておき。
僕もマンガや小説は好きなので、そういう設定の話があるのは知っている。タイムトラベルを題材にした映画も見たことがあるし、そんなことが現実で起きれば面白いだろうとも思う。しかしそれはあくまでフィクションの世界の出来事だし、常識のある人間なら妄想と現実の区別はしっかりとつけなければならない。つまり僕が考えている恩返しの話も『そんなことが起きればいいのになあ』という妄想の『ごっこ遊び』なのだ。だから僕だって本当に鈴虫が恩返しにくるなんて思ってはいない。
そう考えると清香さんはだいぶ困った人の可能性がある。
「・・・すぐには信じてもらえないかもしれません」
それでも清香さんは話を続けた。
いつの間にか清香さんの目から涙は消えていたし、徐々に冷静さを取り戻しているようにも見えた。
清香さんは自分の腕時計にチラリと目をやった。
「今から五分後に・・・兄さんに電話がかかってきます」
「兄さん・・・って」
「いいから聞いてください・・・その電話は母さんからのものです」
清香さんは先ほどとは別人のようなクールな雰囲気を醸し出し始めた。そして僕の目を真っ直ぐに見つめていた。
「父さんが・・・単身赴任中の私たちの父さんが、一時間ほど前に交通事故にあいました。母さんからの電話はそれに関する内容です」
「父さんが・・・・事故?」
「そうです。そして母さんは父さんの元に急いで向かうことになります。これから兄さんにかかってくる電話は『留守番を頼む』という報告です」
「ちょ、ちょっと待ってよ・・・」
「大丈夫です。父さんの命に別条はありません。タクシーで信号待ちをしていたところに追突されただけなので、軽いムチ打ち程度の怪我ですみます」
清香さんは急に優秀なキャリアウーマンのように整然と説明を始めた。それが自然に見えるのは本来の清香さんがそういう人間だからかもしれない。
そして五分後、僕に母さんからの電話がきた。
それは清香さんが言ったとおりの内容だった。
★
「この事故がきっかけで、夫婦の絆が深まります」
「ああ、なるほど・・・失いかけて幸せに気付いた、みたいな」
「で、その一週間の間に・・・あの・・・・つまり私が・・・まあ・・・出来上がりました」
「そうか・・・出来上がったのか」
喫茶店でコーヒーを飲みながら僕たちは話をしていた。
よく見ると若い頃の母にそっくりな清香さんだったが、もちろんそれだけ僕が全部の話を信じたわけはなかった。たしかに先ほどの電話や事故の詳細などは合っていたし、これから母の乗る飛行機が一時間遅れて離陸することや、僕が家に帰ると一週間分の生活費が封筒に入れてあることなど、僕がまだ知らない情報が出てきたことでようやく半分くらい信じた。もちろんこれは清香さんの口から出まかせかもしれないし、母との通話内容も僕の言動から推測することができただろうし、これが家族ぐるみのドッキリ企画の可能性だってある。
僕は半信半疑のまま清香さんと相対していた。
「だから私の誕生には計算しやすいですよ? きっちり十月十日ですから」
「・・・ま、夫婦仲が良いのはいいことだ」
それでも僕はこの状況を楽しんでいた。とりあえず清香さんの話は辻褄があっていたし、たとえドッキリでも家族の立案した企画なら危険はないだろう。
「私は完全に母さん似なんですけど・・・兄さんの顔も母さん寄りですよね?」
「まあ・・・そうかな」
「写真よりも実物の方が母さん似なので、ちょっと『可愛い』って思いましたもの」
「女顔なのがコンプレックスなんだよ・・・それはやめめてほしいなあ」
「ふふふ・・・なんか年下の兄さんって可愛いですね」
そう言って笑う清香さんはチャーミングな女性だった。僕は一人っ子なのでこういう姉(妹だが)が欲しかった。これは女きょうだいのいない男子に共通する願望だと思うが、性格の良い姉妹や美人の従姉妹が急に現れたら仲良しになりたいはずだ。さすがに昔の母親にそっくりな女性に欲情することはない・・・一応、念のため、言っておく。
一見するとまったりとした良い時間を過ごしているような僕たちだったが、その裏では僕も色々なことを考えていた。
まずは清香さんの目的が不明だった。
こういうマンガや小説には一定のパターンがある。過去に戻って歴史を変えることで誰かの命を救うとか、逆に誰かの命を消す場合もある。清香さんが僕の命を狙うヒットマンには見えなかったので、あるとすれば歴史を変えるために過去に戻ってきたパターンだ。たまにハプニング的に過去に戻るコメディもあるが、そういう場合は本人に自覚がないことが多い・・・なんて、こんなことを真面目に考えている自分がアホらしくもあるが、そんなSFもどきの設定を検証するより先に現実的な話をするべきだろう。
「もう、単刀直入に聞くけどさ・・・」
僕は正面から話を切り出した。
「清香さんは、とう・・・」
「あ・・・私のことは『清香』でいいですよ? 私が妹なんですから」
「さん・・・え? ・・・ん? ・・・あ、そう」
いきなり話の腰を折られた。
「う・・・えーと・・・それじゃあ・・・清香、も敬語は無しで話をしよう」
「うん・・・わかった」
「・・・で・・・その・・・えーと」
勇んで抜いた単刀だったが、抜いた直後にグニャっとなった。僕は自分が何を言おうとしていたのかを忘れて、ふーっと息を吐いてから一口だけコーヒーを飲んだ。対面の清香はそれをニコニコしながら見ている。兄の威厳はどこへやらで、傍目に見れば僕は完全に弟だろう。
そんな仕切り直しの後で僕が口を開いた。
「清香は・・・本当は父さんの愛人・・・ってことはないよね?」
「はあ?」
清香が素っ頓狂な声をあげた。
「どどどどど・・・どうしてそういう話になるのよ?」
「・・・現実的に考えると、父さんの事故を知っている人間は限られるだろ?」
普通に考えれば、数時間前に起きた事故を知っているの事故の当事者、警察、家族、一部のマスコミ、目撃者及びそこから派生するSNSだろう。
「それで・・・なんで私が父さんの愛人ってことになるの?」
「愛人が父さんの事故を仕組んだ犯人で、その混乱の隙に家族とコンタクトをとって、嘘の話を持ちかけて家族を亡きものにする・・・こういうシナリオはどうだろう?」
「・・・なにそれ?」
清香が呆れたように言った。
「でも、そうね・・・もしも私がこの時代の人間だとしたら・・・兄さんに近づく理由が必要だものね?」
「うん」
「・・・と、いうことは私の顔は母さんに似せて整形したものなのか・・・これは手間がかかるわ」
「名推理だろ?」
「知らなかったなあ・・・兄さんって探偵だったのね」
そういう清香も探偵助手に向いていると僕は思った。これなら息の合った兄妹で探偵事務所でも開けそうだ。
清香が感心したように言った。
「高校生の兄さんが、まさかそこまで深く考える人だとは思わなかったな」
「あくまで常識を重んじるタイプなんだよ」
「慎重派なのね、うん・・・あえて『疑り深い人』とは言わないであげるわ」
そう言って清香はクスクス笑った。
「でも残念でした・・・私は本物の妹なのよ?」
「うん・・・たぶん、そんな気がする」
そうなのだ。
いつの間にか僕は清香が実の妹であることを信じている。
もしも清香が現代の人間であるならば、さっきのミステリー仕立ての設定が必要になる。それは別にドッキリ企画でも構わないのだが、そうじゃなければ清香がわざわざ『未来からきた妹』なんて嘘をつく理由がない。
そして初めて出会った時から清香の視線は真っ直ぐに僕に向いていた。言動も迷いがなくて一貫しているし、僕に対する感情も溢れ出ていた。もしこれが全て演技だとしたら清香は名女優になれるだろう。
「・・・だから聞くのが怖いんだよなあ」
うーん、と僕は頭を抱えた。
これがラブコメ仕様のタイムトラベル物なら僕も少しは期待するのだが、今のところ登場人物は兄と妹だけだった。その妹は頭のよさそうな人物で、ノリや冗談で過去に戻ってくるタイプとは思えない・・・まさか清香の背後に巨大組織があるとか、そこで何かの陰謀が渦巻いているとか、清香は単なるエージェントなだけとか、そんな設定があるのだろうか?
そんな僕の内心を察したのか、清香の表情が一瞬で引き締まった。おそらく真面目な話をするために気持ちを切り替えたのだろうが、僕はこういうきりっとした清香の方が好みだったりする。
清香が声のトーンを抑えながら言った。
「そうね・・・私も単刀直入に用件を言うわ」
僕の妹の単刀は切れ味がよさそうだった。




