プロローグ
【】→精霊語
太陽が昇り始めた真冬の澄み切った空に、白い息が一定のタイミングで現れ、それと一緒に大地を蹴る足音がする。
早朝から寮を飛び出し、ランニングをしていた少年、エルバートは一旦足を止めると、ストレッチをしながら上がった息を整えていた。
ある程度落ち着き、空を見上げると、空は雲一つない快晴である。
東と西の二つの太陽が昇り始め、空の色は地平線付近は暁色に染まり、上に行くにつれ暗くなり、まだぼんやりを月が見えていた。
少し遠くに見える校舎と空の風景は一種の美しい絵のようであり、エルバートは目を輝かせた。
息を大きく吸ってみると、冷たい空気が鼻腔を刺激しツーンとしたような痛みを感じるが、それさえ心地いい。
エルバートは、普段は朝礼が始めるまでぎりぎりまで寝ているが、今日はふと目が覚めた。
そして、試験が近いこともあり、普段はやらないランニングをしようと思いついたが、その選択は正しかったようだ。
エルバートは「早起きは三文の徳」ということわざを心で噛みしめながら、今日の自分の行いを内心自画自賛した。
ランニングを再開しようとしたエルバートが、走っていた道に目を戻すと、二手に分かれている道が見える。
一方は寮に戻る道であり、もう一方は中庭に続く道だ。
エルバートはどちらに行くか迷うと、目を閉じ、姿勢を正した。
これは、エルバートがなにかに迷ったときに行う癖のようなものであった。
余計な感覚情報を遮断し、全身で空気を感じると頭が冴えわたるように感じるのだった。
しばらく目を閉じていたエルバートが目を開けると、その足はすでに中庭の方に向かおうとしていた。
エルバートが中庭に到着すると、そこは大分殺風景であった。
中庭は林の入り口を丸く開いた形をしており、あまり広いとは言い難い。
中庭のちょうど中央にある噴水は早朝である現在はまだ動いておらず、噴水を囲むように設置しているベンチにも誰も座っていない。
その光景を見たエルバートは勘が外れたことにガッカリした。中庭をもう一度見渡したエルバートを大きくため息をつき、踵を返そうとした。
その時―――
エルバートの頬を風が撫でた。
(シルフ?)
エルバートが心の中で問いかけると、何も無い空間から一人の半透明の小さな少女が現れた。
空中に浮いている少女は百合の花で作られた衣装を身にまとっており、銀色の髪にも百合の髪飾りをつけている。
シルフは4大精霊のの中で「風」の精霊の名前である。
大精霊は気まぐれにごくわずかの魔法使いに加護や祝福を与える。加護や祝福を与えることが出来るのは大精霊のみで、上位・中位・下位の精霊は使役することが出来る。
とは言っても、どの精霊を使役できるかはその者の魔力量や相性によって変わり、下位精霊は魔法が使えない者でも使役できるが、上位精霊になるにつれて使役出来る者は圧倒的に少なくなる。
大精霊から祝福・加護を与えられるものはさらに少ない。
加護を与えられたものは国の中にも僅かしかおらず、「選ばれた者」として称えられるのである。
エルバートは「選ばれた者」のうちの一人で、風の大精霊シルフの加護を受けていた。
大精霊は加護や祝福を与えるものの、滅多に姿を現さない。
しかし、シルフは人間好きなのか、エルバートをことさら気に入っているのか、他の大精霊に比べて姿を現すことが多かった。
シルフはエルバートの周りを一周すると、にんまりとほほ笑んだ。
元々、シルフの性格は悪戯好きであり、エルバートもそうであった。
二人でよくエルバートの仲間に悪戯を仕掛け、遊んでいた。シルフの浮かべた表情は悪戯を行う時のそれとよく似ていた。
エルバートもつられるようにいたずらっ子のような表情を浮かべた。
シルフは人差し指を口元に当て、内緒のポーズをとると、エルバートを誘うように中庭の奥へと入っていく。
エルバートも足音を立てないようにシルフの後を追った。
中庭の奥の林に入り少し歩いたところで、ある木の陰にシルフがいた。
シルフはエルバートを見て、先程の仕草をすると、空いたもう一方の手でエルバートを招くように手を振った。
なお一層気配を消しながらエルバートが近づき、木の奥をのぞき込むと、中庭よりは狭いが開けた空間が広がっており、小さな湖もあった。
そして、一人の少女が湖のほとりに座っていた。
亜麻色の髪をしたその少女はなにか口ずさんでいた。
彼女の歌声は波の立たない湖のように静かで深くまで透き通っていて、それでいてどこか悲しみを含んだようであった。
エルバートは、その歌声にどこか懐かしさを感じた。
もっと聞きたいと身を乗り出そうとしたとき、彼女が気配に気づいたのか、エルバートの方をハッと振り返った。
エルバートは思わず木の陰に隠れた。
「誰かいるの?」
彼女の声にエルバートが立ちすくんでいると、傍にいたシルフが素早く彼の周りをくるっと回る。
すると、エルバートの周りには星を砕いたような輝いた粒子が現れ、彼を包み込んだ。
シルフはエルバートににっこりと笑いかけ、彼女の方へ向かっていった。
【私だよー。相変わらずするどいね】
「シルフ?」
【えへへー。驚いた?】
エルバートは先程のシルフの行動がここにいるように言っているように感じられ、様子を見ることにした。
それに、二人の関係が気になったのだ。
少女に気づかれないように細心の注意を払いながら、もう一度木の陰から二人を覗き込んだ。
「人の気配がした気がしたんだけど……」
【気のせいじゃない? 見てごらんよ? 誰もいないでしょー?】
エルバートはシルフの言葉に驚き、また身を隠した。
シルフに心の中で悪態をつきながら。
(シルフのやつ嘘だろ? さっきの笑いは何だったんだよ)
少女の足音がエルバートのいる木のところへ近づくのが分かる。
息を殺し、身体をできるだけ小さくしながら隠れていたが、少女は途中で足を止め、辺りを軽く見渡すとシルフのところへ戻って行った。
「そうね、私の勘違いだったみたい。周りに私以外の魔力も感じられないし……。疑ってごめんなさいね」
【うーん、さっきの歌の続き聞かせてくれるなら許しちゃおうかな】
「はいはい、分かったわ。お詫びにおまけもつけてあげる」
少女がまた歌い出したのを聞いて、エルバートはやっと小さくしていた身体を伸ばした。
そして、自分を光の破片の役割とシルフの笑みの意味を理解した。
光の破片はエルバートを少女から隠しているのだろう。また、シルフの笑みはエルバートの想像した通り、安心してこの場にいろ、ということらしい。彼女の性格を考えると、エルバートを驚かせようと悪戯心もあるかもしれないが。
エルバートはシルフにもう少し分かりやすく教えてくれてもいいのではないか、と不満を感じながらも安心して、今度は先程よりも身を乗り出して二人の様子をうかがった。
少女の歌は続いていく。
シルフに対して言っていたおまけなのか、魔法も歌と一緒に使い始めた。
エルバートは少女の作り出す魔法に衝撃を受けた。
それは彼の人生の中で見たこともないほど繊細で美しいものだった。
少女が歌に合わせて軽く手を仰げは、左右から様々な違う色の花が現れる。
赤い花は炎をまとった鳥となり天に昇り。青い花は魚となって湖に還る。
白の花は風となってシルフと踊り。緑の花は大地に還り新たな花を咲かせる。
光のように輝く花は天使となって大地に咲いた花を愛で。闇のように黒い花は悪魔となって大地に咲いた花を赤く棘のある薔薇へと変える。
(すげぇ……。すげぇ。すげぇ!)
エルバートは目を輝かせた。
興奮して、身体から何かが湧き上がるような感じがして、鳥肌が立つ。
彼女の詠唱もせず、魔法を発動させる技術も、あまりにも緻密で繊細な制御力も自分達の所へ欲しいと思った。
(--やっと見つけた!)
エルバートは抑えきれない衝動に駆られ、立ち上がると、寮へと一目散に走って行った。
エルバートが林から走って出ていくのをシルフは踊りながら横目で見送った。
あのいたずら気な笑顔を浮かべて。
この2人の出会いがエルバートの今後の人生を大きく変えることとなる。
これからよろしくお願いします。