6話:穴に入る/穴を進む
朝四時四十五分。集合時間十五分前。欠伸を噛み締めながら緒川封穴が入っているビルの前にやって来ると、『しょんべん』の降りたシャッターの前で眠りこける井沼さんと、妙にハイテンションな一柳さんが先に来ていて迎えの車を待っていた。どうやら井沼さんは朝早く来たというより、朝まで飲んでそのままここで寝入ってしまったらしい。
時間通りにワゴン車に乗ってやって来た社長と土谷さんが、井沼さんを一番後ろの荷物置き場に担ぎ入れて、僕達は宇井町の『穴』に向けて走り出す。
運転する社長の横で、緒川は相変わらずの爆睡中だ。
宇井町は同じ白神区といっても山を越えた向こうにあるので、車は住宅街を離れ山道に入っていく。朝もやのたつ山の中。少し前に汗だくになって自転車で越えた山道を、ワゴン車は颯爽と上っていく。
「緊張してる?」
隣に座った一柳さんが、優しげな口調で話しかけてくれる。。
「してます……一柳さん、怖くないんですか?」
「俺だって最初の仕事をやる前日は眠れなかったぜ。戦争映画を朝まで見てて、こんな風に死んじゃうのかな、とかさ。すげーブルってた。だけど大丈夫だよ。うちのチームには絶対的な女神様とナイトがいるんだからさ」
「女神様とナイト?」
「まっ、穴の中に入れば分かるよ。さっ、見えてきたぞ!」
山を越えたばかりの彼方に、眩い朝日と田んぼの中に開いた穴が見えてくる。山を降りた車はそのまま田んぼ道を進み、自衛隊のキャンプが張られた広場に辿りついた。
「ご苦労様です」
と、自衛隊の人達からIDチェックを受けた僕達は、まずテントの中で『緒川封穴』と背中に書かれたツナギに着替えて、その後、ヘッドライト付きのヘルメットを社長から受け取った。
「じゃみんな、荷物の積み下ろしやろう」
社長の一声で、ワゴン車の荷物置き場から幾つもの登山用ザックを取り出しに行く。無数の杭が入ったザックを背負うと、ずっしりとした重みが背中にかかった。
みんなもそれぞれザックを背負っていて、中に何が入っているかと社長に聞くと「食料、水、医療品、テントに寝袋、代えの衣服……ま、穴の中で生きていくために必要なものだよ」と教えてくれた。
「400メートル級の穴だっていうし、二度目のアタックだしね。順調に行けばこれくらいの穴ならコアまで三日はかからない思うけど。何が起こるか分からないのが穴だからね。準備だけはしておかないと」
そして穴がある方へと、田んぼ道を歩いていく。
「あれ、でも武器ってどうするんです? 荷物の中にはなかったような気もするけど」
寝ぼけ眼で付いてくる井沼さんに尋ねる。
「僕らがそういうの管理するわけにはいかないからねぇ。ほら、あれ見てみてよ」
井沼さんが指差した先を見ると、自衛隊のトラックと、その前に並ぶ『永継警備保障』というロゴが書かれた軍服を着込んだ人たちが目に入る。『永継警備保障』の人達は、自衛隊の人からIDチェックを受けてから、様々な銃器を受け取っていく。中には、最新のレーザー砲のようなものもあり、これから戦争でも始めるのかってくらい凄い武装をしていた。
「ああやって現地で自衛隊から武器を受け取って、出るときに現地で返すんだよぉ――って、ええ! 社長、今回は永継の連中と一緒に潜るんですかぁ?」
いつも笑っている井沼さんにしては珍しく、げんなりとした表情を見せる。
「この間の失敗で、区側も心配になったらしくてねぇ。共同でって話になっちゃったんだよ。はぁ……せっかくあいつらを出し抜いて、この仕事、受注できたってのに……」
「面倒なことにならなきゃいいですけどねぇ」
一緒に潜る人間が増えるんだから安全になるような気もするんだけど、よく分からない大人の事情でもあるんだろうか。
とにかく『永継警備保障』の人達が武器を受け取って去って行き、今度は僕達の番になる。土谷さんがショットガンと拳銃、それに手榴弾を受け取り、一柳さんがアサルトライフルとやはり拳銃を受け取る。どれも永継の人達のそれとは比較にならないくらい旧式の物だ。そして井沼さんは、後ろが膨らんだ白い筒に引き金がついただけの妙な武器を受け取った。
「あっ、僕は?」
自衛隊の人は、手持ちのパネルに僕のIDカードを通して、
「えーっと。三崎康平さんには、銃器の使用申請は行われていないようですね」
と、言った。
「大丈夫。あなたは戦う必要なんてない」
いつの間にか僕の後ろにいた緒川がボソッと呟く。今日始めて声を聞いた気がする。
「そうなの? そういや緒川も、何も武器を持ってないの?」
「観念と言葉は、何よりも美しく、そして劣悪な武器である」
そして緒川は、そのまま穴のある方へとすたすたと歩いていく。
対話がなりたたない。
僕はこの職場で、緒川とやっていけるのだろうか、と改めて一抹の不安が胸を過った。
日も昇ってきて、辺りに蝉の鳴き声が満ち満ちてくる。
穴へと向かう道すがら、自衛隊の人が口々に「ご無事で」と言い、敬礼をしてくれた。皆、屈強な体つきで、きびきびとした歩き方一つ見ても日頃の訓練が見て取れるようだった。
「そういえば、なんで自衛隊の人達がやらないんですか、封穴作業って?」
恍惚とした表情で、受け取ったアサルトライフルに頬擦りしている一柳さんに聞く。
「日本全国に開いた穴を全部自衛隊が塞ぎに行ったら、北に西に防衛ラインが緊迫し続けている状況で国土防衛がなりたたない、ってのが建前でね。まぁ、本音としちゃ軍人さんの死人を出したくないわけよ。死人が出れば色々と金がかかるからね」
「僕達、死んでもお金かからないんですか?」
「まぁね。でもいいじゃない、地獄の沙汰も金次第なんて言うけど、どうせ日本円使えないでしょ。地獄」
ぽっかりと田んぼの真ん中に開いた半径4メートルほどの穴ぼこが、目の前に迫ってくる。
「それにさ。そのおかげで、あの場所で俺達は戦争できるんだからさぁ!」
目を血走らせた一柳さんは「ひゃはっ!」と声をあげて笑う。あまり共感できる意見ではないけれど、そういう仕組みがあるおかげで僕みたいな民間人がこうして穴に入れるんだから、殊更ネガティブに捉える必要もないのかもしれない。
「それじゃ、無事に帰ってきてよ!」
社長が、穴の手前で僕達を送り出す。
僕達は、みんなで「いってきます!」と声をあげて、穴ぼこの中へと入っていく。社長と一緒に、穴を囲むように銃器を構えて警備していた自衛隊の人達も「いってらっしゃい!」と大声で返してくれた。
田んぼの真ん中に開いた穴の入り口は、水田の土や水が入り込んで地面がどろどろになって滑りやすくなっていて、僕は急な坂道に転びそうになりながらも、なんとかバランスを保って下っていく。
既に突きつけられているトーチの明かりを頼りに進むと、穴を形作る材質が土から岩へと変わっていく。蝉の音に風の音、外界の音が全て消え去り、足音だけが響く静寂に包まれた穴の中は、まるで世界から切り離されたようで、怖くもあったけれどなんだか心地よくもあった。
「早くでないっすかねぇ! ツチクレ!!」
多少平坦な道に来ると、抑えきれないといった様子でアサルトライフルを握り締めた一柳さんが言う。
「あの手ごわい奴にはもう会いたくないけどねぇ」
井沼さんが返す。どうやら二人の会話を聞いているとその「手ごわい奴」とは、前に潜った時に緒川封穴の一人を殺したツチクレのようだった。いきなり奇襲を受けてその人がやられてしまい、みんな命からがら穴の外まで逃げて来たのだと言う。
「シッ、何かいる」
急に土谷さんが、右手を上げて二人の会話を止める。聞き耳を立てると、確かに前方からがさごそと物音が聞こえてくる。
「来たか!?」
一柳さんがアサルトライフルを持つ手に力を込めるが、土谷さんは手を振ってそれも制止する。
「いや……これは、人間だ」
恐る恐る音のする方へ進むと、『永継警備保障』の軍服を着た人達が輪になって話し込んでいるのが見えてくる。よく見ると中心にいるリーダーの男以外は黒人、白人ない交ぜにした外国人部隊のようで話は英語で行われていた。
「土谷さん。こんな所で会うとは、あなたとはよくよく縁がありますね」
リーダーの男は、こちらに気付くとつかつかと歩いてきてそう言った。背が異様に高く痩せた身体、きっちりとオールバックに整えられた髪。暗闇の中、トーチの明かりで照らされるその男の顔は完璧な無表情で、感情がまるで読み取れない。
「何が縁だ。死神が」
逆に普段、感情をあまり表に出さない土谷さんが嫌悪感を顕にする。
「懐かしい呼び名ですね。光栄です」
その男は、右手をぬっと土谷さんの前に差し出すが、土谷さんはその手を握り返す気ははないようで、ただ睨みつけている。
「まぁ仕事の話をしましょうか? あなた方は前回と同じルートを行くつもりですか?」
死神と呼ばれた男が後ろを指し示して聞いてくる。道は二股に分かれて、左の道は前回潜った時に立てたと思われるトーチが立っていて、右の道は暗闇の中に沈んでいる。
「仲間が命を賭けて切り開いた道だ。信じて進むだけだ」
「相変わらず勇ましい人だ。ならば私は新規ルートを開拓するとしましょう。死人が出たルートなんて縁起も悪いですからね」
それだけ言うと男は、外国人部隊を引き連れて暗がりの道へと消えていった。
「あの永継の人、土谷さんの知り合いなのかい?」
食い入るように男の背中を見つめていた土谷さんの肩を叩いて、井沼さんが聞いた。
「実篤と言う男で……昔少し」
それだけ言って、何か考え込むように闇を見つめた後、一息つく。
「とにかく用心した方がいい。あいつに関わった奴は、みんな不幸になっていくんだ」
「へぇ……まぁ今回の仕事って、社長が無理矢理、永継のトコの談合をブチ壊して取ってきた仕事だもんねぇ。恨まれてるだろうし、治外法権の穴の中でズドンってのは恐ろしいもんねぇ」
「襲われたら、人間を……撃てる……ひひっ!」
二人の会話を聞いた一柳さんが、恐ろしいことを口走る。大人の話は良く分からないけど、穴に入ってからというもの何がヤバいって、ダントツに一柳さんがヤバいと僕は思っている。
挿されたトーチの光を頼りに、曲がりくねった細い道を黙々と進んでいく。気が付けばもう穴に入ってから六時間が経過していた。
天井が急に低くなったり、足元に突然の段差があったり、光がなければこんな簡単に進める道ではないだろう。僕は、穴の中を進むにつれて自分が背負ったトーチの大切さを感じ始めていた。
と、先頭を行く土谷さんが立ち止まる。
「来たぞ」
その一言で皆がぴたっと足を止める。物音一つしない穴の静寂。その奥底からボーという重低音の不気味な音が聞こえてくる。何か分からないが、それがとても危険なものだということは、近づいてくる音の不快さから理解できた。
「もうちょっと開けた所に出たいねぇ」
「少し進めば、確か広場があったはずだ。康平君、少し急ぐが大丈夫か?」
土谷さんに聞かれて、僕は慌てて頷く。
「じゃあ、行くぞ」
皆、足場の悪い道を、まるで忍者のように颯爽と駆け下りていく。あの小太りの井沼さんですら、その足運びは見事なものだ。僕はなんとか置いていかれないようにと付いていくが、どんどんみんなが遠くに行ってしまう。
「軽くするから」
いつの間にか背後に来ていた緒川が、僕のザックに手をあてる。と、いきなりザックの重みがなくなり僕は前につんのめりそうになった。
「ついてきて」
僕は今自分の背中で起きている謎の現象に戸惑いながらも、これなら追いつけそうだと慌てて緒川を追いかけていく。
細い道を抜けると半径8メートルくらいの広場があって、向こう側の広場の入り口に向けて土谷さんと一柳さんが銃を構えていた。広場の天井は今までの狭い道とはうって変わって高い。左側には、まだ未開拓だろうトーチが挿されていない道があって、この広場はちょうど分岐点となっているようだった。
大きさを増した重低音の響きが、岩肌を振るわせる。
それが、すぐそこまで来ている。
「康平君、そこの壁にトーチを刺して」
広場の真ん中にトーチは刺さっていたのだけれど、確かにそれだけの明かりだと広場入口の通路の奥までは見通せない。僕はすぐにザックからトーチを出して、黒ずんだ洞窟の岩壁に向けてボタンを押す。発光したトーチが、広場から通じる向こう側の道の奥まで照らし出した。
ぴたっ、と鳴り続けていた音が止まる。
蔦がまとわりついた土と岩石で出来た肉体。顔に位置する所にある目のような漆黒の二つの窪み。犬の姿をした、秋葉原で見たアレのような形をしたツチクレが、広場の入口に姿を現した。
「あ、ああ……」
長身の土谷さんより頭一つ分はでかいそれは、人の上半身など一撃で食いちぎってしまう。ぎらつくツチクレの石の牙を前にして、体中から血の気が引いていくのが分かる。
ツチクレが、前足をずいと伸ばし、飛び掛るような挙動を見せる!
「イヤッハーーーーッ!!」
一柳さんが手にしたアサルトライフルが火を噴き、吐き出された薬莢がカランコロンと地面に落ちていった。
銃弾を受けたツチクレは、一瞬たじろいだものの顔の一部分が削られたことなど気にせず部屋中央の一柳さんに向かって飛びかか――ろうとしたのだけれど、いきなり謎の衝撃を受けて後ろに吹っ飛んだ。
「ハハッ! 98式じゃあ、足止めにもならないっすねぇ!」
ツチクレが標的を代えて僕の方向を向く。
あっ――ダメだ。殺される。脳裏に秋葉原の惨劇が蘇り、逃げようにも僕は腰を抜かして動けなくなってしまう。そんな最高に情けない僕を、守るように緒川が立つ。
「バッ、逃げッ!」
情けないことにビビッて声もろくに出ない。
「イデオロギーへの逃避は、立脚する椅子の足を自らへし折るのと同義」
相変わらず緒川の言うことは意味がわからない。
「相手を間違うなよ!」
土谷さんが、犬型のツチクレの足元へと駆け込んでいく。
それに気付いたツチクレは、即座に右足を土谷さん目掛けて振り下ろそうとする。が、何故だかその動きは一瞬止まり、その隙に土谷さんは振り下ろそうとした足目掛けてゼロ距離でショットガンをぶっ放す。足が粉々に砕け散ったツチクレはそのままバランスを崩し壁に激突した。
「お嬢ちゃん!」
土谷さんが叫ぶと、緒川はツチクレに向けて両の拳をあわせて前へ突き出す。そして、両手の人差し指と小指をピンと立てた。
バランスを崩したツチクレは、残った三本の足でもがくように広場を跳ね回る。
「2秒止めて下さい」
「了解!」
言うと土谷さんは照準を再びツチクレに向けるが、射線に一柳さんがいるので撃てない。しかし一柳さん、血走った目をツチクレに向け――その先にいる土谷さんや僕に構わず引き金を引こうとしている。
「一柳、止めろ! 殺すぞ!」
声を通して分厚い何かを叩きつけるような土谷さんの一喝。言われた当人でなくても身がすくんでしまう。一柳さんは、すぐ様銃を降ろした。
その隙をついてツチクレが左側にあった未開拓ルートに駆けていく。その道にはトーチが設置されておらず、道の先は闇に包まれていた。
「井沼さん!」
「ほいきた!」
すぐさま井沼さんが、例の白い筒状の武器の引き金を引く。すると遁走するツチクレの頭部にトーチが突き刺さり、暗闇の中でも、その明かりがツチクレの居場所を知らせてくれた。どうやらその武器は、トーチを発射するクロスボウのような機能を持っているみたいだった。
土谷さんは、猛スピードで暗がりの通路へ入っていき、ツチクレと対峙する。ツチクレもこれ以上は逃げられないと悟ったのか振り返り土谷さんの方を向く。
が、しかしそこでまたツチクレの動きが止まる。
「終わりだ」
土谷さんが今度は、前方の体重を全て支える左前足に向けてショットガンを発射する。次の瞬間、暗がりの中、頭に突き刺さったトーチの明かりに照らされながら、崩れ落ちるツチクレの姿がそこにあった。
緒川が、倒れ込んだツチクレに向けて両の拳を合わせて、小指と人差し指を突き出す。2秒その姿勢で制止した後、「ハッ!」と声をあげてその拳を下に振り下ろした。
土谷さんの戦闘技術は凄かった。現役の自衛官だってあんな風に迅速に、的確に立ち振る舞うことはできないだろう。井沼さんの射撃技術も驚くべきものだ。10メートル先で動き続ける対象を、一撃で捉えるなんてゲームでだって難しい。だけど目の前で緒川が起こしたそれは、そんなものをも遥かに凌駕していた。だって緒川の拳の挙動と共に、ツチクレは粉々に砕け散り、自らがいた場所にクレータを残して消え去ってしまったんだから。
そしてツチクレに僕らは勝利した。腰を抜かして座り込んでいただけの僕は、圧倒的な力を示した緒川に、思わず畏敬の念を抱いてしまう。
「ふぁああ」
緒川は、いつもと変わらぬ様子であくびをすると、突然、傍らにいる僕のところにパタッと倒れこんできた。慌てて受け止めてその顔を覗き見る。すると既にもう熟睡モードになっているみたいで、ぐぅぐぅと鼾をかいて寝始めていた。