17話:空のひかり 落ちる影 そしてエピローグのようなもの
あれから駆けつけてきた土谷さんに一柳さん、それに緊急要因として共に同行していた社長に事情を説明していたら、気が抜けたのかうとうとと眠り込んでしまった。
目が覚めると僕は、土谷さんの筋肉質な背中に担がれていた。トーチに照らされた穴の中を、確かな足取りで地上へ向けて進んでいく。
横を見ると緒川も、社長に背負われてすやすやと眠っていた。
「……土谷さん。すいません……」
掠れた声。喉の渇きと、まだ目覚めきっていない意識のせいだ。
「もうすぐ地上に着く。寝ていれば良い」
「大丈夫、歩けま……いつっ……」
起き上がろうと両手に力を入れようとすると、脇腹に激痛が走る。
「無理をするな。あばら骨、折れてるんだぞ君」
「あっ……やっぱり……」
土谷さんが僕の手に水筒を握らせる。
「ゆっくり、少しづつ飲むんだ」
かさかさの唇で、水筒に入った水をすすって飲む。渇いた身体に、瑞々しい命が行き渡っていく感覚。大げさな言い回しのようだけど、本当にそんな感じがしたんだ。
「滅茶苦茶、うまいです……」
気が付いたら、この身体のどこにそんな水分があったんだってくらい涙が溢れていた。
「頑張ったな」
訥々と、背中越しに語る土谷さんの低い声。
「よく彼女を守ってくれた。ありがとう」
「……僕なりにしゃんとして……みました。すげー怖かったです」
土谷さんは、僕を抱える右手でぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「もう着くぞ」
柔らかい光が線となって射し込んで、地面に散乱した家々の残骸を照らす。
穴の出口が近付いてくる。
見上げるとそこには、いつも僕らを見守ってくれていた懐かしい青空があった。眩しくて思わず目を細めてしまうのに、そこから視線を落としたいと思わせない美しい空。
自衛隊の人達が「おかえりなさい」と声をかけて、拍手をしてくれている。
「ただいまです」
心配そうに駆け寄ってきた自衛隊の人達に、言葉を返す。
久しぶりに見た沢山の人。その奥で、こちらをじっと観察している黒いスーツを着た背の高い男がいた。無表情――と言っても緒川のそれとは違った、最初から感情が欠落しているような完璧な能面。あれは永継警備保障のリーダー、実篤だ。
「すいません……土谷さん」
穴から出ると僕は、身をよじって土谷さんの背中から抜け出して地面に足を着く。周囲には住宅街の町並み。僕らが穴に入る前と何一つ変わることなく、そこに立ち並んでいた。
必死に足を動かして大地を蹴り、自衛隊の人達の間を抜けていって僕は、頭二つ分くらい高い位置にある実篤の顔面目掛けて拳を突き出した。
実篤は、右手の平で悠々と僕の拳を受け止めると、流れるような動作で足払いをかけて僕を地面に転ばして、腕を取って大地に押し伏せる。明らかに素人離れした動きだった。
「突然、なんですか?」
「お前のせいで井沼さんは、追い込まれちゃったんだ! 帰れない場所まで!」
熱しられたアスファルトにぐいと顔を押し付けられ、ひりひりと頬が焼ける。
「証拠でもあるんですか」
「うるさい! お前のせいで……お前のせいで……」
「なるほど。長い間、穴の中にいたせいでおかしくなってしまったんですね」
腕をへし折らんとばかりに上から押さえつけていた力が、急に解ける。見ると土谷さんが、実篤の肩をひっぱって引き剥がしてくれていた。
「この子の気持ちを汚す権利は、お前にはない」
「高値がつくならその権利、買い取らせていただきますよ」
土谷さんと実篤が、ただならぬ様子で睨み合う。怒りに身を任せて飛びかかっていった僕だけど、二人が互いに発する殺意に気圧されて、その場に座り込んでしまった。
「本当にあなたの周りには、いつも妙な人間が集まる」
そんな言葉を土谷さんに投げかけて、ふいっと実篤はそこから去っていった。僕は子供で、無力で、井沼さんを唆した奴をぶん殴ることも、罪を認めさせることもできなかった。
座り込んだまま空を見上げる。絶望的なまでに青い空。こんなにも懐かしくて美しい空なのに、惨めな僕には、その空に慰められる権利なんてないんじゃないかって思えてくる。
「ちくしょう……」
僕は、血と泥に汚れた腕で両の目を隠し、視界に広がる眩い輝きを遮った。
2060年に日本に発生した穴の数は332。世界では30021。ツチクレに殺されてしまった人の数は日本で年間546人。世界では100072人。先進国ではほとんどないみたいだけど、そうではない国々では放置されっぱなしの穴も数多くあるのだという。
尋常じゃない数だけど、どの国でもそれ以上の人間が人間に殺されている。交通事故なんかじゃなくて意志を持って殺されている。平和を売りにしている日本だって、毎年1000人前後、殺人が起きている。
『千年後の地球を作るのは、今ここに立っているあなた』
地球と、子供を連れた両親が対になって映し出されている映像。千年機関のコマーシャルが、新宿駅の連絡通路の全ての壁面モニターに映し出されていて、資源の枯渇、人口増加、様々な人類が直している危機をあげては節制を訴えていた。
通路左右に伸びるホームへ上がる階段に、吸い込まれていく人々。彼らだって僕だって、ちょっとした状況の変化や、酒や薬の影響で、簡単に暴力や殺人行為を行う不安定で自由な存在なんだ。井沼さんの一件があってから、僕は周りの人々をそんな風に見て、なんとなしに警戒するようになっていた。夏休みの最終日に、新井場にその事を話したら「俺がお前のこと殺すわけないだろ」と笑われてしまったけど。
階段を上り、山手線のホームに着いたところで携帯電話が震える。
『件名:ひっくり返った椅子 内容:私達の皮膚は、剥がされていた』
『件名:罪状は 内容:胎児の眼球の中に』
『件名:溶ける魚を釣った 内容:その意味が康平君には分かる?』
脅迫文めいた様子のおかしいメール。そういえば今日、緒川に例の劇団の芝居をまた見に行かないかと誘われたんだけど、用事があるって言って丁重にお断りしたんだっけ。断った時、普段見せないような悲しげな顔をしてたから気になってたんだ。
よほど芝居が感動的だったのか、次から次へとメールが送られてくる。意味はほとんど分からないんだけど、はしゃいでる緒川の様子が伝わってきて微笑ましかった。
穴の中へと消えていった井沼さんは行方不明のまま、自衛隊の人がコアを潰したことを確認して封穴作業は完了した。聞けば昔は塾の先生だった井沼さんに、中学時代から勉強を見てもらっていたという緒川にしてみれば、家族の一人を失ったくらい大きなショックがあったと思うんだけど、傍目には変わらず学校に来ればぐーたら寝てるし、たまに外で会ったらこのメールみたいなとち狂ったことを喜々として話してくる。
異常な奴だと思う反面、強い奴だよなとも思う。
『件名:お疲れ様
内容:
お芝居面白かった?
今日は、ちょっとばかり外せない用事があって行けなかったけど
次は絶対、行くから。
後、帰り道、変な所で眠らないように気をつけて。
それじゃまた明日。学校で。』
送信、と。またあの劇団が作り出す異常空間で、見えない椅子に座るふりをするのかと思わず苦笑いを零してしまう。
「お前は――康平か!? こんな所でなにやっとるんだ」
到着した電車に乗り込んだところで、突然、何者かに声をかけられた。しわがれているけれど、張りのあるキビキビとした声。空気の抜ける音をたてて閉じた扉の前に、あの岩田屋の店長が立っていた。
「店長!? 店長こそこんな所で何やってるんですか!?」
「ちっとまた遠出しなけりゃいけない野暮用ができてな。東京駅から九州に向けて旅立つところよ」
「……あれ? あの格好いいバイクは?」
「ちょっとした揉め事があって……ははっ! そん時にスクラップにされちまった」
「スクラップって。店長、今なにやってるんですか?」
「俺の城を踏みにじった連中に、お灸をすえて回ってるんだ。まっ、青春を謳歌しとる真っ最中だよ」
冗談めかした笑みを浮かべて、顎から垂れる白髭をさする。
「お前は――ふむ。みちがえたな」
「そんなことないですよ」
突然褒められて、思わずにやけてしまった口元を右手で隠す。
「そうじゃな、何か良い経験でもしたのか?」
「良いか悪いか分からないけど。大切なことはいっぱいあった気がします」
東京の真っ只中をひた走る山手線の車内で、僕は封穴作業に携わったことや、そこで出会った仲間達のことを店長に全て話した。心にずっとしこりとなって残っている、井沼さんとの一件も包み隠さずに聞いてもらった。
「井沼とは、あの井沼か!」
「えっ、知ってる…?」
「おう。近所の飲み屋でたまたま会っては、そのまま別の店まで飲みにいったりな。あいつが二十歳ちょいの小僧の時から知っとるぞ」
店長は、「ふぅむ」とそれだけ言って考え込んでしまう。
「酒癖も悪いが、あいつは運も悪かった。一念発起して始めた塾だって、サマーキャンプ中に鍋を引っ繰り返して火傷を負ったガキがいて――そいつの親がPTAの会長だった。それで監督不行き届きだなんだと近所の連中に叩かれに叩かれて、一年もしないうちに塾は潰れちまった」
長椅子に座り、楽しげに話す女の子達の会話が聞こえてくる。
「それから浴びるように酒を飲むようになってな。俺達もついていけなくなって、あの辺りの飲み屋仲間も距離を置くようになっちまった。だからな――」
近所の人々から咎められ、友達も遠ざかり、奥さんや息子も失って一人。僕は何故だか、地上のざわめきから完全に切り離された、穴の中のあの静けさ思い出す。穴に潜らなくとも、ずっと井沼さんはそういう場所にいて、お酒を飲み続けていたんだ。
店長は、顔を落とす僕の目をぐいっと覗き込む。
「最後に、お前さんみたいな真っ直ぐなのと向かい合えたんだから、一つマシな心持ちで、穴の底に行けたんじゃないかね。俺はそう思うぜ」
「それなら嬉しいです。僕も井沼さんと会えて、いっぱい大切なこと教えてもらえたから……」
「ふむ。それでお前さんは、もう穴の仕事は止めるのかい? それだけのことを味わっちまったんだ。普通なら足を洗おうってもんだろ」
窓の向こうに、何重もの鉄柵に塞がれた東京の大穴が見える。荒川沿いに発生した東京で一番、大きな穴。あの穴の中にも多くの封穴事業者がいて、命を削って奥底に眠るコアを目指しているのだろうか。
「いや、やりますよ。このまま逃げたら、そういうの全部、否定することになっちゃう気もするし。あの実篤って人、まだぶっ飛ばしてないですし」
脇腹の骨折が完治したら、また仕事を頼みたいと社長は言ってくれた。大したことはまだできないけど、そうやって信用してくれるってのはとてもありがたいことだと思う。
「男だな」
言って店長は嬉しそうににやりと笑い、僕の胸を軽く叩いた。
「秋葉原、次は秋葉原」
車内アナウンスで流れる、低い車掌の声。電車は、いよいよ目的地にたどり着こうとしていた。
秋葉原駅のホームに降り立った所で、店長が僕の名前を呼ぶ。
「誰のものでもない自分の足でな。一歩一歩、踏みしめていって、これからも戦い続けような、お互い!」
「はい! 店長もお元気で!」
そして電車の扉は閉まり、僕らの偶然の巡り合わせに帳を下ろす。
僕は、ふわふわとした高揚感に包まれたまま、人波に揉まれるようにしてエレベーターを下っていって、改札を出る。しばらく歩いて行くと、そこは人々が忙しなく行き交う電気街の大通り。ツチクレが現れて、幾人もの人間を叩き殺していた場所だ。
電柱の脇に、亡くなった方々へ捧げられた花束や飲み物なんかが沢山置かれていたので、僕はその前でしばし合掌する。
頬をぴしゃりと叩いて、もう一度辺りを見渡す。どうやら今日は歩行者天国らしくて、人々は車の往来を気にすることなく、車道を自由に渡り歩いていた。
僕もまた背の高いビルに囲まれた通りの中心を、堂々と歩いていく。
さぁ買うぞ。恐れるものなんてもう何もない。命賭けて働いて、稼いだお金が入った丸々膨らんだ財布もあるし、一柳さんに教えてもらった激安ショップの情報だって持ってるんだ。
そういえば店長が言ってたっけ。パソコン一台ありゃあ、出来ないことなんてこの世にはないんだ、ってさ。言ってみればそれはトーチ。先の見えない僕の人生を照らす灯火ってわけだ。
新井場だってびっくりするくらいの最新のパソコンを手に入れて、そいつで絵を描いたり、音楽を作ったり、場合によっちゃポエムなんかを発表したりしてさ。しゃんとして、こんな世界に負けない何かになるんだ。
五十年前の秋葉原とほとんど変わることのない風景のただ中を、背筋をぴんと伸ばして、前へ前へと足を踏み出していく。例え世界が停滞することを望もうが、そんなもん知るもんか。僕一人だけだって欲しいものは手に入れる。
いいんだ。恐れず、進め。
穴ができたら塞げばいいんだ。幸いまだ僕達には、その時間が残されてるんだから。
夏の終わり、穏やかな太陽の下。
身体を撫でる涼しげな風を受けて、僕は電気街の大海原を進んでいった。




