15話:まぼろしと一緒に歩く だけどその隣に確かに彼女は存在した
道幅5メートル程の穴の中を、上へ上へと半日程登っていった所で段々になってる広い空間に出た。段々の上の方で休めば、下から来たツチクレにも気付きやすいだろうということで、今日の所はそこで休憩を取る事にした。
四時間毎に見張りを交代して、寝袋に入って眠る。緒川は、相変わらず「非実存」だ「象徴的存在はうんたら」だ不気味な寝言を呟き続けて、そしてたまに「お父さん」と言う言葉を切なげに口にしていた。
目覚めたら乾パンを一枚と、フリーズドライのキャベツを乾燥したまま食べて、水筒の水を一口だけ飲む。ぱさぱさとした食べ物がまだ喉に残っている気がしたけど、どれくらいで上へ辿りつけるかわからない現状、残り少ない水をがぶがぶと飲むわけには行かない。普通に飲んだら、三日も持たないような量しか緒川の水筒にはもう残っていないんだから。
「緒川って部活とかやってないの?」
「文芸部……でもほとんど行ってない。あの人達と趣味が合わない」
「まぁ、緒川と読書の趣味があいそうな高校生って、あんまいなそうだよな」
そんなくだらないことを話しながら歩みを進めていたのだけれど、代わり映えのしない暗がりの道、圧倒的な地下の静寂に飲まれるようにして僕らは、次第に言葉を失っていった。
喉の渇きと、あばら骨に時折走る鈍い痛みに絶えながら足を動かす。つるつると滑りやすい岩肌が続いていて、何度か転びそうになってひやりとした。
十二時間ほど歩いて、程よく大きなツチクレは入ってこられなそうな窪みを見つけたので、今日はそこで休むことにした。ツチクレと遭遇しないのは良かったけど、道の傾斜は徐々に緩くなっていき、本当に地上へ向かっているのか疑わしくなってきた。もしかしたらこの辺りは、上にあった網目状の通路みたいになっていて僕らは、ぐるぐると同じ場所を歩いているんじゃないだろうかと不安になってくる。
目を瞑っても、喉の渇きやあばら骨の痛みが気になって中々寝付けない。疲労しきった身体は、確実に眠りを求めているって言うのにじれったくてしょうがない。こんな時でも、すぐに眠れる緒川の神経の太さが心底羨ましかった。
ほとんど意識の途切れたという感触のないまま出発時間になってしまった。身体は横になっているだけでも随分と楽になったけど、脳味噌は、そういうわけにも行かないようで、ぼんやりと集中力を欠いた感じになっていた。
乾パンとビーフジャーキーを食べてから、少しでも脳に栄養を与えようと飴玉を舐めて再び地上へ向けて歩き出す。
「こっちだよ、こっち!」
なだらかな白い岩肌の上を歩いている時、闇の奥から誰かが呼ぶ声がした。耳に覚えがある男の声だったけど、どこかおぼろげで捉えどころがなくて、誰の声かは分からない。
「緒川、今誰か呼んだ?」
「何も聞こえない。いや、本質的に私達は常日頃、無垢なる死に呼ばれているようなものだけど」
それからしばらく歩いていると、また同じように「こっちだよ!」と呼ぶ声が聞こえてきた。ああ、これは新井場の声だ。これが幻聴というやつかと、妙に納得してしまった。
次の日になると、教室の喧騒がどこからか聞こえてきた。他愛のない会話、机や椅子をひきずる音、窓の外から聞こえてくる風の音。夏休みが終われば、僕と緒川が戻るべき日常の雑音。いまいちクラスに馴染めていなかった僕は、なんてことのない日々を、楽しそうに過ごす彼らの声が好きじゃなかったんだけど、その懐かしい響きに思わず涙ぐむ。
身体が急に右に倒れていく。足を、滑らせてしまったんだ。そういえばこの所続いていた白い岩肌は、やたらとつるつるしてて転びやすそうだった。凄い衝撃が、ヘルメットを被った僕の頭に走る。
どうやら歩いていた道の片側は下りの坂道になっていたようで、僕は転んでするすると下まで滑っていって、壁にそのまま叩きつけられてしまったみたいだ。ヘルメットに取り付けられたヘッドライトも、その時の衝撃で壊れてしまっていて辺りは完全に真っ暗だった。
とりあえず明かりを確保しようと、ポケットに入れていた懐中電灯を探るけど、転んだ拍子にどこかに落としてしまったらしくなくなっていた。
数日前の強気な自分は完全に崩れ去り、闇に潜む何もかもが恐ろしくなってくる。理由はすぐに理解できた。緒川が傍にいないから。一人でこんな場所に、取り残されているからだ。
「緒川!!」
大声で呼びかけようとしたけど、喉がからからのせいか掠れた声しか出てこない。突然の出来事だったし、どれくらい坂道を転がり落ちて、緒川と離れてしまったのか検討もつかない。
「緒川ァー!!」
起き上がって、脇腹が痛むのを堪えもう一度声をあげるが返答がない。穴の中の静けさが、こんなにも暴力的だなんて思わなかった。恐怖心や不安が、胸の奥で爆発寸前まで膨張している。
「緒川ァァァァ!!」
お願いだから、声を返して。こんな所に置いていかないで。そんな子供じみた想いが、切実な響きとなって声に現れていて物凄く情けない。
「深き闇の中に、足を着くことはできない。故に呼びかけてくるのは観念の獣」
姿は見えないけれど、こんな戯言を言うのは緒川しかいない。こんなアホらしい呼びかけが幻聴であるはずがない。闇の中に浮かぶ小さな輝きが、上のほうから降りてくる。
僕は、素っ頓狂な緒川の妄言につっこむことも忘れて、もう一度、緒川に大きな声で呼びかけた。
壊れてしまったヘッドライトは直らず、落とした懐中電灯も見つからなかったので、僕らに残された光は、緒川のヘッドライトと懐中電灯だけになってしまった。
「次から次へと物無くして、ごめん」
トーチに懐中電灯、それに僕のザックに入っていた水筒もろもろ。失ってみると、そういう物によって僕らは辛うじて、この穴の中で生かされているのだとつくづく実感してしまう。ツチクレが出なくたって、明かり一つなければ滑って転んでこのざまだ。
「大丈夫。きっともうすぐ、元いた場所に着く」
考え込んでしまった僕に、かけてくれた緒川の言葉がふっと胸に落ちる。
「ありがと。そうだな」
気を引き締めなおして、緒川に借りた懐中電灯で前方を念入りに確認しながら、再び緩やかな坂道を登っていった。
だけど結局、その日も暗がりの道をただ進んでいただけで、前に刺したトーチ一つも見つけられずに終わってしまった。
ずっと蒸し暑かった地下の気温が、少しは涼しくなってきて、それなりに地上に近づいてきているということを感じられたのは救いだったけど、喉にまとわりつく異様な渇きが、僕らに限界ってやつが近づいてきていることを厳然と示していた。
「ジャンケンポイ!」
僕の出した手はパー。緒川はチョキ。
「やったー!」
思わず声をあげてガッツポーズなどしてしまう。
「ほら、ちゃんと飲めよ。約束だからな」
緒川は恨めしそうにこっちを睨み付けてから、水筒に残った水を全て飲み干した。
元々緒川の水筒だったわけだし、最後の残りは緒川が飲むべきだという僕の主張と、なんか訳の分からない抽象的な理屈の上で、僕に飲めという緒川の主張。かける水もないって言うのに延々と水掛け論が続いた挙句、平和的解決を求めてジャンケンをしたというわけだ。
これで僕よりちょっとは、長く持つかもしれない。ヘッドライトに照らされた、緒川の異様にかさかさになった肌を見て思う。
僕らはその日、延々とチューブ状の岩の中を歩いていった。
急な坂道がずっと続いている。それはつまり、それだけ地上に早く辿り付けるということだし喜ばしいことなんだけど、体力を失った僕らは、一歩一歩体中の筋肉を使って、やっと歩を進められているような状態で、少し進んではへとへとになってしまい休憩をこまめに取らざるを得なかった。
「休憩ターイム」
と、腰を落ち着け気を抜くと、疲れきった緒川の傍らでも水のことばかり考えてしまう。
僕は井沼さんの言葉を思い出して、「しゃんとしろ」「今がしゃんとする時だろ?」と弱い自分を叱責して、表情を引き締めてから緒川の方を見た。
しばらく休んでは、また歩き出す。終わることのない闇の中を。果てしない渇きの中を。
「こっちこっち」
そんな優しげな幻聴に誘われながら、その日もなんとか歩みを進める。




