番外編・卒業論文
底引き網漁で働きながら卒業論文の仕上げます。
アイツはクリスマス明けから会合などに出席して地域のために頑張ってくれていた。
それは私と結婚した翌々日だった。
アイツは本気で漁師になろうと思っていたようだ。
だから、そのための準備に余念がなかったのだ。
アイツのがっちりした体は、ホストの位置を築くためではなかった。
何時かは田舎に帰りたいとアイツは考えてくれていたからだった。
アイツは常に私と母のことを思っていてくれたのだ。
感謝なんて言葉じゃ足りない。
そう思った。
それでも私は考えてしまう。
アイツのお嫁さんが私で良かったのかと。
図体ばかりデカイただの田舎娘が、歌舞伎町のナンバーワンホストと暮らして良いのだろうかと。
でもアイツはそんなことはお構い無しで、愛を囁いてくれてる。
その甘い言葉に思わずうっとりとなる。
そして全ての喧騒から解放される。
私は更にアイツとの愛に溺れていた。
冬休みの最終日に寄った美魔女社長オフィス。
其処での一言が物凄く気になる。
アイツは四年制大学夜間部の四期生で、単位は取得していると言っていた。
だから論文の提出だけで卒業が決まるのだ。
なのに、諦めたなんて言っていた。
でも私イヤだ。
絶対にイヤだ。
私との結婚を選んだから卒業出来なかったなんて思わせたくはなかったんだ。
私も思いたくはなかったんだ。
聞けばまだ間に合うとアイツは言っていた。
だったら諦めないでやり遂げてほしい。
そのためなら……
どんなに苦労しても構わない。
私は本気で思っていた。
でもそれがアイツにとって、物凄くキツイ試練になるなんてその時の私は考えも及ばなかったんだ。
底引き網漁はクリスマスまでがピークだ。
パーティーのオードブルなどの主役になるからだ。
だからクリスマス開けから会合に参加していたアイツの出番は無いと思っていた。
故郷に戻って来たばかりのアイツを……
いくら人手不足だと言っても借り出すことなどないと思っていた。
でもそれは私が冬休みの間だけだった。
明治神宮参拝や、アイツが暮らしていたマンション回り。
どうやらそれらのことを地元の人達は、新婚旅行だと思っていたようだ。
だからすぐに仕事が始まってしまったのだった。
卒業論文を纏めなければいけない時期なのに……
アイツは断り切れずに漁船に乗り込んでしまったのだ。
あの日。
訪ねて行った美魔女社長のオフィスで初めて知ったアイツの事情。
卒業を目の前にして諦めるなんて、絶対にしてほしくなかったのに。
いつの間にか、地元の期待の星としてアイツは祭り上げられていた。
引っ張りだこのになっていたのだ。
どんな小さな会合でもイヤな顔一つ見せないで出席する。
だから次々とお呼びがかかるのだ。
私は怖い。
私の父とアイツの母の命を奪った海が怖い。
だから嬉しい半面、辛いんだ。
それでも、アイツは荒海の中を出港して行く。
私はただうろうろしながら帰港を待つだけしか出来なかった。
きっと母も父をこのようにして待ったのだろう。
私を見つめる母の瞳が何処か遠くて、潤んでいるように見えていた。
午前四時。
港に人が集まって、昨日の漁の受け渡しが始まる。
冬は鮮度が落ちにくいから、一部の魚を船に置いておく場合もあるのだ。
その魚は女性達の手で市場で売られるフライなどに加工されるのだ。
本来は漁師の奥さんの仕事だ。
でも母は、この職場でも働いていた。
男達は漁船の上で出港の準備に余念がない。
漁の命である網の点検などだ。
この網は大まかに分けて三種類ある。
それぞれが二つ以上あり、交互に入れて成果に繋げる訳だ。
船尾にあるアームにこの網を取り付け、いよいよ出港となるのだ。
底引き網漁は、小回りの利く小型の船舶で行う。
袋状の網を海底に下ろして引き、魚を追い込む漁だ。
船の重量は約五トン。
漁船を手に入れるためには、船舶の他に魚群探知機約なども必要で二千万円ほどかかるらしい。
私達が結婚した、クリスマスの日に手に入れた漁船はこれより小さい。
アイツは学生時代に、小型船舶の試験を受けて合格していると言っていた。
だから譲り受けられたのだ。
これがあると、四トン以下の漁船なら出港出来るからだ。
いくら漁師になりたいからと言っても、免許証のない人は乗れないのだ。
「クルーザーも運転出来るんだ。ホストとしても必要な資格だからと勧めてくれた人がいたんだよ」
アイツは照れくさそうに笑っていた。
底引き網漁には、いくつかのやり方がある。
一隻と二隻で行うのが常だ。
二隻の場合、一定間隔を開け並んで曳船する方法。
一隻の場合は、トロールと呼ばれている方法などがある。
これはオッターボードと呼ばれている開口板を網の両端に設置して、袋状の網を海底に下ろして引き魚を追い込む漁だ。
網には海底を掻き回す爪のような物が幾つも取り付けられていて、それで砂を這う蟹や鮃などを捕らえる訳だ。
底引き網漁は沖合い底引き網漁と以西底引き網漁、遠洋底引き網漁がある。
此処では、沖合い底引き網漁が殆どだった。
漁協の組合員になると、漁業権に基づいて漁業が行える。
アイツは早速さその権利を取得した。
とりあえずは年末年始用の魚の調達からだった。
午前五時。
アイツの乗った船が出港して行く。
それを見送った私は一人家に戻った。
冷やかされるのは得意じゃない。
それでもその中に本当は身をおきたがっている自分もいた。
アイツが帰って来るまで私は学校に行くことにしたのだ。
進路相談でお世話になった先生方に、地元で働くことになった経緯を報告するためだった。
勿論、結婚したことは内緒にしたままで……
良い機会なので、アイツには聞けない卒業論文の書き方を先生に質問した。
何か手伝えることがあるかも知れないからだ。
今はパソコンで書くらしい。
表紙は一頁。
何年度卒業論文。
何年何月何日提出。
何々大学何々学部の他に学生番号も記す。
概要は一頁。
五百―六百文字程度で仕上げる。
先生方が卒業論文を閲覧するのはこの部分なので、ここだけはきちっと仕上げることだそうだ。
目次は一頁。
章立てと対象頁を書いておく。
第一章・はじめに。
第二章・準備。
第三章・本論。
第四章・考察。
第五章・結論。
本文は十頁以上。
一章のはじめにで、研究の背景などを述べることから始まり、最後の章で今後の展開等も述べておくことも重要のようだ。
発表会に向けてのプレゼンテーション用のスライドも準備する。
卒業論文のまま書くのではなく、解り易く纏める。
箇条書きなどで工夫することが大事のようだ。
先生は首を傾げながらも丁寧に教えてくれた。
私は兄に頼まれたからと言い訳していたのだ。
でもその兄はまだ卒業論文が必要な時期ではない。
それでも、アイツは兄貴の兄貴なのだから……
卒業論文の提出は概ね二月下旬から三月上旬のようだ。
だからまだまだ間に合うはずだと私は思っていた。
でも始めた漁師の仕事も手抜きなど許される訳がない。
それは常に危険と隣り合わせだからだ。
一つのミスが、乗組員全員の命を奪い兼ねないからだ。
アイツはそんな使命と戦っていたのだ。
初心者や素人だなんて言い訳出来ない。
海に出た以上、アイツの責任は重大なのだから。
卒業論文を仕上げさえすれば卒業出来る。
私はそう思っていた。
それがどんなにアイツの負担になるかなんて考えもしないで。
それでもアイツは頑張っていた。
精一杯、誠心誠意に。
アイツの乗って行った船の姿が岸壁から見えた時、思わず手を振った。
(――やっと帰って来てくれた)
安堵の胸を撫で下ろす。
それと同時に言い知れない不安が心に広がる。
私はこれから先ずっと、このようにしてアイツの帰りを待ちわびることだろう。
それは漁師に嫁いだ女性達の宿命だと思った。
(――出港の度に母もきっと気を揉んで……、ハラハラしながら父を待ちわびたのかな?)
私はその時、美魔女社長と母を比べたことを申し訳ないと思った。
まだまだ若い母に刻まれた皺。
その一つ一つが愛そのものだと感じていた。
(――たとえアイツの父親と昔恋人同士だったとしても、やはり母は父を愛していたのだろう。そうでもなきゃ、お祖母ちゃんがあんなに母を可愛がるはずはない)
私はそう思った。
急いで港へ行くと、アイツの乗って行った船が縁に繋がれるところだった。
大漁とは言えない。
それでもアイツは目をかがやかせていた。
そんな活気溢れる漁港にはまがけのトラックがやって来た。
はまがけとは、市場に出荷する魚以外を買い付けに来る業者のことだ。
一度の出港で七、八回底引き網漁は行われる。
一時間ほど流して引き上げ、別の網を入れる。
又一時間ほど流している間に、前の網にかかった獲物を仕分けしていくのだ。
そうやって交代させながら、次々と作業していく訳だ。
だから港に着いた時は、キチンと魚別に区別されている訳だ。
初成果の鮃は、母の手でお造りになった。
私は母と二人で、初めて漁に出たアイツへの祝いの席を用意したのだ。
研修としてではなく、正式な乗組員になったからだった。
「こんなに美味しい刺し身は初めてだ」
アイツはそう言いながら泣いていた。
ホントかなと思う。
アイツは歌舞伎町のホストだったのだ。きっとお客様と一緒に高級料亭にも行っただろうに……と――
体は疲れ切っているはずだった。
それでもアイツは卒業論文を仕上げるために頑張っていた。
テーマは日本の未来だった。
TPPによる安価な食料輸入によりもたらせられる様々問題を取り上げていた。
「俺は此処が好きだ。生まれ育った此処が好きだ。でも今……」
アイツは何故か泣いていた。
アイツは経済学部き籍をおいていた。
だから卒論にと、日本のこれから向かう先を模索していたようだ。
「気分転換に小説を読もうとしてあるサイトにアクセスしたら、減反政策を廃止する案があったんだ」
「えっ、それて何?」
私は思わず聞いていた。
私も放置耕作地を何とかしたいと思っていたのだ。
「なんでも安い輸入米を食べてみたら不味かったから、減反政策を廃止して米を輸出したらどうか。という物だった」
アイツは以前東南アジア諸国で暮らしていた。
だからタイ米は当たり前だったそうだ。
でも日本の米を食べている内に慣れてしまって、タイ米を食べられなくなったそうだ。
「その時思ったんだ。その主婦が書き込んだように世界中に日本の米を輸出するべきだとね」
アイツはそう言いながら、その主婦の主張をノートに綴り始めた。
【学生時代から小説を投稿してきた主婦です。
TPPが話題に上がり、物はためしに安い豪州米を購入してみました。
粘りもなく、不味い。
そこで思いましてた。
減反政策やめてどんどんお米を作って輸出したらどうかと。
農家は収入が減るでしょう。
減反政策の補助金が減る訳ですから。
でもその補助金は全部国民が納めた税金なのです。
減反することでお米を作らなくても収入になるシステムを考え直していただけますと嬉しいです。
日本のお米は美味しいから大丈夫です。
その時には、お米パンも一緒に紹介すると全世界に受け入れられると思います。】
そんな内容だったようだ。
私は帰って来てからアイツと訪ねた場所を思い出していた。
その時アイツは、荒れ放題の竹林と放置耕作地の多いことに愕然としたらしい。
『きっと減反政策の影響だ』
と言っていた。
本当は、それだけでもないことを知ってはいたようだ。
それは過疎化の進んだ地域性にも原因はあったのだ。
今、国が減反政策を廃止するとのニュースがある。
『国が辞めれば済むって問題じゃない』
そう言いながらアイツは放置耕作地を見つめていた。
『本当に何とかならないのかな?』
私はあの時解ったような口をきいた。
『地産地消って知ってる?』
私は頷いた。
地産地消とは、其処で出来た食べ物を其処で消費する。
との考えだ。
これが一番コストがかからない。
借金地獄の日本にとっては良い方法なのだけど、物流の危機にもなるようだ。
でもまさか……
そんな身近なことがテーマになるなるて私は考えもしていなかったのだ。
それにこれなら私にも手伝える。
そう思っていた。
そこで私はいつかテレビで紹介されていたパーマカルチャーをアイツに話してみた。
まず草の根を鎌で切った後に種を撒いて、上に刈った草を乗せておくんだ。
水もあげなくても、立派な野菜のが育つのだ。
一番向くのはレタス。
レタスには虫が付き難い。
だから最初はこれからやったらいいと思った。
春菊も虫が付き難いので、パーマカルチャー向きだと言える。
パーマカルチャーは耕作放置地での確かな戦略になりうる可能性を秘めていると思ったのだ。
アイツは私の話しに目を輝かせた。
それに気を良くした私は次々とテレビで取り上げていた話題の農作業を紹介していったのだ。
まず、埼玉にある駅の近くの空き地を山羊に雑草処理させている件。
私はその耕作放置地がある程度肥えたら、それを四つに分けて、一年毎に山羊の放置する場所を変えてみたらどうかと提案した。
山羊が一年間雑草を食べてくれることと排出物ににより、有機栽培に適した土地を作り上げる訳だ。
四つに分けたのは理由がある。
茄子や幾つかの野菜は連作を嫌うのだ。
接いだ苗を買えばその問題は解決する。
でも高額で、沢山植えられないのだ。
だから四年で持ち回ることでその問題も解決出来ると思ったのだった。
水田はカルガモ農法。
山羊と同じように、草を食べながら排出物で稲を豊かに育ててくれるのだ。
豚による雑草処理。
木をも倒すその食欲は、荒れた山の管理向きだ。
人が入れない山が、豚によりよみがえったこともテレビが教えてくれたことだった。
その他、ウサギや鶏による雑草処理なども土地を肥やすようだ。
アイツが懸念していた竹も、その解決方法を模索していた番組があったことを思い出していた。ご近所の悩みを皆で解決しようと言うものだった。
竹は傘をさして歩けるくらいのゆとり幅が必要らしい。
人間が作業し易いので、竹の子も栽培出来る。
これが農業の利益に繋がるそうだ。
その上伐採された竹は様々に加工される。
日本海にある越前では、竹人形が人気だった。
地元の特産物にもなりえるのだ。
又山羊や動物の放牧地の柵にも利用出来るかも知れないと思った。
アイツはそれらの資料を集めて卒業論文を完成させると言ってくれた。
後はスライドだった。
スライドとは、卒業論文の発表会で説明する時に使用する文面などを書いた物だ。
文字は全員が見易いように大きく、一枚のスライドで説明出来るのはせいぜい二つくらいのようだ。
スライドとスライドの繋がりを重要視すれば、それなりの評価が得られるようだ。
アイツは何とか卒業論文を完成された。
そしてあのバレンタインデーの日に提出して来たのだった。
あの日途中下車した駅は全く知らない駅だった。
私は目隠しされたままでその駅の近くにある喫茶店に置き去りにされていた。
仕方なく、コーヒーを飲みながら待つことにした。
アイツにはどうしても行かなくてはいくない場所があるようだ。
其処が何処なのか私には解っていたのだ。
アイツが帰って来た時には持っていたはずの荷物が無くなっているように思えた。
そしてその後、私達は再び電車に乗ったのだった。
勿論目隠しをされたままで……
きっとその場所こそ、アイツが通っていた大学だったのだ。
『みさとに逢えて俺は変わった。愛すること。信じること。守るべき人の存在する喜びも、君に教えてもらった』
帰りの電車の中でアイツが囁く。
その声を聞きながら、車窓を流れる景色を眺めていた。
ハロウィンの悪夢から始まった恋は、トラウマまでも全て消し去ってくれた。
全てアイツの……
ジンの思いやりと献身によって。
私は今その心意気に報いる決意を固めながら卒業式に出席している。
蛍の光が流れる中で。
次はいよいよ最後の章、ジンサイドです。