第九羽 「マ゛」
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それからまた一週間が過ぎた。
一週間前のあの日の食事から、弟は、私がいるときに一緒に食卓を囲むことを良しとしなくなった。
父も母も、食事の時には黙りこくってただ食物を口に運び、噛んで飲み込む作業を続けるだけで、私を見ようとしないし、話しかけようともしない。たまも、何故か私が話しかけても、すぐにどこかへ逃げていってしまう。
そんな中、珠緒だけは、一週間ずっと、私に稽古をつけるために、自主的に私の家に通ってくれた。
「『ま』!はい、『ま』!」
「グュア!」
「違うよ、違う!『ま』!発音する前に、一瞬唇を合わせるの!」珠緒はそう言いながら、自分の唇を大げさにくっつけ、離す。
「ヴァ!」
「近い!けど違うよっ、真美!そんなんじゃ自分の名前すら言えないよ、それでもいいのっ!?」
「イ…ア」
「もうちょっと、もうちょっと!あ行とか行が言えるようになったんだから、ま行さえ習得すれば、自分の名前を言えるんだよ!ファイトーっ!真美!」
珠緒が両手を握りしめ、私を見据える。私は珠緒の真剣な表情を見詰め、思いっきり大きく息を吸い込んだ。肺が破裂してしまうのではないかと思うほどに。
「…ッマ゛!!」
私は必死の思いで唇を突き放し、渾身の『ま』を放った。珠緒の顔に、私の唾が放物線を描いて降りかかる。珠緒はそれを気にする事無く、表情を弛ませた。
「で…出来たーっ!真美、ナイスショット!ナイス『ま』!!」
珠緒は飛び上がって喜び、私の指を握って翼を振り回す勢いで腕を上下させた。
一週間の特訓を経て、ついに私は自分の名前である『鵜飼真美』の五文字の内の四文字を発音できるようになったのだ。
「じゃあ単語練習、行ってみよう!今日は『ま』を習得したから、結構単語が増えると思うよ?はい愛!」
「愛」「会う!」「会う」「青!」「青」「赤!」「赤」「秋!」「秋」「悪!」「悪」「海女!」「海女(あマ゛)」
私は珠緒に続いて単語を次々と言い上げていく。珠緒は「海女(あマ゛)」で顔を曇らせた。
「…『ま』はまだちょっと練習が必要だね」
私はゆっくりと頷いた。
◇◆◇◆
その後も単語練習や「アエイウエオアオ」の練習をした。珠緒は、「やれば何とかなるもんだよね、皆」としきりに呟いていた。「何かあったの?」と聞きたかったけれど、あ行とか行しか喋られない私は、それを聞くことができない。珠緒はその時、どこか思い詰めたような顔をしていた。
「そう言えば、さっきの真美の『ま』はさ」
珠緒がこっちを振り向いて言った。
「どっちかと言うと『ば』っぽかったよね」
珠緒はそう言って、笑った。
「試しに『馬鹿』って言ってみてよ」
私は言われる通り、「馬鹿」と言った。何故か全く躊躇することなく、いとも簡単に、その言葉は私の唇を突いて出た。
「おお」
珠緒はあまり感動した様子も無く、どちらかと言うと、ほんの少し驚いた、という程度の反応を見せた。
「口癖だったもんね、真美の」
私には記憶の無い話だ。だとすると、私は脳で忘れている記憶を、身体で覚えていた、という事だろうか。
私の名前を忘れていた私の身体は、代わりに『馬鹿』を覚えていたのだろうか。
分からない。
「じゃあ真美、今日はもう帰るね!」
珠緒はリュックを背負って、私の家から出ていった。私はそれを玄関で見送った。
日が傾き、空は赤く燃えている。私はぼんやりと薄目を開け、その空を眺めた。いつからだろう、私が空を飛んでいないのは。
「真美ー、鎮静剤の時間よー」
家の中から母の呼ぶ声がする。行かなければならない。
しかし―
私は空に魅せられていた。無限に広がる赤空が、私の視界を覆う。それはどこか、私を空へと誘っているようで、懐かしい気持ちが私の中に沸き起こってくる。
行かなければいけない。
私の頭の中は、その思考だけに占領された。人間の私も、鳥の私も、行かなければならない、と私に語り掛ける。
前者は家へ。
後者は空へ。
前者は私を引き留めるように。
後者は私の背中を押すように。
…考えるより早く、私は上着を脱ぎ捨て、両翼を広げる。茶色がかった翼が、陽に照らされ、紅に染まる。
両翼を同時にはためかすと、私の体躯が静かに浮き上がった。
翔べる。
空を飛ぶのは久しぶりではあるのだけれど、私の体躯は飛ぶことを忘れてはいなかった。やはり、私は人間と言うより、鳥に近しい鳥人間なのかも知れない。私の体躯は、鳥に馴染んでいるのだ。
もう二、三度両翼を動かし、私はゆっくりと地面から離れていく。地面に足をつけていては決して感じることの出来ない浮遊感が、私の全身を包む。人間には感じられない浮遊感が。
誰かが私を呼ぶ声がするが、私は気にしない。最早、人間としての私は今姿を消し、鳥としての私が今の私であるのだから、人間の言葉は元々私に関係ない話なのだ。
珠緒に悪い―その思いが私の頭の中を横切る。しかしそれもすぐに思考の彼方へと追いやられた。鳥の私としては、人間の言葉を私に教授しようとする者など、私にとって害悪でしかないのだ。私の名前を問う鳥など、この世界の何処にも居ないのだから、名前を言えるようになったところで、何の意味は無い。
私はゆっくりと―次第に素早く―翼を揺り動かし、風を掴んで夕焼けの空へと飛び出した。
どこまででも飛ぼう―そう思って。