第八羽 「鵜飼家の食卓」
「ちょっと」
母は弟を諫める。
「いィだろ、べつに。本当の事なンだから」
弟は、ご飯の入ったお碗を一つ、盆からとり、誰もいない壁に投げつけた。恐らく、先程話題に上がった、弟が中学生時代に使用していた碗だろう。碗は、跡形も無く砕け散り、欠片が米粒を纏って飛び散り、その一つがたまに当たり、たまは痛そうに鳴いた。弟は眉を寄せる。
「俺がよくねェッつッたらやめろよ、すぐによ。ほら、こいつの皿はたまが持ッてきてくれただろうが」
弟は、先程たまが持って来た“たまのいれもの”と書かれた皿を拾い上げ、机に置いた。
「米は自分で拾えよ、鳥女」
私はギリッと歯を鳴らした。ギザギザに尖った歯が、噛み合った歯の表面を強く削る。
何様だ、この人間は。
「早く残骸片付けろ、飯が不味くなる」
母は盆を机に置いてから、床にしゃがみこみ、皿の残骸と米粒を拾い集め始めた。私はこの人間を吊し上げて、遥か空の高みから落下させ、今まで過ごしてきた人生の過ちに後悔させながら殺してやりたい、などというような悪魔的な考えに襲われかけたけれども、何とか堪えた。母が堪えているのだから、私も堪えなくては意味がない。
母の涙が落ちる音が部屋に響いても、弟は眉一つ動かさなかった。
◇◆◇◆
母が私達の右側の、入口を背にした席に座ってからしばらくして、父がやって来た。父は入口から一番遠い、私達の左側の席に座った。父が「いただきます」を言ったのに続いて、母、弟が「いただきます」と言う。私も手を合わせ、食べ始める。
静寂が空間の大部分を支配し、野菜の噛む音、汁物を啜る音と、時折食器がぶつかり発せられる音のみが空間にこだました。結局、私の碗は、大鉢の丼であった。母が食器棚から引っ張り出してきたのだ。大きな器に少量のご飯が盛られているので、みすぼらしく、他の人の碗より入っている量が少なく見える。
皆、黙々と下を向いて、ひたすらご飯を掻き込んでいる。これも、普段からそうなのだろうか、と思い、母を見ると、目が合った。すると母は素早く目を逸らした。いや、母は私の目を見てはいなかったので、目は合っていなかった。母は私の腕―翼のついた腕―を見ていたのだ。
そうか、と私は納得した。今は食事中であり、私は箸を持つために、必然的に腕を出さなくてはいけない。皆は、私の、翼のついた腕を見ないように、わざとずっと下を向いてご飯を食べているのかもしれない。
「ところで」
父が口を開いた。
「真美の進路はどうする」
「進路も何も…」
母は箸を静かに机に置いた。
「まずは高校に挨拶に行かないといけないわ」
「どこの高校だ」
「樋川高校よ、真美が通っていた学校」
樋川高校。またしても記憶に無い情報だ。私に関係のある情報のようだけれど、何の事だろうか。
「何故今更、真美があの高校へ行かなければならないんだ」
「なぜって…真美が無事帰ってきたことを、知らせないといけないでしょう?」
父は顔をしかめた。
「…そうか」その言葉とは裏腹に、父はどこか納得していないようだった。
「けれど」母は私の目を見る。「少し休まないといけないと思うわ」
「何の事だ」と父が言う。
「真美のことよ。まだ記憶も戻っていないし、言葉もうまく話せないじゃないの」
「放っておけばいいだろう」
「放っておくって…どうして」
「そんなものは、勝手に治るだろう。鳥と一緒に暮らして人間の言葉が話せなくなったならば、人間と暮らしていれば、いつかは元の言葉を話せるようになるだろう」
「そういうものかしら」
母はそう言った。
そういうものなのだろうか。
私は首を捻った。
「そういうものだ」
父はそう言って、茶を啜った。
◇◆◇◆
それから、最初に弟が席を立ち、次に父が席を立った。母は二人が上の階へ上がっていったのを確認し、机に無造作に置かれた空の食器を片付け始めた。弟と父が使っていた食器だ。
『真美』
たまが私の足に爪信号をつけた。
『何』
『俺の食器にさっきの碗の破片が入ってるんだ、カリカリご飯に混じって取れない。取ってくれ』
私はたまの足元の“たまのいれもの”と書かれた赤い皿の中を覗く。茶色をした固形状のものの中に、光輝く何かの破片が埋もれている。たまは私達がご飯を食べている間ずっと、この破片を取りだそうとしていたのだろうか。
『いいよ』
私は翼についた指を伸ばし、たまのいれものから破片を取り出した。
『ありがとな』
たまはそう言うと、その固形物をカリカリと小気味良い音を立てながら咀嚼し始めた。私は破片を自分の着ている服のポケットに収める。
『ねえ、たま』
私はたまの背中に爪信号をつける。たまは食べることに夢中なのか、反応しない。
『この家族って、ずっとこんななの』
たまの咀嚼が止まった。私は続けて言う。
『私がいた頃も、ずっとこんなだったの』
たまはゆっくりと私を見上げる。たまは、何を考えているのだろう。
『ずっとこんな調子で、毎日を過ごしてたの』
たまは咀嚼を再開した。
『私はこの場所にいたんだよね、たま』
たまは固形物を食べ終えると、私に爪を立てた。
『ああ』
それだけ言うとたまは、たまのいれものをくわえて、部屋から出ていった。
部屋には私と母と、静寂だけが残された。