第七羽 「汚ェだろ」
『私のお母さんがたまを捨てたの』と私が言う。
『ああ』とたまが答える。『どうして』
『解らない。今から三週間ほど前になるか、お母さんが俺を車に乗せて、延々二時間車を走らせ、あの、森の開けたところへ置き去りにしたんだ。俺はそれから一週間ほど、脱出するために悪戦苦闘したんだが、結局水の一滴も飲めず、食べ物も見当たらず、あの開けた場所で倒れ込んで衰弱状態になったところを、真美に助けられたんだ。本当にありがとうな、真美』
『それはいいんだけれど』私は頭をかり、と掻く。『私をここまで連れてきたのは、何で』
『真美だったから』
『真美だったから』語尾は疑問符。
『二年前に突然失踪した真美がいたから』
よくわからない。
『皆心配していたんだ、お母さんもお父さんも、珠緒も雄爾も』
『雄爾って誰だったっけ』
『戻ってきて最初に会った男だ』
『ああ』たまの名前を言い当てた人間、玉置雄爾か。
『戻ってくれば、皆元気になると思ったんだけどなあ。あんまり、そんな雰囲気にはならなかったな。雄爾と珠緒は、喜んでたけれど。さっきの帰還歓迎会も、雄爾と珠緒が考案して、飾り付けもしたんだ』
『そうなの』
私は、白い建物で目覚めたときに珠緒が見せた、あの笑顔を思い出した。あれは確かに、本音の笑顔だった。
『あの弟は、心配してもいなかったし、帰ってきて喜ぶ素振りも見せなかったけれど』
『弟』語尾は疑問符。
私には弟がいたのか。
『そう、真美の弟』
消去法から行くと、私が気絶して最初に目覚めたとき、この六畳一間の部屋の入口にもたれていた人間のことだろうか。確かに、あの人は、私のことをジロリと嫌そうに睨んで、とてもじゃないけれど、私の帰還を喜んでいたようには、見えなかった。どちらかと言えば、あの人は、私の帰還を、疎ましく思っているように思えた。
『鵜飼 圭介、真美の弟だ。あいつは、いつも通り、ぶすくれた顔をして毎日を過ごしているよ』
『いつも通りって。どういうふうに、いつも通りなの』
私がそう言うと、たまは『そうか』と言い、苦笑いした。
『本当に、何もかもさっぱり、忘れてるんだな、真美は。雄爾や珠緒のことも、お母さんやお父さん、弟の圭介のことも、俺のことも』
『あっ、ご、ごめんね』私が謝ると、たまは『そんなつもりで言ったんじゃない』と言った。
『案外、そっちの方が、真美の為になってるんじゃないか、って思ってさ』たまは笑う。
『えっ、それってどういう』
「ご飯できたわよー!」
私が爪信号で“意味”と言おうとしていたところへ、階下からの声が邪魔をした。私の母と呼ばれるべき人間、鵜飼晴乃の声だ。部屋の壁に掛けてある時計を見ると、もう6時30分だった。さきほどこの部屋に入ってきたときは6時00分だったから、三十分が経過している。廊下の窓から夕日が射し込んでいるので、午後の6時30分だ。
「真美、圭介、降りておいでー」
鵜飼晴乃が続けて言う。「ご飯よー」
『降りるか』
たまはそう言うと、すっくと立ち上がった。私は、たまに続いて、一階への階段を下る。階段や廊下の床は、私達が踏む度に、みし、と軋んだ。
先程帰還歓迎会を行った部屋の机に食事が用意してあったので、私はその部屋の入口で立ち止まった。
「何してンだよ、てめェ」
私の後ろで声がした。振り向くと、例の弟らしき人間が、私をジロリと睨んでいる。
「邪魔だ」私を押しのけ、机の横の椅子に座った。テレビを正面にした二席のうちの一席だ。私は、その隣の席に座った。
弟は、チッと舌を打ちはしたけれども、私が横に座ったことについてとやかく言うことはなかった。私もなぜか、自然に弟の隣に座った自分を、不思議にも思わなかった。
昔は、いつもここに座っていたんだろうか。
そう考えると、二年以上前の私と、二年前からの私とで、人格が入れ替わってしまっているような、そこに別の自分がいたような、そんな奇妙な錯覚に襲われた。私は二年前、この翼だけでなく、私の中身さえも、入れ替わってしまったかのような、変な気持ち。
しばらくして、後ろの部屋から、鵜飼晴乃、すなわち母が、ご飯やおかず、汁物の盛られた食器が山盛り入った盆を運んできた。一歩歩く度に、盆がカタカタと揺れ、危なっかしい。
「真美のお椀、探したけれど、無かったの。圭介の、中学校のときのお椀だけれど、いいわよね?」
私はこくりと頷く。母は安堵した。
「俺がよくないンだけど」
「え?」
「俺がよくねェッて言ッてンだよ」
母は困ったように弟を見つめる。そのとき、たまがどこからか、“たまのいれもの”と書かれた赤い皿をくわえて持ってきた。それをたまは、母の足元にコトン、と置く。
まさか、たまは、その皿を私に使わせるつもりなのだろうか。
「ちょっと待っててね、たま」母はそう言いながらたまの頭を撫でる。
「汚ェだろ」弟が言う。
「何が?」
「そいつの口に決まッてンだろ」
母は、その言葉を聞いて身体をビクッ、と震わせた。
弟は、私の口が汚い、と、そう言っているのだ。