第六羽 「爪信号」
中に入ると、そこは純和風の居間だった。部屋の中心に囲炉裏がくべられ、パチパチと淡い音を立て、薪が燃えている。その風景に抗うように、壁には様々な色の色紙が、輪状に繋ぎ合わされ、この居間をカラフルに彩っている。“真美、おかえりなさい!”と書かれた布が、入口から一番遠い壁に貼り付けてあった。
「お前達、座りなさい」
白髭の人間に言われるまま、私と珠緒は床に置かれた座布団の上に座る。
「あの…真美のお父さん」珠緒が口を開く。
「もっと盛り上がっていきましょ?だってこれ、真美の帰還歓迎会ですし」
「君は部外者だからそんなことが言えるのだ」
珠緒は下を向き、しゅんとしてしまう。
「君もだ、玉置君」
白髭は、先程私に紙吹雪を浴びせた三人―白髭と、エプロンと、たまの名前を言い当てた人間―の内の、たまの名前を言い当てた人間を見て言った。たまの名前を言い当てた人間は、言われる前から下を向いていた。
「事態は思っていた以上に、深刻なようだ」白髭は、自身の蓄えた白髭を撫でる。
「二年前に姿を眩ませた鵜飼真美が、今、両手を翼に変え、現れた。しかも人間の言葉を話すことが出来なくなっている。これが、どんなに非現実的で、異常なことかは、君達ならば理解できるだろう」
「あなた、もうそのくらいにしておいて」エプロンの人間が制止する。
「いや、これは、玉置君と中川君には、絶対に言っておかなければならないことだ。玉置雄爾君、中川珠緒君。君達は、真美の、昔からの友達だと言うことは知っている。しかし、“友達”という関係に囚われ、いつまでも真美を支えてやらなければならない、と考えているのならば、それは大きな間違いだ。君達はもう大学生なのだし、それぞれの家庭の事情や、しなければならないこともあるだろう。その為の時間を、真美の為だけに割く、というのは、止めてほしい」
「な、何故ですか」
たまの名前を言い当てた人間が言う。恐らく、消去法で考えると、この人間が、白髭の人間が言う玉置雄爾なのだろう。
「『真美の亡霊に囚われるのは止めてくれたまえ』、ということだ」
「全然わからないですよ!」
珠緒が白髭に向かって叫ぶ。白髭が珠緒を睨み、言い捨てた。
「真美はもう、以前の真美ではないのだ」
◇◆◇◆
結局、真美の帰還歓迎会という名の宴は、沈黙と静寂が場を支配し、とても宴と呼べる雰囲気にならぬまま、終了した。
珠緒と玉置が帰り、エプロンの人間が食器の後片付けを終えた後、エプロンの人間は、私を二階の一室へと案内した。
「ほら、ここがあなたの部屋よ。…覚えている?」
そう言いながら、エプロンの人間は襖に手を掛けた。カラカラカラ、と言う心地よい音と共に襖が開き、部屋が現れた。
一週間前に、私が目を醒ました、六畳一間のあの部屋だ。中には何もなく、壁に押し入れらしき戸がついているくらいしか、この部屋に見所は無い。
「じゃあ、また6時30分くらいに呼びに来るから、ここで待っていてちょうだいね」
エプロンの人間はそう言うと、部屋を出て、階段を降りていった。エプロンの人間と入れ替わりに、たまが私の部屋に入ってくる。今までどこにいたのだろう。
たまは私の前にちょこんと座った。私が足を組んで座ると、私の足に爪を突き立てる。
「ギイッ!」
私は小さく跳ねる。たまは痛がる私をよそに、再び爪を突き立てた。
たまは一体何がしたいのか。
しばらくたまの爪攻撃の痛みに耐えていると、私は、たまの爪が、一定の規則性を伴って、繰り返し同じ突き立て方をされていることに、気がついた。
『真美』
たまは、私の足に、爪信号を刻み付けていたのだ。
爪信号とは、鳥の仲間の間でだけ使われる、言わば秘密の暗号のようなもので、敵襲など、声を出すとまずいときに、爪を仲間の体や、木、もしくは地面に突き立て、会話をする方法だ。私は、それをこの二年間の間で学んだのだ。
『どうしたの』
私は爪信号で答える。
『たまだぞ』
たまだぞ?
私は首を捻る。今更自己紹介だろうか。
『真美だよ』
私も一応自己紹介する。
『聞こえているか』
たまはそう返す。聞こえている、というのは、この爪信号のことだろう。爪信号に、“聞こえる”という概念は相応しくないように思うけれど。
『聞こえているよ』
『それはよかった』
奇妙なやり取りだ。
『どこで爪信号を習ったの』
『この一週間で、近所の通訳家のインコに仕込んでもらった』
そう言うとたまは、窓の外へ鼻を向けた。私は、爪信号をたった一週間で習得できるなんて、とてもじゃないけれど、信じられなかった。
『たまは賢いね』
『よせやい』
よせやい?
私はたまの顔をみつめる。たまって、そんなキャラだったのか。幻滅なような、そうでないような。
私は『それで、どうしたの。爪信号まで習得して、私に何か、言いたいことがあるの』と問う。たまは『実は』と言う。
『実は、お礼を言おうと思って』
『お礼』私はそう言う。爪信号には感嘆符や疑問符が無いのがもどかしい。
『俺は真美に助けてもらったからな』
俺。
ますます私は、たまの口調に愕然とする。たまをメスだと思い込んでいたせいもあるだろう。けれど、せめてボクキャラにしたり、でなくともオネエにするなり、対抗策はあるのではないだろうか。
『森での事』語尾は疑問符。
『ああ、そうだ。弱っていた俺を回復させてくれたからな』
『そう言えば、そもそも何であんなところで倒れていたの』
『お母さんに捨てられたんだ』
『お母さん』
『ああ』
たまは一息置いて、私の足に爪を突き立てる。そろそろ、足の感覚が麻痺してきた。
『真美のお母さん、鵜飼晴乃だ』
ズキ、と私の頭が疼く。