第五羽 「空のバケツ」
珠緒が話し続け、三十分ほどが経過しただろうか。私の寝ているベッドから見える、この部屋の唯一の出入口らしき、引き戸式の戸が音もなく開いた。
珠緒は「それじゃあまたね」と言い、部屋を去る。部屋には、私と、今部屋に入ってきた、先程、別の場所で私が目覚めた時に、エプロンを着けていた、エプロンの人間が残った。
「…先生から、お話は伺ったわ」エプロンの人間が言う。とは言っても、今はエプロンを着けていないので、元エプロンの人間、と言うべきだろう。
元エプロンの人間は、先程珠緒が腰を下ろしていた、私が寝ているベッドのそばの、小さな木の椅子に座る。
「記憶喪失に、言語障害、謎の頭痛に、それから何より…」元エプロンの人間は、私の左翼をちらりと見る。
「あなたの両手が…翼に変わった。一体、この二年の間に、あなたに何があったの?」
私は元エプロンの人間が発する言葉の大半を理解することが出来なかったけれど、このエプロンの人間、いや元エプロンの人間が、私を本当に心配して、その言葉を発していることだけは、理解できた。
「…喋られないんだったわね」
元エプロンの人間は、私と目が合うと、私の目をじっと見た。
「それじゃあ、私の名前は、覚えているの?頷くか、首を振るか、してちょうだい」
私は首を振る。
「…そう」元エプロンの人間は、悲しそうにうつむいてしまった。私は途方に暮れる。
「…あなたは、この二年間…どこで過ごしていたの?」
「ギャ」山、と口にしたつもりが、私の口からは、人間の言葉に成り得ない、鳥としての声が響く。
元エプロンの人間は、私の声を聞いて、驚いたように目を見開いた後、徐に涙を流した。
「…う、うぅ…グス」元エプロンの人間は、垂れ下がる鼻水を啜る。
「……きっと、私のせいだわ」
そう言うなり、元エプロンの人間は、さらに激しく、私の寝ているベッドに泣き伏した。
彼女の泣き叫ぶ声が、私の旧い記憶の内の何かを刺激し、脳を冒す。けれど私は、別段、それで何かを思い出すことができたという訳では、無いらしかった。
◇◆◇◆
元エプロンの人間が帰り、今度は、白い布を全身に纏った、一組の男女が現れた。些細なことだが、女の方の布は、どちらかと言うと桃色がかっていて、私の棲んでいた山に生えていた、桃の木を彷彿とさせた。
男の方は、私の手首―と言うより、翼の各部へ伸びた骨が集合する、翼に存在する大きな関節の辺り―に、人差し指と中指を揃えて置いた。
女の方は、私の寝ているベッドの下に潜り込み、凶悪な臭いを発するバケツを取り出し、それを持ってどこかへ小走りに駆けていった。
男は、持っていた木の板に何か書き込むと、しばらく、空のバケツを持って戻ってきた女と、何か話し合った後、部屋から出ていった。
空のバケツは、また、私の寝ているベッドの下に、設置された。
◇◆◇◆
6
それから一週間が経って、私は退院、というものをすることになった。一週間の間、一日も欠かさず、珠緒は私のいる部屋へやって来ては、一方的に喋った。今行っている大学の話や、新しい恋人の話、仲良くなった先生や生徒たちとの感動ストーリー…など、私にはさっぱり内容が理解できないものばかりだったけれど、珠緒は本当に楽しそうに喋った。
「よかったね!退院できて」
珠緒はニカッと笑い、私の、コートを着て、普通の人間と見分けがつかなくなった翼を抱く。
私と珠緒は、一週間滞在した、白色の建造物を去り、どこかへ向かう道中である。
「今からおうちに帰れるんだよ、真美!嬉しくないのー?」
珠緒は、私の頬をぷにぷにとつつく。
一週間前の、たまの名前を言い当てた人間もそうだったように、私の顔を見た人間は、“真美”と叫ぶ傾向があるらしい。もしかして、“真美”というのが、私の人間の頃の名前なのだろうか。
「まったく、真美は幸せもんだなぁー!あたしがこんなに、尽くしてあげてるんだもんよっ!そりゃ、うりうりー」
珠緒はそう言いながら、私の頬に拳を突き立て、ぐるぐると回す。少し、私の頬の皮が、珠緒の拳によって引き伸ばされる。
「この、幸せもんっ!」
そう言って珠緒はまた笑った。
◇◆◇◆
十分ほど歩いて、私達は、木造二階建ての建築物の前で立ち止まった。表札には、
鵜飼 昇太郎
晴乃
真美
圭介 と書かれていた。
“真美”と読める文字がある。私のことだろうか。そうだとすると、他の文字は何を意味しているのだろう。
その表札には、幼い人間が、殴り書きしたような文字で
たま
と書いてあるのも、見てとれた。
「んじゃ、レッツゴーだよ、真美!愛しの我が家へ!おかえりなさーい!」
珠緒はそう言って、玄関の戸を開けた。中から、ぱん!ぱん!ぱん!という、銃声のような音が響く。
「ギャッ!」
私はその音に戦き、後ずさる。バッと翼を広げ、飛び立とうとしたけれども、何度翼をはためかそうとしても、コートが邪魔で、翼が開かない。
先程の銃声の一瞬後、戸の奥から、紙吹雪が飛び出した。私も、珠緒も、奥にいた三人の人間も、驚きに顔を歪めた。私は紙吹雪を見て驚き、他の四人は、私の反応を見て驚いたのだ。
「あ、あははー、あの、あれですよ、真美、ちょっとクラッカーは苦手だったんじゃないですか?ほら、音が怖いとか」珠緒が奥の三人に話しかける。
「そ…そうだったわね」
奥にいた、元エプロンの人間がそう言う。と言っても、今はエプロンを着けているので、エプロンの人間、と呼ぶのが正しいのだが。
「まぁ、何だ…とにかく、お前達、家に入れ。宴はそれからだ」
初めて見る顔の、白い髭を蓄えた人間がそう言う。
私と珠緒は、その人間に言われるまま、木造二階建ての家に、恐る恐る入っていった。