第十九羽 「天地:β.人間」
弾丸は、まっすぐに私に飛来し、左腕を切り裂いた。紅の鮮血が、朝闇に迸る。私は体勢を崩して縁の外へと落ち、翼を開いた。
だけど、思うように飛べない。私は縁に掴まった。翼についていたはずの羽がないことに気付く。どうして、と考えるよりも先に、縁の上に乗っていたはずの鷹さんが呻き声を上げ下へと落ちているのが目に飛び込んできた。翼が大きく損傷している。
「鷹さんっ」
私は手を伸ばす。だけど空を飛べない私は、落ちてゆく鷹さんを助けることは出来なかった。
あっけなく、鷹さんは地面に花を散らした。
私は縁をよじ登り屋上から校舎の中へ入り階段を駆け下りた。途中何度も銃声が鳴り響いた。一体どこの誰が銃なんて。
駆け寄ると、鷹さんはまだかすかに息をしていた。ひゅう、ひゅう、と、胸から空気が抜ける音が聞こえる。
「鷹さん!」
鷹さんは私を見上げた。そして、嘴の端を持ち上げ――――笑った。
「俺は――――なんて馬鹿なんだ。今まで何をしてたんだろう」
「落ち着いてください、鷹さん!」
「思い出したんだ。どうして俺が孤独だったのか。俺は昔も、こうやって――――死んだ」
鷹さんが喋るたびに、胸からはどくどくと血が溢れてくる。鷹さんの死を急かすかのように、銃声が鳴った。銃弾は、目の前の地面にめり込み、煙を上げる。
「死なないでください、鷹さん!」
「勘弁な、真美……俺はお前と一緒にいられなかった。だけど、今なら――――極楽に行けそうな気がするんだよ……」
そういうと、鷹さんは瞳を閉じた。輪郭がゆるみ、鷹さんの体躯が重くなった。鷹さんを支えていたものが、なくなったのだろう。それはあるいは、鷹さんの魂だったのかもしれない。
鷹さんは、間違いなく死んでいた。そうとしか形容できないほど、確実に死んでいた。
「どうして……鷹さん……っ!!」
今から別の世界で、一人と一匹でやり直すって、そう言ったのに。……なんでこんなところでいなくなるの?
私は自分の腕を触る。そこにあったはずの、私が“鳥人間”であったことを示す羽は、跡形もなく消え去っていた。
――――――これが私の望んだ姿なの?
私は唇を噛み締める。血の涙が鷹の頬を濡らす。
――――羽さえあれば――――翼さえ開けば――――鷹さんを助けられたかもしれなかった。
私が人間になりたいとさえ思わなければ、鷹さんは死なずに済んだ。
◇◆◇◆
鳴りやまない銃声は校舎の壁を破壊し続ける。私は鷹さんの亡骸を抱え、校舎の壁に身を預けていた。
いつの間にか私の腕にはまた、羽が生えていた。もしかすると私の考えと呼応しているのかもしれない。二年前の私は、ここから逃げたくて羽をはやしたのだ。
――――なら今の私も、ここから逃げるために羽を授かっている。
私は鷹さんの亡骸を置いて校舎を飛び出した。銃弾の波を掻い潜ると、遥か向こうで山並みが燃えている。私はそれに向かってがむしゃらに飛んだ。
あの向こうの世界で、きっと幸せが待ってる。
◇◆◇◆
飛んでも飛んでも、山焼けは近づいては来なかった。それどころか、山焼けばかりが水の流れるように広がり、鵜飼真美を取り囲んだ。彼女はあたりを見回す。そうして彼女は初めて、自分に逃げ場のないことに気が付いた。
ぐるぐると彼女は空を飛び回る。山焼けは彼女をあぶり続ける。彼女は、しぼみかけの風船のようにゆるやかに、天へと昇り始めた。山焼けの火が遠ざかり、天の冷気が彼女を襲った。ぶるぶると彼女は身震いする。その隙に霜が彼女の息を凍らせた。
どこにも彼女の逃げ場はなかった。
『どうした真美』
頭の中に声が響いた。それに声はないのに、あの犬の声が確かに響いた。
『どうしてこんなところにいるの』
『愚痴なら聞くぞ』
『逃げたいのに逃げられないの、助けて』
『だけど、真美には感情があるだろ』
『だからどうしたの。私は逃げたいの』
『些細なことさ、そんなもの』
『どういう意味』
『人間だ、真美』
たまはにっこりと笑った。
『人間になるんだ。鳥として真美がいる限り、真美は逃げられない。逃げるには人間になるしかない』
『馬鹿じゃないの』
『よせやい』
『……ホント、バカだよ』
鵜飼真美は翼を畳んだ。初めはゆっくりと水車のように、次第に神鳴のように、彼女は地へと向かった。びゅうびゅうと吹きすさぶ風の音は、勇壮なメロディーのように彼女を送る。
彼女の腕からは羽が消えていた。彼女の心からは迷いが消えていた。
一度決めた。人間になると決めた。それなら、どんな結果になろうとも貫くと決めた。
それなら最後までやりきるしかない。
それから彼女は「ありがとう、“たま”」と小さくつぶやいた。その声は、山や町に眠っていた生き物の目を覚ますことはない。
彼女は一人の人間となり、どこまでも、どこまでも、真っ直ぐに地へ落ちて行った。もう山焼けの火は煙草の吸殻のようにしか見えない。彼女はひたすらに落ちて落ちて行った。
熱さに息は赤く燃え上がり、その焔は彼女の身体を燃した。しかし、地の大きさは依然として変らない。彼女は腕が千切れて、涙ぐんだ目を上げ、もう一度地を見た。
これが彼女の最後だった。もう彼女は落ちているのか、昇っているのか、逆さになっているのか、上を向いているのかも、分かってはいなかった。
ただ、心安らかに、その小さく澄んだ唇は、力なく、しかし確かに少しほほ笑んでいた。
人間:完




