第十八羽 「二年前:β.人間」
「どうしたの?こんな時間に、こんなところに呼び出して」
珠緒は、さも不思議そうに私を見た。その顔には全く私に対する警戒の色が窺えない。
「槙についてのことなんだけど」
珠緒は、屋上の縁に座っていた私の隣に座る。
「槙がどうかしたの? もしかして、死霊の呪いの正体がわかったとか?」
私は首を振る。死霊の呪いの正体が玉置だということはわかっているが、今問題にしているのは、そんなことじゃない。
「槙の本名って、何だったかな」
できるだけ平静を保って問う。
「え? 槙の本名? なんだぁ、そんなこと聞くために読んだの? もーう、真美ったらおちゃめさん!」
珠緒は私の頬をつんつーんとタップを踏むようにつつく。
「槙の本名は、秋田槙だよっ!」
それを聞いて確信した。
私は、二日前に河原で思い出した記憶を、再度思い出す。
◇◆◇◆<二年前>◇◆◇◆
私は、河原の草むらの影に隠れて二人を観察していた。
二人は、河原で揺れ動く一つのダンボール箱に近寄る。
「わぁ、これ、黒犬だよ! かわいい~~!! ねぇ、この仔、飼おうよ! かわいそうだよ!」
「善意の押し売りは好きじゃないんだ」
「えー、でも、かわいいでしょー?」
私は、親指の爪をガリッ、と齧る。
あの女、許さない。
私の槙を、横取りするなんて。
私の彼氏の槙を、横取りするなんて。
「名前、何にしよっか」
「飼う前から名前を付けるのかい?」と槙は苦笑した。
「私と槙の名前からとって、『たま』っていうのはどうかな?」
「なるほど、中川珠緒と秋田槙の両方に共通する文字、“た”と“ま”をとって『たま』か。中々いいな……って、そうじゃなくてだな、珠緒」
珠緒。
「何、どうしたの、槙」
「実は、俺は犬アレルギーなんだ」
「えーっ! 猫じゃなくて!? そっかー、あたしの家は、動物飼うの禁止だから、あたしたち、この仔飼えないねー」
珠緒は物欲しげに槙を見る。「どうしよう」
私は、草むらから出た。
もうこれ以上、あの二人が楽しそうに見ている姿なんて、見たくはなかった。
そのときもう既に、槙はすでに、私の彼氏ではなくなっていた。
◇◆◇◆
「いいよ」
犬を飼ってほしい、という珠緒の申し出を、私は朗らかに受け入れた。
表面上は。
「ありがとう! じゃあよろしくねっ! あ、ちなみに、その子の名前、『たま』だからっ!」
また明日、部活でね、と言って、珠緒は去って行った。私は、自分の腕の中で縮こまる仔犬を見つめる。
『たま』だなんて馬鹿げている。
どうして、私が、あの二人の名前が入った犬なんて、飼わなくてはいけないのだ。
この犬は、槙と珠緒が愛し合っている、何よりの証拠だった。
私は、たまをずっと部屋の押し入れに閉じ込めておくことにした。私が外出するときだけ、部屋から出してやる。そうしないと、父や母や弟に、勘づかれてしまうかもしれないからだ。
私が『たま』を虐待していることを。
「あんたなんか見たくもないのよ」
たまを押し入れから引っ張り出し、背を殴る。たまは鳴かない犬だった。それが無性に苛立った。
「珠緒なんて死ねばいいの」
全力で尻を蹴る。犬は弾き飛ばされ、畳に力なく転がった。
「あの裏切り者」
右足で畳に押し付ける。犬は必死にもがくが、無力だ。
「許せない」
私は決心した。
携帯電話を取り出し、電話をかける。
◇◆◇◆
ある日の夜。私は、槙を呼び出した。
「どうしたんだい、真美」
第三校舎の屋上に、私は立っていた。槙は、頭を掻く。
「私と話するのなんて、久しぶりじゃないの?」
平静を保ちつつ、言う。
「あの女と別れて」
「……珠緒のことかい? 彼女は、別に、俺の彼女ってわけじゃ」
「嘘つき」
「え?」
槙は虚をつかれたような顔だ。
「河原で座り込んでるのを見た。一緒に下校してるのを見た。バスで隣に座ってるのを見た。あなたがあの女に、ほほ笑むのを見た」
「真美、君は――――――」
「本当って言うなら、どうしてそんなことをしてたの。どうしてあの女はあなたと一緒に歩いてるの。どうしてあなたはあの女を名前で呼ぶの!」
「真美、落ち着いてくれ、俺は―――――」
「どうして私から離れたの! 私のことは最初から、捨てるつもりだったの! あなたは最初から、私のことなんて好きじゃなかったの!」
「そんなことはない、俺は、今でも君のことが好きだよ」
「嘘をつくのはもうやめて!」
虚空に叫び声が響く。
私は息切れした肩を押さえる。一筋の雫が頬を伝う。
「それが本当なら……あの女を殺して」
「えっ?」
「珠緒を……殺して」
「冗談、だよな」
「冗談なんかじゃない!」
私は槙に詰め寄った。槙は両手を挙げ、後ずさる。
「私のことを本当に愛しているのなら! 私があなたの彼女なら! あの女はこの世界に必要ない! そうでしょう!」
「何言ってるんだよ、珠緒は真美の友達じゃないか。それを殺すだなんて、真美、どうかしてるぞ」
「友達!? ふざけないで!」
私は槙を突き飛ばす。槙はぐらりとよろめいた。
「人の彼氏を横取りするようなヤツが、友達……の…………わけ……が………………」
目の前で、槙が後ろに傾いていた。
驚きに目を見開き、一瞬に絶望し、人生を後悔し、己に欲をかいた。
そしてそのまま槙は落下し、潰れた。
◇◆◇◆<現在>◇◆◇◆
「で、どうしたの?」
珠緒は安穏とした声を出す。
「……私が鳥になった理由が、ようやく分かったの」
「え、そうなの? じゃあ、もしかしたら、治るかもしれないの? よかったねー!」
珠緒はそう言って私の肩をたたく。
以前は優しく聞こえたその声は、今では嫌味のように聞こえる。
「私は、多分、あのとき、槙と一緒に落ちてたんだと思う」
珠緒は一瞬考えた。
「槙と一緒に、って、もしかして、二年前のこと?」
「そう。私は落ちかける槙の手を取ろうとして落ちた。そのときに、神様がこの力を与えてくれたんだと思う。今死ぬべきじゃない、って、神様が言って、そしてこの力を授かった。
そして私は翼を得て空を飛んだ。本来の目的を果たしに行くために。
ただ、そこで問題だったのは、翼が生えたときに、何かのはずみで、記憶が飛んだこと。そのせいで、私は今まで、その目的を忘れたまま、二年間も森で暮らしてた」
珠緒はごくりと息をのんだ。
「その、目的って、何のことなの?」
「あなたを殺すこと」
そして私は、珠緒を突き落した。
◇◆◇◆
死、というものは、案外呆気ないもので、時間がかかることでもない。高い場所から見下ろすと、それはまるで、潰れたプチトマトのようにも見えた。
私は、達成感に身を包まれ、縁に立った。ゆっくりと、しまっていた翼を広げた。
この死体が見つかれば、私は捕まる。この町から、逃げなくてはいけない。
私は、逃げた先にあるまだ見ぬ街に思いをはせた。
逃げた先では、私は人間として生きていこう。
翼を引き裂き、腕をとって、中途半端な鳥人間でなく、れっきとした人間として、生きていこう。
それはどんなに楽しいだろう。
それはどんなに自由だろう。
私は、そう考えながら、翼を動かし、飛び立った。夜の風が肌に突き刺さる。
これが最後の飛行だ。
これが終われば、私は自由になれる。
逃げ切れば、私の勝ちだ。
「よう」
人間のものでない声が聞こえた。
振り向くと、何か後方から飛来するものがあった。
目を凝らすと、それは鳥であった。どこかで見たことがある。
「鷹さん」
それは鷹だった。森にいたときに、その地の鳥たちを纏め上げていた、あの鷹だ。
「えらく久しぶりじゃあないか。三か月ぶりくらいか」
「そうですね。鷹さんは、どうしてここに?」
鷹は縁に降り立ち、翼を折りたたんだ。
「ここらへんは俺の縄張りなんだ。飛んでいたら、偶然お前を見つけてな。今回は、尾行してたわけじゃあないぞ。……なんだか、お前、さっぱりした顔をしてるな」
私は自分の頬に触れる。
「そうですか?」
「ああ。すごく綺麗だ」
鷹は、私と以前会ったとき、私のことを、愛していた、と語った。あの感情は今もまだ生きているのだろうかと、少し、考えた。
「『俺もお前も、等しく孤独なんだ』」
「ん?」
「鷹さんが、前言っていた言葉ですよ。覚えてませんか?」
鷹は頭を捻る。「そう言えば言ったな。それがどうしたんだ」
「私にも、やっとその意味が分かったんですよ。私たちは、最初から、この世界とは違う世界で生まれたのかもしれない。そんな気がするんです」
「よく分からないことを言うな。俺は世界と無縁なわけじゃない。森には鳥たちがいるし、食事だってする」
「だけど、孤独、なんですよね」
鷹は目を瞑った。「あぁ……そうだな」
「鷹さん」
鷹は私の顔をみつめる。おおらかで、優しい、そんな瞳だ。
「鷹さんも一緒に、行きませんか」
「どこへだ」
「この世界のどこかに、です。行けるのなら別の世界でもいいですけど。二人で、一からやり直しませんか」
「……あぁ、それも悪くない。お前と一緒なら、どこへでも行こう」
「その場合、私は人間に戻りますから、鷹さんは私のペットってことになりますけど」
私がそう言うなり、鷹は吹き出した。
「はははっ! 俺がペット、か! 今まで森を守ってきた鷹に、ペットになってくれと頼むとは!」
鷹さんは嬉しそうに笑う。
「成長したな、お前! いいだろう、ペットにでも何にでも、なってやる!」
「ありがとうございます」
私と鷹が、ほぼ同時に翼を広げた。いつの間にか、月は沈み、朝日が顔を出している。
「西へ東へ、どちらへ行く?」
「風の吹くまま、気の向くまま、で」
「頼もしいな!」
そうして、私たちは飛び立った。
そのときだった。
突然、世界に銃声が鳴り響いた。