第十七羽 「分岐点」
私は、再び樋川高校へと来ていた。少し気がかりなことがあったからだ。
先日玉置と出くわしたテニスコート方面ではなく、今度は校舎の方へと向かった。
第三校舎。それが私の目的地だ。以前、珠緒が、槙が飛び降りたのは第三校舎だと言っていたときから、私はそのことが気にかかっていた。
花壇近くにあった泥まみれの地図を見て、第三校舎の位置を把握する。空を見上げると、天が裂けたかのような真っ赤な三日月が、にたりとほくそ笑んでいた。
唯一壊れていない校舎。あれが第三校舎らしい。工事業者の人たちが槙の幽霊を怖がって、手をつけなかったのだろうか。
あの場所に行けば、何らかの記憶が戻るはず。
根拠はないが、真美はそう確信していた。
夜の校舎に入る。
その瞬間、真美を頭痛が襲った。二年前の記憶が呼び起される。
◇◆◇◆
「ねぇ……槙、聞きたいことがあるんだけど」
人間の私が槙に話しかけている。小鳥がさえずり、廊下の窓からは西日が射しこんでいる。
「なんだい、スイートハニー」
槙と私は、どちらもテニスウェアだ。しかも私は、テニスラケットを持っている。私が槙に肩を貸して歩いている。
「キモいって言ってんでしょっ」
私は槙の頭をグリップエンドで小突く。
「痛」
槙は頭をさする。「どうして君ってやつは、そう攻撃的なのかなー、あ、なるほどそうか、これも一種の愛情表現と考えれば――――」
「ちょっとー、二人ともー!」
後ろから、タオルとバインダーを首から提げたジャージ姿の女子生徒が走り寄ってきた。
「倒れたんなら、あたしに言ってくんないとダメでしょー?」
「悪いな、真美が『私が運ぶぅ~☆』って言って聞かなかったんだ」
「それは、もしかして、今すぐ地獄までぶっとばしてほしいってことなのかな……?」
「あれ~、冗談だよ、真美。怒ると折角の美人が台無しだ」
槙は真顔で言う。
「……やっぱ二人って、付き合ってるんじゃないの?」
「付き合ってない! この槙が勝手にそう思い込んでるだけだって!」
「時々真美はとんでもない嘘をつくんだよ、中川さん。覚えておいたほうがいい」
「コイツの方が嘘つきだからね、珠緒。覚えておいたほうがいいよ」
二年前の、高校生の珠緒は、光を受けて朗らかに笑う。
「分かった分かった、とにかくね、あたしはマネージャーだから、こういう問題児を連れていくのは、あたしの役目なんだって!」
「も、問題児……? それは、もしかして俺のことか?」
「もしかしなくても、そうだよ」と私。
「だから、それこっちにちょうだいっ!」
「それ、って」槙は居心地悪そうに頭を掻いた。「人をモノみたいに言うか」
「当然だよ! だって槙は、真の武士だもん!!」
槙は、目を大きくしばたたかせた。そして、吹き出す。
「あっはっは! うれしいことを言ってくれるじゃあないか!」
「……私の周りにはバカしかいないの?」
「違う、こういうのは天然と言うんだ」
「バナジウムでしょ?」
槙は珠緒を指さして笑う。「ほら、天然だ」
「おいしいよね」
珠緒は満足そうにうなずく。
「……分かったから、はい、珠緒、コレあげる」
私は槙を突き飛ばす。槙はバランスを崩しつつ、上手に体勢を整え、珠緒にしがみついた。
「中川さ~ん、真美がいじめるよ~」
「ダメだよっ、真美! 弱いものイジメは!」
珠緒は私にビシィッと鋭く指を向けた。
「あれ、今、俺さりげなく弱いもの認定された気が……」
ぐずぐずと呟きながら、槙は、珠緒に引っ張られていった。
二人の姿が見えなくなるまで、人間の私はそこに佇んでいた。
廊下に私の黒影が塗られる。
「……槙は、やっぱり…………私よりも、珠緒の方が……好きなのかな」
◇◆◇◆
私は、屋上へと向かった。
二年前、槙が飛び降りた屋上。一体、何を考えて飛び降りたのか、私には知る義務がある気がした。
心のどこかで、私の中には、一つの可能性が渦巻いていた。
あの日。二年前の某日。
槙は自殺したのではなかったのではないか。
槙を殺したのは――――――あの人物ではないだろうか。
そして、結局のところ、私は、何なのだろうか。私は今は、鳥でもない、人間でもない。今は鳥人間だ。
どちらかに決めろ、と父に言われはしたが、私は未だ決めあぐねていた。
私には、もう、居場所がないのではないか。
あの森には雀たちがいるし、家には家族がいるし、テニス部部室には玉置がいる。
もう、私にとって、安らげる場所というのは、存在しない。
鳥か、人間か。そんなことを決めるだけで、本当に私は元の生活に戻れるんだろうか。
私は、ここで、決心した。
やってみないことには、分からない。
やってみないことには、変わらない。
私は、今ここで、どちらにするか決めるべきだ。そうしなければ、二年前の真相には近づけない。
私は、鳥か、人間か。
そう、私は――――――
◇◆◇◆<分岐点>◇◆◇◆<分岐点>◇◆◇◆<分岐点>◇◆◇◆<分岐点>◇◆◇◆
屋上につながる扉のノブに手をかける。
先日テニス部部室に足を踏み入れたときにはなかった感情が、私を襲った。
どろどろとした、生臭い感情。腐臭を漂わせ、近づくものを遠ざける、そんな感情。
なぜか私は、嫉妬していたのだ。
「うっ!」
扉を開けた途端、私の脳内に映像が浮かび上がった。
そこに浮かび上がったのは、屋上にいる男の姿。
『冗談なんかじゃない!』
男は女と向かい合い叫んでいる。
女は何か喋っている。
そして、男と女は近づき、男が体勢を崩した。
男は、真っ逆さまに地面へと落ちてゆく。
そして、ぐちゃりという音が響いた。
女は、二年前の人間の私。
男は、二年前の、槙だった。
◇◆◇◆
五日後。父との約束の日の夜。
私は、樋川高校第三校舎の屋上に立っていた。
紅の月は半月となり、私をどろりと見つめている。
樋川高校のぐるりを、闇が取り囲んでいる。
私は、この場所に呼び出したある人物を待っていた。
二年前の真相は、既に殆ど解明している。
あとは、その人物次第だ。
しばらくして、屋上のドアが、ぎぎぎ、と鈍重に開いた。