第十五羽 「正義の徒」
私たちは、樋川高校へと辿り着いた。
「うわぁ……えらいことになってるね」
珠緒が感嘆に似た溜息をもらす。樋川高校は、以前私が訪れた時と比べると、その校舎の半分ほどが既に壊されていた。
「じゃあ、早速探索開始ー!」
そういうと、珠緒は立ち入り禁止の柵を跳び越え、ずんずんと歩いてゆく。私もそれを飛び越え、はぐれないように後を追う。
日は既に暮れかかっており、私は深紫色に染まりゆく空を眺める。その色はおどろおどろしく、私たちを歓迎しているようには見えない。振り返ってみると、人気のない古ぼけた校舎の群れの輪郭が夕闇に浮かび上がり、私達を取り囲んでいるようにも思えた。
校門についている『樋川高校』と書かれた表札は、外れかかっている。誰かが外そうとしたけれど、そのときその人に何かが起こったのか、やんごとなき事情があったのか、そう思わせるような、不自然な外れ方だ。
「じゃあここからは分かれて捜索ってことで! 頑張っていこー!」
運動場の中心あたりまで来てから、珠緒が言った。私は反対したが、珠緒はその方が効率がいいからと言って聞かない。仕方なく、私たちは二手に分かれた。珠緒が校舎側、私が運動場側だ。
珠緒が消えていった校舎側を見つめる。ほとんどの校舎が半壊していて、傷一つなく残っているのはたった一つだけだ。あの現場で誰かが殺されたのだろうかと思うと、私は今どこにいるのか、天外境にでもいるのではないか、という、非現実的な感覚に襲われた。まるでここが別世界であるかのような感覚を覚えたのだ。
プールに近づく。藻なのか何なのか、緑色をした物体が浮いている。何も手がかりになりそうなものはない。私は静かにそこを離れた。
そこで私は、ふと、テニスコートのことを思い出した。あのテニスコートは無事なのだろうか、私が高校時代を過ごしたあのコートは、果たして元のまま、残っているのだろうか。
先ほどのプールのように、荒れ果てていたなら。
そこで私は、何とも言えない喪失感に身を包まれた。私があの場所にいたころのことを、完璧に覚えているわけでは、もちろん、ないのだが、あの場所がなくなってしまったら、本当に私の居場所はこの世界のどこにもなくなってしまう、と思った。過去にはあの場所に、間違いなく私の居場所は、あったはずなんだ。
結論から言うと、テニスコートは、全くの無傷で、その場所に残っていた。芝生も、ネットも、審判台も、何もかもが、一か月前のまま、私の記憶のまま、そして、槙と私が言葉を交わしあっていたときのまま、残っていた。私はほっと胸をなでおろす。
◇◆◇◆
何かが動いた気がした。
それは、ほぼ、直感と言ってもよいものかもしれない。近くで、何かが動いた気がしたのだ。これは私の、鳥としての能力なのかもしれない。
私はあたりを見回した。見ると、テニスコートの近くに、薄水色の、一階建ての小さなプレハブ小屋があるのが見えた。どうやら、気配はあの場所からだ。
私は気配を殺し、慎重にその扉に近づく。一体誰なのだ?まさか工事の関係者がまだ残っているとは考えにくい。ということは、状況的に、常識的に考えれば――――
犯人。
そうとしか考えられない。こんな場所にいるのなんて、謎の事件、工事中の怪奇現象、『死霊の呪い』の正体くらいなものだ。声が聞こえた、という証言からして、犯人は人間でまず間違いない。
ということは、この中にいるのは、連続殺人犯だ、ということになる。悪霊を騙り、工事員たちを殺した殺人鬼。
開けるべきか、否か。
迷うことなく私は扉を開け放った。今の私には、殺人鬼なんて意味がない。私がどこで死のうと世界は動かない。
「うわっ!」
中にいた人物が気弱な驚きの声を上げた。私はその人物を目でとらえ、驚く。
「真美」
その人物は、私を見てそう言った。
その人物は、私の知っている人だった。
「玉置」
私は、その人物を見てそう言った。
そう、そこにいたのは、悪霊でもなんでもなく―――――――
私の彼氏である、玉置雄爾だったのだ。
◇◆◇◆
私と玉置は、テニス部部室の中で向き合う。
「樋川高校が取り壊されると聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ」
玉置は、悪びれる様子もなく、かと言って開き直っている様子もない。
「最初は手紙だった。『工事を中止しろ』って書いた手紙を送りつけた。でも彼らは止めなかった。次に『この場所を壊すな』って耳元で囁いたんだけど、ダメだったんだよね」
だから、と玉置は続ける。
「だから殺した」
「どうして」
どうしてそんなことを。どうして、人殺しなんて真似を。
「帰ってきたときに迎える場所がないといけないよね? 壊れてしまったら元も子もないよ」
何の話をしているのか、理解できない。玉置から、虚ろな狂気じみたものを感じる。玉置の目を見ることができない。
自分の身に危険が迫っている。そう感じた。私は玉置に、殺される、というよりもっと曖昧な、壊される、というような恐れを感じる。
「君の居場所はここにしかないんだ」
「え」
私?
どうして、そこで私の話になるのか。
「そうだよね、真美」
玉置は真っ直ぐな淀みを宿した眼で私を見る。
「帰ってきたばかりなのに、『真美はもう以前の真美ではないんだ』なんて言われて、真美は傷ついた。珠緒さんから話を聞いたよ、家の中では疎ましがられているんだろ? 真美の居場所は最早あの家にはない。
もちろん真美が鳥になることなんてできない。だって僕の彼女だからね。僕からは離れられない。
そうなると、最後に真美が行き着く場所はどこなのか、って、僕は考えたんだよ。そうしたらね、この場所が浮かび上がってきた。真美が青春時代を過ごしたテニスコート。この場所こそが、真美の居場所なんだよ。だから僕はこの場所を守ろうと決めた。
喩えどんなことがあっても。喩えどんなことをしてでも。僕はここを守ると決めたんだ。殺すの自体は簡単だった。工事の準備だなんだって、そこらじゅうに凶器になりそうなものは転がっていたからね。面白いほど簡単に、こんなに簡単に人は死ぬのかって、思ったけど、まぁ、そんなことはどうでもよくて、結局、真美がここに戻ってきた今日この瞬間まで、僕はこの場所を守り抜けた。
だから、真美。僕は君の味方だよ。君を殺したりしない。君のために殺したんだから。怖がらなくていいんだ。僕は殺人鬼なんかじゃない。むしろ正義の徒だよ」
私は――――――
玉置の言う一言一句を全く理解できずに、その場に立ち尽くしていた。
いや、『理解を拒絶した』と言ったほうが分かりやすい。私のために人を殺す、なんていう非現実的なことは、私のちっぽけな脳では、常識ではなく、意味不明だった。
以前思い出した記憶の中で、槙が言っていた内容を思い出す。
『君は騙されているんだ!! あの男は君の思うような人間じゃない!! あの男は、君を地獄の道連れに選んだんだ!! 君は殺される、早く逃げないと、君は――――』
槙の言っていた“あの男”の正体。それは、今目の前にいる、玉置雄爾なんじゃないだろうか。
一体、二年前に何があったのか。その答えを、玉置は知っているのだろうか。
玉置はゆらゆらと音もなく、笑う。
「正義に間違いはないよ」
そう言ってまた玉置は笑う。