第十三羽 「イルカとキリン」
父は猟師だったらしい。
私が出ていった二年前までは、毎日のように火縄銃を担いで外に出て、日が暮れる頃に獲物を手に戻ってきたらしい。私がいなくなってからは、もう狩りをやめてしまったらしいけれど。
『家のすぐ近くで銃声が聞こえたときには、そりゃあ驚いた』とたまは話してくれた。『あれは槙だったのか』
『たまも槙を知っているの』
『うろ覚えだけどな』耳がピクリと動く。『俺はあんまり外に出して貰えなかったからな。この家の人間以外には、会ったことがなかった。真美が出ていってからは、ある程度自由に出回れるようになったけどな。その頃は、玉置と珠緒がよく家に出入りしてた。真美はまだ帰ってませんか、って毎日のように来ていた』
『じゃあ、たまはいつ槙に会ったの』
私が爪信号でそう言うと、たまは首を捻った。『それがなあ。俺もよく覚えてないんだ。多分、俺が仔犬の頃に一度会ったっきり程度だったんだろう』
まあそれはいい、と話を逸らす。『そろそろ、前言った嘘を撤回してもいい頃だ』
『何の話』『三ヶ月ほど前に真美はここに戻ってきた。それは俺が真美を見つけたからだったよな』『うん』『俺がお母さんに捨てられてた理由は分からないって、そのとき言ったよな。あれは嘘だ』
たまは重々しく爪を立てた。
『お母さんは俺を捨てたかったんじゃないんだ』
どくん、と心臓が波打つ。
『どういうこと』
たまが私の目を見つめた。本当に話してもいいのか、後悔しないか、という顔付きだ。
私は無言で頷いた。
『お母さんは真美を捨てたかったんだ』
激しく揺さぶられて、頭の中で何かが崩れ落ちた気がした。そんな馬鹿な、という、不信を期待する、信じたくないという気持ちが先行した。
その時、私はまた一つ記憶を取り戻した。それは、私の部屋で弟と母が言い合っている風景。
『これだよ!!』
『いや違うわ、これよ! 真美は絶対こっち!!』
カラフルな包装紙に包まれた箱を押し合い、弟と母は睨み合っている。
『もう二人とも、そんなのは別にどっちでもいいでしょ?』
『ダメだよ!! これは曲げちゃいけないところなんだ!!』『同感だわ』
二人の間に飛び散る火花が空を切った。
早打ちのガンマンのようなスピードで弟は箱を突きつけた。
『お姉ちゃんはイルカが好みなんだ!!』
『いーえ』母はちっちっ、と指を振った。『てんで分かってないわ。生まれた時から真美を見てきたお母さんの方が真美の好みには詳しいの。まだ十年しか真美を見てない圭介とは勝負にならないわ』
母も自分の持っていた箱を突きつけた。『真美はキリン。この一択よ』
『私はどっちでもいいってば』『『よくないっ!!』』と二人。
『イルカの方がいい感じで眠れるに決まってるよ!!』『キリン以外有り得ないわ。首が長いから抱き枕にもなるし、汎用性グンバツなのよ』『グンバツって死語だから!!』『そうね、死語ね。だけど今それは関係ないでしょ? 真美に合うのはどっちかって話をしてるんでしょ? キリン真美とイルカ真美、どっちの方がいいやすいと思う?』『キリンお姉ちゃんとイルカお姉ちゃんなら、イルカお姉ちゃんの方がキレイな感じがするよ!!』
『もう二人ともいい加減にしてっ!!』
しん、と部屋が静まり返った。『私は貰えるだけで嬉しいからさ、喧嘩しないで』
母と弟は目を大きく見開いてお互いを見やった。破顔一笑。『そうだね』『そうね』と楽しそうにケタケタと高笑いしながらお腹を押さえている。
『じゃあ、いっせーのーせ』と母。『真美』弟は大きく息を吸い込み、『お姉ちゃん』母と一緒に同じ言葉を口に出した。
『ハッピーバースディ!!』
『真美が出ていく前は、皆仲が良かった。お父さんが仏頂面なのは変わらないが、真美のことは皆大好きだった』
記憶の中の母と弟と父を思い出す。母と弟は私の誕生日を祝い、父は槙を火縄銃で追っ払ってくれた。父に至っては、愛と言うには危な過ぎる気がしたけれど。
『だけど真美がいなくなって家族は変わった。圭介は真美が不必要な存在だと言い両親に反発し、お父さんは真美のことを忘れようとして狩りをやめ、お母さんは真美のいた頃を忘れることが出来ず、元のまま、真美がいた頃のままの真美の部屋を見て次第に耐えられなくなり、その部屋の全てを捨てた。筆記用具や雑誌や、写真に服にぬいぐるみまで、この部屋のものに留まらず、真美に関するものは全て捨てた』
その全てという中に、たまが入っていたんだろう。
『それが、真美がいなくなってからの鵜飼家だ。二年間の空白だ』
空白。確かにたま達にとってはそうだったんだろう。私がいなくなってからこの家がどれほどまでに荒れ果てた様子だったのか想像すると、ひどく罪悪感に苛まれた。
「この家に、私の帰る場所なんて、無かった」
私はゆっくりと立ち上がると、窓の木縁に翼を置いた。今日も夕日が沈んで行く。私がこの家に帰ってきてから三ヶ月、私は一体何をしたのだろう。沈み行く夕日は着実に稜線へと歩み寄っている。毎日のようにこの風景を見つめていた私の変わったことと言えば、やっと言葉が話せるようになった程度。結局、私に羽が生えた理由も、記憶を無くした理由も、私がこの場所を出ていった理由も何一つ分かっていない。
何も分かっていない。
何も変わっていない。
私は、何も知らない。
『どうした真美』
たまが心配そうに私を見上げ、眩しそうに目を細めていた。私はたまを、母が夕飯に呼ぶまでずっと、撫で続けた。たまはじっと撫でられていた。