第十一羽 「樋川高校」
母は翔んで逃げた私を責めることなく、それどころか心配して迎え入れてくれた。
「鎮静剤よ、真美」
そう言って母は私に温い水と二つの錠剤を渡した。片方は緑色、もう片方は紫色で、とてもではないが生物が食べてもいいような食物の持つ色では無いように思えた。ショッキング色、と言うのだろうか。
私は目を瞑って水と共に錠剤を口にした。私がそれを飲み込むまで、母は不安そうにしていたが、飲み込んだことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。何がそんなに不安だったのだろう。
途端、私の頭痛が治まった。
◇◆◇◆
次の日もその次の日も、珠緒は家にやって来ては私に言葉を教えた。
「ウカイ……マミ」
「よし、これでま行も完璧だね!あとは最後の追い上げ!頑張るよ〜真美!はい、単語練習〜!」
例のごとく単語練習をする。私はこの二日で、あ行、か行に加えてた行、ま行、ば行も習得していた。いや、思い出した、と言うべきなのだろうか。
「ところで真美、記憶、少しは戻った?」
珠緒は私の顔色を心配そうに窺った。
この二日の間に、私は少し記憶を取り戻していた。私は、拙い言葉で珠緒にそれを説明した。
「ア……マエ、ト……コウコウ」
「名前と高校?自分の名前と、高校のこと、思い出したの?」
私は頷く。私の記憶に依れば、私は鵜飼真美という名でこの家に住み、樋川高校へと通っていたのだ。そこで私は、高校二年の夏、テニス部の部長に抜擢されたのだ。
記憶は、そこまでで途切れていた。
「そっか」
珠緒は嬉しそうに笑った。
◇◆◇◆
それから二ヶ月。私は、樋川高校を訪れた。母とともに。二ヶ月間の修行で、私はやっと言葉を自在に操れるようになっていた。少しどもることもあるけれど、日常の会話に支障を来すほどではない。
私達は、高校の頃に世話になった担任の先生と会った。まだ何も思い出せていないから、この人が本当に私の担任だったのかどうかは分からない。
担任の先生は、私の腕を見た途端、私から目を逸らした。視線は私に向いていても、心はもう私に向いていない。
その先生と話し終え、私達はテニスコートへ向かうことにした。高校時代にテニス部だっのだから、テニスコートに行けば何か思い出すかもしれないという母の提案だった。
「真美、部長だったのよ」
母はそう言って微笑んだ。本当なのだろうか。だとしたら、純粋な人間だったころの私は、よっぽどテニスがうまかったのだろう。
テニスコートが視界に入る。その瞬間、私の頭がズキッと傷み、一つの記憶が蘇った。それは、テニスコートに立つ人間の頃の私の姿。
『馬鹿!そうじゃないでしょ!もっと足使って!』
テニスラケットを持った私がガットを叩く。見たことのない男子が地面に倒れ込んだ。
『勘弁してくれ、俺にはこれが限界だ』
はぁはぁと息を荒げながら私を見上げる男子。
『運んでくれ、君のスイートホームへ』
『キモいよ、槙』
『いいだろう、好き好き同士恥じることはないじゃあないか』
『世間体があるから』
『俺達の前では無意味だ、そんなもの』
『ホント馬鹿だね』
『君のためなら馬鹿にでもなろう』
『…………馬鹿』
私はその男子の腕を掴んで立たせた。
『ほら行くよ保健室』
私が肩を貸す。
『このまま極楽へ行けそうな気がする』
『極楽までぶっ飛ばしてあげよっか?』
『遠慮しておこう、真美なら地獄に飛ばしそうだからな』
私は男子を小突き、どこかへと共に歩いていった。
「…………真美?どうしたの?」
母がベンチに座り私を呼んでいた。我に返った私は、ベンチに座った。
今のは私の記憶なのだろうか。人間の頃の私は、あんな性格だったのか。それに、あの男は何者なんだろう。弟でもないし玉置でもない。槙と呼んでいた気がする。私と彼は、どういった関係だったのだろう。
「マキ……って、知ってる」
「マキ?」突然の質問に驚き、母は目をしばたたかせた。「マキ……うーん、マキ…………。…………あっ」
何かに気付いたんだろう、母は咄嗟に口を塞いだ。「思い……出したの?」
「ウン」
母はひどく何かを躊躇している様子だ。そんなに私に槙のことを話したくないのだろうか。
「最後まで思い出したの?」
神妙な顔つきで母は言った。質問の意図が読めない。
「サイゴ……」何の事だろうか。
「彼は二年前に死んだのよ、真美」
鈍器で打ち付けられたような痛みが頭を襲った。二年前というと、私が失踪した年だ。
「真美とつきあっていたみたいだったけど、まさか自殺するなんて」
自殺。
私はなぜかその言葉に、鋭い違和感を覚えた。もしかしたら、彼は本当は自殺じゃなかったんじゃないだろうか。別の理由が彼の死にはあって、それを私だけが知っているんじゃないだろうか。そして現実から逃避するために、私は鳥の翼を得た。そう考えられた。