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緋色の絨毯

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/14

 1885年、ロンドン。


 私——エマ・グレイは、メイドとして雇われた。


 勤め先は、外務大臣サー・ウィリアム・ハートレイ卿の屋敷。メイフェアの一等地に建つ、五階建ての豪邸だった。


 私は孤児院出身で、教育も碌に受けていない。履歴書には「読み書きは多少」と書いた。嘘だった。私はフランス語、ドイツ語、ロシア語を流暢に話せる。だが、それを知られてはいけない。


 なぜなら、私の本当の任務は——金庫の中の極秘書簡を盗み出すことだったから。



 孤児院から這い上がって、ようやくメイドの職を得た。それだけでも奇跡だった。


 でも、本当の奇跡は、採用面接の三日前に起きた。


 テムズ川沿いの薄暗い酒場で、一人の男が私に近づいてきた。


「君は、エマ・グレイだね」


 見知らぬ男。だが、その目は鋭かった。


「英国諜報部の者だ。君に、仕事を依頼したい」


 私は笑った。


「私なんかに? ただのメイド志望ですよ」


「だからこそだ」


 男は封筒を差し出した。


「ハートレイ卿の屋敷でメイドとして働き、彼の金庫にある書簡を盗んでほしい。成功報酬は五百ポンド。そして——」


 男は声を潜めた。


「君を、正式な諜報員として採用する」


 五百ポンド。それは、メイドが一生かかっても稼げない額だった。


 そして、諜報員。それは、孤児院育ちの私が決して到達できない、階層の向こう側。


「なぜ、私を?」


「君が孤児院で、数ヶ国語を独学したと聞いた。そして、誰にも知られず生きてきた。完璧な『透明人間』だ」


 私は、封筒を受け取った。


 これが、私の人生を変える機会だった。


 ハートレイ卿の屋敷で働き始めて二週間。


 私は完璧な「無能なメイド」を演じた。


 皿を割り、掃除を手抜きし、いつもおどおどしている。他のメイドたちは私を馬鹿にし、執事は呆れていた。


 でも、それでよかった。誰も、私に注意を払わなくなった。


 夜、大臣が書斎にいる時、私は廊下で掃除をした。


 そして、聞いた。


 書斎の中から漏れる会話。フランス語で。


「アフガニスタンでの作戦は、予定通りに進んでいる。ロシアに気づかれる前に、国境を越える」


 極秘の軍事作戦だった。もし失敗すれば、英露戦争が勃発する。


 その詳細が、書斎の金庫に保管されている。


 十二月十五日の夜。大臣は晩餐会で不在だった。


 私は書斎に忍び込んだ。


 金庫は、暖炉の横の壁に埋め込まれていた。ダイヤル式の鍵。


 私は耳を澄ました。カチ、カチ、カチ。回転する音を聞き分ける。


 三分後、金庫が開いた。


 中には、赤い封蝋の書簡が数通。


 一番上の封筒を取り出そうとした時——


 背後で、声がした。


「そこで何をしている」


 振り返ると、大臣が立っていた。


 晩餐会は中止になったらしい。予定外だった。


「これは……」


 私は震えるメイドを演じた。


「掃除を……暖炉の灰を……」


「嘘をつくな」


 大臣が近づいてくる。


「お前、金庫を開けただろう。なぜだ? 誰の指示だ?」


 私は観念した。


 もう、演技は無意味だった。


「英国諜報部です」


 私は姿勢を正し、流暢な英語で答えた。愚鈍なメイドの訛りは消えていた。


「あなたの書簡は、戦争を引き起こす可能性がある。それを阻止するために、証拠が必要なんです」


 大臣の顔が歪んだ。


「諜報部だと? 私を監視していたのか?」


「ええ。あなたは、議会に無断で軍事作戦を——」


 その時、窓ガラスが割れた。


 何かが飛び込んできた。


 いや——誰かが。


 黒い服を着た男。顔は覆面で隠れている。


 男は、素早く大臣に近づき——


 ナイフを、大臣の背中に突き立てた。


 大臣が倒れた。


 赤い血が、ペルシャ絨毯に広がっていく。


 男は、金庫から書簡をすべて奪い取った。


 そして、私を見た。


「お前も、消す」


 男が、ナイフを振りかざした。


 その時——


「エマ、伏せろ!」


 声と共に、銃声が響いた。


 黒い男が倒れた。


 扉の向こうから、執事が入ってきた。いや、執事の服を着た——


「ベイカーさん!」


 諜報部の男だった。最初に私に任務を与えた男。


「間に合ってよかった」


 ベイカーは、倒れた男の覆面を剥いだ。


 その顔を見て、私は息を呑んだ。


 大臣の秘書官、トマス・リードだった。


「なぜ……」


「リードはロシアのスパイだった」


 ベイカーは、金庫の中を確認した。


「彼は、書簡を盗んでロシアに渡すつもりだった。だが、大臣が邪魔だった。だから——」


 大臣が、弱々しい声で言った。


「エマ……君は……諜報部の……」


「ええ」


 私は大臣の側に跪いた。


「あなたを監視していました。でも、命を狙ったのは私じゃない」


「分かって……いる……」


 大臣は、私の手を握った。


「書簡を……守れ……戦争を……止めろ……」


「大臣!」


 だが、大臣の手から力が抜けた。


 ウィリアム・ハートレイ卿は、自分の書斎で息を引き取った。


 彼は、自分の野心的な計画が戦争を引き起こすことに、最後の瞬間、気づいたのかもしれない。


 そして、それを止めるために——私に託した。


 翌朝、警察が来た。


 スコットランドヤードの警部、マクラウド。


 彼は厳しい目で、現場を調べた。


「つまり、こういうことか。秘書官リードが大臣を刺殺し、メイドのエマを殺そうとしたところを、執事のベイカーが射殺した」


「その通りです」


 ベイカーが答えた。


「しかし、不可解な点がある」


 マクラウドは、絨毯を指差した。


「血痕のパターンだ。大臣の血は、この絨毯の上に広がっている。だが——」


 彼は、暖炉の方を見た。


「リードの血は、暖炉の近くだ。つまり、リードは暖炉の前にいた時に撃たれた」


「それが何か?」


「リードが大臣を刺したのなら、リードは大臣の近く、つまり絨毯の上にいたはずだ。だが、暖炉の前にいた」


 ベイカーの顔が強張った。


「それは……」


「つまり、こういうことではないか」


 マクラウドは、私を見た。


「君が、金庫を開けていた。リードが入ってきた。リードが君を襲おうとした。ベイカーが撃った。その後、誰かが——大臣を刺した」


 沈黙。


「誰が大臣を殺したのか、エマ・グレイ」


 私は、深呼吸をした。


「警部、あなたは賢い。でも、一つだけ間違っている」


「何だ?」


「大臣を刺したのは——大臣自身です」


 マクラウドの目が見開いた。


「何を——」


「正確には、リードが大臣を刺したのは本当です。でも、それは暖炉の前でした」


 私は、絨毯を指差した。


「この絨毯は、移動されているんです。よく見てください。暖炉の前に、わずかな血痕がある。それを隠すために、この絨毯が引きずられて、血痕の上に置かれた」


 ベイカーが、険しい顔で私を見た。


「エマ、何を——」


「ベイカーさん、あなたが移動させたんでしょう?」


 私は、ベイカーを見つめた。


「あなたは、リードを撃った後、大臣がまだ息があることに気づいた。大臣は、あなたに何かを言った。そして——自分でナイフを抜き、絨毯の上まで這って行って、そこで息絶えた」


「なぜ、そんなことを……」


「大臣は、秘書官に刺されたという筋書きを作りたかったんです。もし暖炉の前で死ねば、金庫の秘密が暴露される。でも、絨毯の上で死ねば、ただの刺殺事件として処理される」


 マクラウドが唸った。


「つまり、大臣は自分の秘密を守るために、最後の力を振り絞って移動した……」


「そして、ベイカーさんがその意図を汲んで、絨毯を移動させて証拠を隠した」


 ベイカーは、長い沈黙の後、頷いた。


「……その通りだ」


 事件は、「秘書官による大臣刺殺事件」として処理された。


 リードがロシアのスパイであったこと、大臣が極秘の軍事作戦を進めていたことは、すべて機密扱いになった。


 そして、私——エマ・グレイは、正式に英国諜報部の職員として採用された。


 クリスマスの朝、ベイカーが私を呼んだ。


 ホワイトホールの地下にある、諜報部の本部。


「おめでとう、エマ。君は、正式にエージェントだ」


 彼は、小さな革のケースを差し出した。


 中には、金色のバッジ。そして、身分証明書。


『英国諜報部 特別工作員 エマ・グレイ』


「これが、君の新しいアイデンティティだ」


 私は、バッジを手に取った。


 孤児院で育ち、誰からも顧みられなかった少女。


 それが今、女王陛下の諜報員として、国家の秘密を守る存在になった。


 階層の最下層から、影の世界の住人へ。


 不可逆的な跳躍だった。


「君の最初の功績は、戦争を防いだことだ」


 ベイカーが続けた。


「ハートレイ卿の書簡は、破棄された。アフガニスタンでの作戦は中止になった。ロシアとの戦争は、回避された」


「でも、大臣は死にました」


「ああ。彼は、自分の野心の代償を払った。そして、その犠牲によって、何千人もの命が救われた」


 私は、窓の外を見た。


 ロンドンの街。霧に包まれた、この巨大な都市。


 ここには、無数の秘密がある。そして、それを守る者たちが、影で動いている。


 私も、その一人になった。


「次の任務は?」


「ベルリンだ。ドイツ帝国の外務省に、二重スパイがいる。君に、その正体を暴いてほしい」


「分かりました」


 私は、バッジを胸に付けた。


 メイドの服は、もう着ない。


 今日から、私はエマ・グレイ。


 女王陛下の諜報員。


 暖炉の前で命を落とした大臣。


 彼の犠牲が、私にこの道を開いてくれた。


 そして、私はその道を、全力で歩く。


 影の中で、国を守るために。




 ハートレイ卿の屋敷は、売却された。


 書斎の絨毯も、暖炉も、すべて撤去された。


 でも、私は覚えている。


 あの夜、絨毯の上に広がった赤い血を。


 暖炉の前で倒れた男を。


 そして、金庫の中にあった、戦争を引き起こす書簡を。


 それらすべてが、今の私を作った。


 孤児院の少女は、死んだ。


 諜報員エマ・グレイが、生まれた。


 ロンドンの霧の中、私は歩き続ける。


 次の任務へ。次の秘密へ。


 影の中で、女王陛下のために。


(了)

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