緋色の絨毯
1885年、ロンドン。
私——エマ・グレイは、メイドとして雇われた。
勤め先は、外務大臣サー・ウィリアム・ハートレイ卿の屋敷。メイフェアの一等地に建つ、五階建ての豪邸だった。
私は孤児院出身で、教育も碌に受けていない。履歴書には「読み書きは多少」と書いた。嘘だった。私はフランス語、ドイツ語、ロシア語を流暢に話せる。だが、それを知られてはいけない。
なぜなら、私の本当の任務は——金庫の中の極秘書簡を盗み出すことだったから。
孤児院から這い上がって、ようやくメイドの職を得た。それだけでも奇跡だった。
でも、本当の奇跡は、採用面接の三日前に起きた。
テムズ川沿いの薄暗い酒場で、一人の男が私に近づいてきた。
「君は、エマ・グレイだね」
見知らぬ男。だが、その目は鋭かった。
「英国諜報部の者だ。君に、仕事を依頼したい」
私は笑った。
「私なんかに? ただのメイド志望ですよ」
「だからこそだ」
男は封筒を差し出した。
「ハートレイ卿の屋敷でメイドとして働き、彼の金庫にある書簡を盗んでほしい。成功報酬は五百ポンド。そして——」
男は声を潜めた。
「君を、正式な諜報員として採用する」
五百ポンド。それは、メイドが一生かかっても稼げない額だった。
そして、諜報員。それは、孤児院育ちの私が決して到達できない、階層の向こう側。
「なぜ、私を?」
「君が孤児院で、数ヶ国語を独学したと聞いた。そして、誰にも知られず生きてきた。完璧な『透明人間』だ」
私は、封筒を受け取った。
これが、私の人生を変える機会だった。
ハートレイ卿の屋敷で働き始めて二週間。
私は完璧な「無能なメイド」を演じた。
皿を割り、掃除を手抜きし、いつもおどおどしている。他のメイドたちは私を馬鹿にし、執事は呆れていた。
でも、それでよかった。誰も、私に注意を払わなくなった。
夜、大臣が書斎にいる時、私は廊下で掃除をした。
そして、聞いた。
書斎の中から漏れる会話。フランス語で。
「アフガニスタンでの作戦は、予定通りに進んでいる。ロシアに気づかれる前に、国境を越える」
極秘の軍事作戦だった。もし失敗すれば、英露戦争が勃発する。
その詳細が、書斎の金庫に保管されている。
十二月十五日の夜。大臣は晩餐会で不在だった。
私は書斎に忍び込んだ。
金庫は、暖炉の横の壁に埋め込まれていた。ダイヤル式の鍵。
私は耳を澄ました。カチ、カチ、カチ。回転する音を聞き分ける。
三分後、金庫が開いた。
中には、赤い封蝋の書簡が数通。
一番上の封筒を取り出そうとした時——
背後で、声がした。
「そこで何をしている」
振り返ると、大臣が立っていた。
晩餐会は中止になったらしい。予定外だった。
「これは……」
私は震えるメイドを演じた。
「掃除を……暖炉の灰を……」
「嘘をつくな」
大臣が近づいてくる。
「お前、金庫を開けただろう。なぜだ? 誰の指示だ?」
私は観念した。
もう、演技は無意味だった。
「英国諜報部です」
私は姿勢を正し、流暢な英語で答えた。愚鈍なメイドの訛りは消えていた。
「あなたの書簡は、戦争を引き起こす可能性がある。それを阻止するために、証拠が必要なんです」
大臣の顔が歪んだ。
「諜報部だと? 私を監視していたのか?」
「ええ。あなたは、議会に無断で軍事作戦を——」
その時、窓ガラスが割れた。
何かが飛び込んできた。
いや——誰かが。
黒い服を着た男。顔は覆面で隠れている。
男は、素早く大臣に近づき——
ナイフを、大臣の背中に突き立てた。
大臣が倒れた。
赤い血が、ペルシャ絨毯に広がっていく。
男は、金庫から書簡をすべて奪い取った。
そして、私を見た。
「お前も、消す」
男が、ナイフを振りかざした。
その時——
「エマ、伏せろ!」
声と共に、銃声が響いた。
黒い男が倒れた。
扉の向こうから、執事が入ってきた。いや、執事の服を着た——
「ベイカーさん!」
諜報部の男だった。最初に私に任務を与えた男。
「間に合ってよかった」
ベイカーは、倒れた男の覆面を剥いだ。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
大臣の秘書官、トマス・リードだった。
「なぜ……」
「リードはロシアのスパイだった」
ベイカーは、金庫の中を確認した。
「彼は、書簡を盗んでロシアに渡すつもりだった。だが、大臣が邪魔だった。だから——」
大臣が、弱々しい声で言った。
「エマ……君は……諜報部の……」
「ええ」
私は大臣の側に跪いた。
「あなたを監視していました。でも、命を狙ったのは私じゃない」
「分かって……いる……」
大臣は、私の手を握った。
「書簡を……守れ……戦争を……止めろ……」
「大臣!」
だが、大臣の手から力が抜けた。
ウィリアム・ハートレイ卿は、自分の書斎で息を引き取った。
彼は、自分の野心的な計画が戦争を引き起こすことに、最後の瞬間、気づいたのかもしれない。
そして、それを止めるために——私に託した。
翌朝、警察が来た。
スコットランドヤードの警部、マクラウド。
彼は厳しい目で、現場を調べた。
「つまり、こういうことか。秘書官リードが大臣を刺殺し、メイドのエマを殺そうとしたところを、執事のベイカーが射殺した」
「その通りです」
ベイカーが答えた。
「しかし、不可解な点がある」
マクラウドは、絨毯を指差した。
「血痕のパターンだ。大臣の血は、この絨毯の上に広がっている。だが——」
彼は、暖炉の方を見た。
「リードの血は、暖炉の近くだ。つまり、リードは暖炉の前にいた時に撃たれた」
「それが何か?」
「リードが大臣を刺したのなら、リードは大臣の近く、つまり絨毯の上にいたはずだ。だが、暖炉の前にいた」
ベイカーの顔が強張った。
「それは……」
「つまり、こういうことではないか」
マクラウドは、私を見た。
「君が、金庫を開けていた。リードが入ってきた。リードが君を襲おうとした。ベイカーが撃った。その後、誰かが——大臣を刺した」
沈黙。
「誰が大臣を殺したのか、エマ・グレイ」
私は、深呼吸をした。
「警部、あなたは賢い。でも、一つだけ間違っている」
「何だ?」
「大臣を刺したのは——大臣自身です」
マクラウドの目が見開いた。
「何を——」
「正確には、リードが大臣を刺したのは本当です。でも、それは暖炉の前でした」
私は、絨毯を指差した。
「この絨毯は、移動されているんです。よく見てください。暖炉の前に、わずかな血痕がある。それを隠すために、この絨毯が引きずられて、血痕の上に置かれた」
ベイカーが、険しい顔で私を見た。
「エマ、何を——」
「ベイカーさん、あなたが移動させたんでしょう?」
私は、ベイカーを見つめた。
「あなたは、リードを撃った後、大臣がまだ息があることに気づいた。大臣は、あなたに何かを言った。そして——自分でナイフを抜き、絨毯の上まで這って行って、そこで息絶えた」
「なぜ、そんなことを……」
「大臣は、秘書官に刺されたという筋書きを作りたかったんです。もし暖炉の前で死ねば、金庫の秘密が暴露される。でも、絨毯の上で死ねば、ただの刺殺事件として処理される」
マクラウドが唸った。
「つまり、大臣は自分の秘密を守るために、最後の力を振り絞って移動した……」
「そして、ベイカーさんがその意図を汲んで、絨毯を移動させて証拠を隠した」
ベイカーは、長い沈黙の後、頷いた。
「……その通りだ」
事件は、「秘書官による大臣刺殺事件」として処理された。
リードがロシアのスパイであったこと、大臣が極秘の軍事作戦を進めていたことは、すべて機密扱いになった。
そして、私——エマ・グレイは、正式に英国諜報部の職員として採用された。
クリスマスの朝、ベイカーが私を呼んだ。
ホワイトホールの地下にある、諜報部の本部。
「おめでとう、エマ。君は、正式にエージェントだ」
彼は、小さな革のケースを差し出した。
中には、金色のバッジ。そして、身分証明書。
『英国諜報部 特別工作員 エマ・グレイ』
「これが、君の新しいアイデンティティだ」
私は、バッジを手に取った。
孤児院で育ち、誰からも顧みられなかった少女。
それが今、女王陛下の諜報員として、国家の秘密を守る存在になった。
階層の最下層から、影の世界の住人へ。
不可逆的な跳躍だった。
「君の最初の功績は、戦争を防いだことだ」
ベイカーが続けた。
「ハートレイ卿の書簡は、破棄された。アフガニスタンでの作戦は中止になった。ロシアとの戦争は、回避された」
「でも、大臣は死にました」
「ああ。彼は、自分の野心の代償を払った。そして、その犠牲によって、何千人もの命が救われた」
私は、窓の外を見た。
ロンドンの街。霧に包まれた、この巨大な都市。
ここには、無数の秘密がある。そして、それを守る者たちが、影で動いている。
私も、その一人になった。
「次の任務は?」
「ベルリンだ。ドイツ帝国の外務省に、二重スパイがいる。君に、その正体を暴いてほしい」
「分かりました」
私は、バッジを胸に付けた。
メイドの服は、もう着ない。
今日から、私はエマ・グレイ。
女王陛下の諜報員。
暖炉の前で命を落とした大臣。
彼の犠牲が、私にこの道を開いてくれた。
そして、私はその道を、全力で歩く。
影の中で、国を守るために。
ハートレイ卿の屋敷は、売却された。
書斎の絨毯も、暖炉も、すべて撤去された。
でも、私は覚えている。
あの夜、絨毯の上に広がった赤い血を。
暖炉の前で倒れた男を。
そして、金庫の中にあった、戦争を引き起こす書簡を。
それらすべてが、今の私を作った。
孤児院の少女は、死んだ。
諜報員エマ・グレイが、生まれた。
ロンドンの霧の中、私は歩き続ける。
次の任務へ。次の秘密へ。
影の中で、女王陛下のために。
(了)




