第2話 聖域のその奥
「やぁ、おかえり」
シグラズルの領地、その山の頂きに近い聖域の入り口に男が立っていた。
そこへ降り立ったのは、黒いフード付きマントの小柄な影。
「……」
「顔、見ていかないのかい?」
「……どうして」
「喜ぶと思うよ」
男は、洞窟の中へは入らず立ち尽くす影に問いかけた。
影が反応すると、男は迷わずそれに笑顔で返した。
「それは……」
小さな影は、何かを言おうとして、しかし口を噤んだ。
「そろそろ、起きてもいいと思わないかい?君の顔を、声を聞けば。
寝坊助も、起きるかも知れないと思わないかい?」
男の軽口に、影は眉を潜めただけだった。
少しの沈黙、冷たい山頂の風がフードを撫でて外していった。
露になった顔は光に照らされてか、苦悶に歪んでいた。
「……行きたいところがあるなら、行けばいい」
「ないねー。暇出されちゃってさ。ここに居るしかないんだよ。ま、ケジメだね……君と同じさ」
男の軽口は減らないらしい。
「だからさ、僕の話し相手になってよ?」
「……」
フードを深く被りなおし、影は山を降りていった。
それを見送った男ーーエイン・ラードルは、そっと嘆息した。
シグラズル公爵の腹心であり、時に師匠と呼ばれた男。遠い昔には、エイン兄様と、影がまだ幼い女の子だった時に、呼ばれたこともあった。
男は時々、影に話しかけた。
話し相手が欲しいと思ってのことではない、俗世のこともあの影のことも、鳥がエインに全てを教えてくれるからだ。
だから、時々話しかけ、時々話しかけない日もある。今となっては、ただの気分だ。
二年半前、目覚めたティールは、隣を見て涙を流した。
けれど、一度出てきて以来、ティールが聖域の奥へ行くことは無かった。
依頼が終わると、聖域に顔を出す。
様子を探って気が済めば、また依頼へ赴く。その繰り返し。
暇を出されてから、あの日、先に行かせず一緒に行っていればと、エインは考えたことがある。
けれど、過ぎた過去は過去でしかなかった。
選ばなかった未来を、もしもと仮定するほど自分は若くない。
自分を取り巻く上位種たちは、人の世に紛れながらも気持ちのままに動く。さながら自然災害のように。
それを人の社会に繋ぎ止めるのもまた、自分の役目のように思う。
部下として国として、彼らが人の世に留まるうちは居場所を残す。
それが幸か不幸かは関係がない。
だから、エインはあの日の選択に後悔はない。
ティールがエインを責めるなら、受け入れよう。けれど、彼女はしなかった。
「笑顔、とっちゃったなー…」
聖域の奥、眠るもう一人が起きる様子は無い。
命の峠は越えて、ただ眠るように時が過ぎかなり経つ。
あの日その身に宿った不安定な力は、かなり安定を見せていた。
エインは鑑定眼で、その経過をただ見守っていた。
「起きたら、命を粗末にするなって、教えないとねー」




