59話 愛を乞いていれば
ヴィクトルはこれ以上近寄れないならと、ティールの正面に片膝をついた。
彼女はそれにもビクリと肩を震わせたが、動かなかった。
「なにもしないよ。ただ、久しぶりに会ったから、顔がよく見たかったんだ」
そう優しくヴィクトルが微笑んで見上げれば、彼女は静かに目を反らした。
それはまるで、怯える子どものようだった。
「……伝えたいことは、あったはずなのに。難しいな。何を言えば良いんだろうか」
ヴィクトルが話す度に、ビクリと肩を震わす彼女。
けれど足は動かない。足枷があったとして、それは不自然だとヴィクトルは、ティールを注視して考える。
そこまで怖がれば、顔を反らしたり、後ずさりや屈むなど、他にも挙動に現れるものだろう。
ーーそこまで怖がらせるつもりは、ないのだけど。
内心泣きたい気持ちを抑え、ヴィクトルは考えた。
「ねえ。ティール」
ーー抑えて。努めて冷静に。ただ、聞くだけだ。
『私の愛しい人。少しの間、頑張れますか?
』
思い出したくもない、男のさっきの言葉を反芻する。
「ティール。怖かったら、逃げて良いんだよ?」
ゆっくりと立ち上がり、けれど少し屈んでティールと同じ身長になるように、ヴィクトルは目線を合わせた。
「この手で、その首の傷に触れるだけ、だから。嫌だったら、怖かったら、拒絶してくれて良い」
言葉を短く切って、静かな怒りは感情を隠してヴィクトルは、あえて揺さぶるように言う。
「……」
ティールは、瞬きをしない。先ほどから表情を変えていない。異常なほどに。
動くのは瞼のなかにあるその目だけ。揺れる瞳は濡れている。
ティールに声をかけ、時間をかけて、念のためにと彼女をずっと観察する。
ヴィクトルの金の瞳は、魔力が巡り僅かに虹色をまとい発光していた。
ティールの内面、魔力の流れを見る。
彼女の身につける物、奇妙な点が無いか慎重に。
師匠の鑑定眼は固有魔法、ほぼ生まれつきで再現は不可能。
けれど、子供の真似事レベルなら他人でも出来ると、本人は言いきった。
まだ早いと、しごかれた時代には教えてもらえなかった。
けれどこの三日、扱えるようになれと手解きをヴィクトルは受けた。
『大丈夫。貴女が動かなければ、なにも怖いことはないですよ』
「ティール。君が動いても、怖いことは起こらない」
男が即物的な物に頼らない、という師匠の見立て。
そしてまだ覚束ない自分の"観察眼"での見立て。
それらを信じて、虫酸の走る男の言葉を真っ向から否定する。
怖れるティールの首の、その瘡蓋に覆われた傷に、ヴィクトルはそっと指先で触れた。
「……ほら、怖くないよ。傷は痛む?」
触れたその温もりにホッと肩の力を抜いた。
万が一は、あるかもしれないと思っていたから。
目はそのままを維持して、彼女を見続ける。
耳はピクピクと氷の向こう、その音を拾う。まだ、大丈夫。
パタリ。彼女の頬に涙が伝う。けれど自分はまだ触れない。彼女が動かないからだ。
「痕になるといけないから、治させて」
指先で触れた首筋、そっと魔力を纏わせ傷を癒す。
ーー君の記憶も、癒せたら良いのに。
深く歯を立てて噛まれただろう傷は、跡形もなく消える。
いつ噛まれたのか、痛くはなかったか。
身体の至るところに見える赤い印は、果たして本当に合意の上なのか。
その心と身体は、どこまであの男に傷つけられたのか。
「俺はずっと、ティールのものだと思ってた」
だからこそ、彼女の望みのままに接していた。
自分の望みは、過ぎたものだと思っていた。
番の愛は相手を縛って、時には不幸にしてしまうから。
押しつけてはいけないと、彼女の自由を、と。
「君が上で俺が下。ずっと、それでいいと……」
けれども、師匠は言った。彼女が望んだものは一つだけだったと。
それは。
「上とか下とか、どっちがどっち、じゃなくて。きっと」
それが、番なんだろう。
「俺と君は、同じくらい大切で、同じくらい好きで、他のことがどうでも良いほどに、この想いだけが唯一で、全てだったのかな」
人間に番の概念はなく、本能が強い種にのみ、番への強い想いが現れる。
彼女が人間だと思っていた。だって獣人も、ほぼいない国の公爵令嬢だったのだ。
領地に龍のおとぎ話はあるけれど、おとぎ話だと真に受けなかった。
自分だって上位種のフェンリルだというのに。
彼女は龍の血を継いでいる。それがどれだけ濃いのかは、分からない。
けれども、彼女の中にも番の概念はあった。
自分より先に、ティールはヴィクトルを番と認識した上で助けたのだという。
それはなんて、嬉しく、そして残酷だったのか。
「もっと早く、俺と君は番同士なのだと、愛を乞いていれば。君がこんなに傷つかないで済んだのかな……」
傷の治った首筋に触れた指先、その手に彼女の涙が滴っては落ちた。
魔道具が壊れて、幼子のように泣くティールを何度もあやした。
けれど、微動だにせず、ただ泣く彼女の痛々しい姿は見たことがなかった。
3.5話
26.5話
Side視点をカクヨムにて加筆しています
また最終話、エピローグも公開中です
お嬢様、私に拾わせていただけませんか - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/822139840765447449




