45話 ごめんなさい
『ーー』
微かな声と匂いを感じた気がして、ヴィクトルは師匠の歩く先を見た。
何も見えないはずの彼方。けれども、ふわりと香る彼女の匂い。
その瞳から、一筋の雫が溢れた。
「ーーっ」
途絶えた繋がりが、一瞬、繋がった。
それが錯覚かと思うほど、再び途絶えたと思ったら……。
まるで細い、細い糸のように繋がっていて、少しの風でも切れてしまうような、そんなあるかないかも分からない儚い糸。
それでも繋がっていると、ヴィクトルは感じた。
立ち止まったヴィクトルに気付き、師匠は振り返る。
「ーーああ、"見つかった"かい?」
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと迎えに行きなさい」
師匠が片手を上げた。それを合図に、ヴィクトルは身体強化で疾走する。向かうのは、繋がりの先。
「お嬢様!!」
風になびく薄桃の髪、その後ろ姿を捉え、ヴィクトルは迷わず声を張り上げた。
記憶にある彼女は、朝焼けの青から薄桃へとグラデーションした髪で肩につく長さだった。
髪の長さに違和感はあれど、自分は間違えない。
「ああ。待っていましたよ。……待ちくたびれて。とても、とても有意義な出逢いと時間を、過ごせました。
貴方には、感謝申し上げます」
にこりと笑う嫌なほど耳に心地よく届く声音の男。
しっかりと見れば、彼女の横、肩に腕を回して見せつけるように抱き締めている。
「ーーっ!!」
ブワリとヴィクトルを中心に冷気が爆発する。抑えられない怒りがこみ上げた。
それをあの男にぶつけられたら、どんなに良いか。
あの距離ではお嬢様まで傷つけてしまう。
防御のネックレスがあれば良いが、彼女の状態が分からなくては動けない。
何より、無傷で済むと思っても彼女に向けて、ヴィクトルは攻撃は出来ない。
「お嬢様から離れろっ!」
「嫌ですよ。離したとたん噛みつくのでしょう?ああ、怖い。……それに彼女はもう、私の物ですよ」
くすくすと笑う男が、憎らしい。
腹が立つことはあっても、ここまでの激情をヴィクトルは抱いたことが無い。
「ねえ、"水晶姫"。彼は自分が捨てられたことに気が付いて無いようです。
憐れですね。君が誰の物か……教えてあげてはどうでしょう?」
男はこちらが手を出せないと知って、ティールの肩を抱き寄せたまま無防備に背中を晒し続けている。
そして、ティールの顔を覗くように前へ屈み、その耳元へ話しかけていた。
ーーやめろ。やめろ。やめろ!その人は、お前が触れて良い人じゃないっ!
「はい。リークリ様」
「……お、嬢様」
温度の無い透き通る声。男と共に振り返った彼女は、色の無い瞳で、薄く微笑する。
着ているドレスは、自分が見たこともないもので。
感情を封じられた頃の、"水晶姫"そのままの彼女がそこにいたーー。
目が合っているはずなのに、彼女の瞳に自分が映っていない。
彼女は何も、見ていない。
「ごめんなさいね、私。リークリ様と一緒に行くわ」
頬に手を当て、こてんと首を傾げる彼女の張り付いた微笑は、作り物の人形のそれだった。
「……ティー、ル」
カラカラに乾いた喉。音を振り絞って出せば、なんて頼りない、声。
「……待って……」
そろそろと、ヴィクトルは手を伸ばす。
「ごめんなさい」
彼女は、ただ静かに微笑むだけで。
「行かない、で……」
手を伸ばしても、届かない。こんなに距離があるのだから、当然だ。
では、足は?なぜ彼女の元へ行かないのだ。
相手は丸腰だ。
いつものように彼女の側に駆け寄って、背に庇って、守れば良い。
「私。リークリ様と行くの」
繰り返し言う彼女は、自分ではない別の男の名を紡ぐ。
いつものように、自分の名を呼んで、笑いかけてはくれない。
"ごめんなさい"と他でもない彼女が、自分を否定する。
その隣。彼女の傍らにいる男が、暗く嗤っている。
『狩られるのは一瞬だ。……狙う側には、理由なんて要らねぇぞ』
視界が滲む。彼女の姿が滲んで霞む。
ギルド長の言葉が、耳に甦る。
『あの……今の私、その、実はね。……ちょっと、冒険者になってみたいと思ってたの!』
そう言ったのは、無邪気な彼女自身で。
『あら、許されるかどうかが重要かしら?それを受け取るかどうかは相手が決めることよぉ』
ドリィは、忠告してきていた。
『考えろ。足掻け。節度を守れ。その時の最善を選び続けろ。それが出来ねぇなら、……彼女を帰せ』
ティールが魔力を暴走起こしたあの日、公爵家に、もしくは公爵領に戻っていれば、こんなことにはならなかったのか?
ただのお嬢様と執事だったなら、こんな、ことには……。
「ぁあああああああああ!!!」
ヴィクトルは頭を抱え、咆哮する。
身の内、言い知れない力が暴れまわるのを感じる。
抑えられない激情が溢れ出す。
止められない。止まらないーー。
「どうですか?"番"を奪われるお気持ちは?」
まとわりつくような甘さの声音で、男の声が耳にこびりつく。
『あら探しするヤツはいろいろと探り当てるだろう』
ギルド長の言葉が、自分の咆哮に呑まれて消えたーー。




