44話 堕ちた水晶姫
リークリは立ち上がり、彼女に両手を差し出してその頬を包む。
彼女の顔を上に向かせ、その額にリークリはそっとキスを落とした。
「っ?」
一瞬何をされたのか分からなくて、ティールはぽかんと固まってしまう。
もう、公爵令嬢として振る舞うことも出来なさそうだ。
頬に残る体温と、額に落とされた口づけの熱、初めての戸惑いに、緩んだ心に押し寄せて来たのは疲労と睡魔。
起きているのがやっとだった。
「貴女を手に入れられて、私は幸運だ」
その彼女のとろけた顔に、リークリは愉悦の笑みを浮かべた。
リークリが胸ポケットから小さなベルを取り出し左右に振る。けれど音は鳴らない。
「面白いでしょう?魔道具なんです」
しばらくして、パタパタと足音が近づきやって来た男に、リークリは先ほどの紙を手渡し何かを告げる。
男はそれに異を唱えること無く、部屋を去った。
「貴女の気持ちが変わらないうちに、約束を果たしましょう。
私の元に来てくれる約束ですので、すみません。事後処理にも、そばでお付き合い願いたいのですが、宜しいですか?」
ティールは一瞬、言葉を失った。今なんて?
ああ、でも。
――拒む理由は、もうない……?
約束は守られる。
人は解放され、人攫いは終わる。
王国も帝国も悪いことは、もう起こらない。
それは、ティールがここでずっと望んできた結果だ。
ぼんやりとした思考の中で、思う。
冒険者としての自由な私も、終わりを告げた。
これからは彼の側で過ごせばいい。公爵家よりずっと優しいはずだ。
そう、冒険者に戻れないのなら、どこも同じでしかないはずで。
「……ええ、ええ。事後処理くらい立ち会いますわ」
「ありがとうございます。水晶姫」
冷たい響きだったはずの呼び名が、今はこんなにも温かい。これで、良いんだ。
いつの間に温め直したのか、清拭の温かいタオルを持ったリークリが、ティールの顔を優しく拭う。
「安心してください。貴女が側にいる限り、私もまた貴女の側にいます。
安心で快適な暮らしをお約束しますよ」
ーー私の側に。
その言葉がティールの耳に甘く届く。けれど、ツキンと胸の奥が引っ掛かった。
「お着替えをしましょう。外に出掛けますからね」
とろんと落ちそうになる瞼、それをなんとか保とうとするけれど、難しい。
首筋を拭うタオルのなんと温かいことか、これが、きっと眠りをさそうのだ。
「色々あって疲れましたよね。彼らと話すのは怖かったでしょう。
か弱い女の子が見ず知らずの場所で、気丈に振る舞ったのです。
偉いですよ。……お任せください。これからは、私が責任もって貴女のこと守ります」
ーー私を守る……?それは誰の言葉だったろうか。
リークリではない、"誰か"の声を思い出しかけて、ティール瞼はスッと閉じた。
力が抜け、崩れ落ちた彼女の身体を軽々とリークリは支える。
その横顔は愛おしそうでもあり、堕ちているようでもあった。
◇◆◇◆◇◆◇
ーー堕ちた。
眠る彼女の顔にかかる髪を払いのけ、リークリはほくそ笑む。
そろそろ潮時だと思っていたところに、転がり込んだ上玉。
話を受けた時には、何をバカなと思ったが。
会ってみれば、何でもない、どこにでもいる純粋でまっすぐな女だった。
けれど。
その身に流れる公爵家の龍の血筋と絶対的な魔力量。
貴族としての立場、教養、知識。
帝国中枢に近いギルド支部のコネクション。
……すべてが、計算可能な価値。
そして、穢れを知らぬ、何色にも染められる無垢な心。
血筋、知識、能力、どれを取っても、手に入れる意味がある。
いや、手に入れるだけでは足りない。
彼女の全てを、私のものにして、誰にも触れさせない。
そう思うと、胸の奥が疼き、理性の隙間を黒い熱が這い上がる。
水晶姫ーー貴女は、ただの令嬢ではない。
欲望の対象であり、利用価値であり、独占の対象でもある。
私が側に置く限り、誰も触れさせはしない。
その全てを私の手で守り、私のものにする。
今は、ただそれだけだ。
先ほど聞いた報告では、王国の者達が来ているという。
それらを思いリークリは、にっと笑う。
そしてその綺麗な首筋に噛みついた、がりっと噛めば、僅かに赤が滲む。彼女は僅かに身動ぎしただけで、起きることは無い。
ああ、なんて甘美な味だろう。長い宴が始まろうとしている。




