25話 銀狼、旅立ち
「行ってまいります。お嬢様」
夜明け前の薄暗い室内、眠るティールの頬に、ヴィクトルはそっと触れた。
ーー良かった、熱は下がったみたいですね。
安堵と共に手を離す時、彼女の唇に僅かに滲んだ血の跡を見つける。いつ切ったのか。
「今はまだ、この程度しか癒せないことをお許しください」
頬から唇へとそっと手を添え、覚えたての治癒魔法をかけた。
「お嬢様を、よろしくお願いいたします」
「えぇ、任されたわ」
「それとこれ、……目覚めたお嬢様に預けてくれませんか。お側を離れる許可を得ず、勝手な執事を許してくださるか、分かりませんが」
そう言ってドリィに預けたのは、チェーンを通したシグラズルの家紋が入ったリング。
ヴィクトルが着けていた、黒髪に偽装するための魔道具だった。
「あら、許されるかどうかが重要かしら?それを受け取るかどうかは相手が決めることよぉ」
「そう、ですね」
魔道具は預かるけれど、とドリィは受け取るも話は聞かなかったことにするようだ。
「選んだなら、最後まで。……男でしょう?」
部屋を出るヴィクトルの背に、ドリィは静かに言葉を投げ掛けた。
転移陣のある部屋にヴィクトルは足を向けた。
窓に映るのは、朝日を浴びて煌めく銀髪、服は着なれた執事服、冒険者としての自分を思い出す。
いつもと違うのは、指にはめていたリングがないことだろうか。
リングにあった強化の術式が解け、ずっしりとした重さが身体に戻っていた。不思議と煩わしさはない。
胸の奥にはそれとは別に、ぽっかりと空いた心の隙間を感じさせた。自分の中に何かが足りていない感覚。
それを埋めるように、身体にのしかかる重さが、自分を銀狼として立たせてくれるような気がした。
「やっぱ、そっちの方が馴染みあるな、銀狼」
転移陣でギルド長の執務室にヴィクトルが出れば、ギルド長に出迎えられた。
「……ったく、嬢ちゃんが起きてから、行きゃいいって言ったろ?」
「出掛けづらくなる。それに、早く帰りたい」
依頼を受けたのは昨晩。朝イチで出るのは伝えていなかったのに、二人にはバレバレだったらしい。
「はは。いつもはここに帰ってくることなんてなかったのになー。すっかりここの顔になりやがって」
昨日、ブランデーをかなり飲んでいたとは思えないほど、ギルド長は爽やかに笑った。
「まぁ。待ってるからなー。副ギルド長も連れて帰ってこい」
「いや、それはちょっと。……あの人、足遅いんで」
「お前より速いやつは、そうそう居ねぇよ。なんなら、運んでくれてもいいぞ」
「……」
運ぶのはもっと嫌だ。そう顔に出したら、さらに笑われた。
邸に居た頃は、誰もヴィクトルに関心が無かった。ヴィクトル自身もティール以外に、必要以上の関心を抱かなかった。
帰る場所があり、見送られるというのは、とてもこそばゆいと、ヴィクトルは初めて知ったーー。




