カチカチ山2087 - 灼熱の復讐
## 第一章 崩壊する世界
2087年8月15日、午前4時32分。
東京湾に浮かぶ人工島「ネオ・トーキョー7」が、震度6の地震で激しく揺れた。これは今月に入って3度目の大地震だった。
環境研究所の最上階で、兎山教授は揺れが収まるのを待ちながら、モニターに映し出されたデータを見つめていた。地球の平均気温は産業革命前と比べて4.7度上昇。北極の氷は完全に消失し、南極の氷床も急速に融解している。その結果、地殻にかかる圧力バランスが変化し、世界中で地震活動が活発化していた。
「また揺れたか」
老科学者は疲れたようにつぶやいた。白髪の奥に隠れた瞳には、深い絶望の色が宿っている。
研究室の壁一面には、ここ数年の災害データが表示されていた。カテゴリー6という新設階級のスーパー台風は、今や毎月のように発生している。先月フィリピンを襲った台風「デモリッシャー」は、最大風速95メートルを記録し、マニラ首都圏の半分を壊滅させた。アメリカ東海岸では、ハリケーン「アポカリプス」がニューヨークを水没させ、100万人以上が行方不明となっている。
「兎山先生、朝早くからお疲れ様です」
助手の若い女性研究員、佐藤ユキが温かいコーヒーを持って入ってきた。
「ああ、ユキ君か。君も早いね」
「眠れませんでした。昨夜のニュースを見ましたか? ブラジルで新たな感染症が...」
「知っている」兎山教授は重い口調で答えた。「永久凍土が融けて、古代のウイルスが復活したんだろう。予測していたことだ」
ユキは教授の机の上に広げられた資料を見た。そこには『最終警告:人類存続の臨界点まであと10年』というタイトルが記されていた。
「これは...」
「70年間の研究の集大成だ。しかし、誰も聞く耳を持たない」
その時、研究所のセキュリティアラームが鳴り響いた。エレベーターから数人の男たちが現れる。先頭を歩くのは、高級スーツに身を包んだ恰幅の良い中年男性だった。
「兎山先生、お久しぶりです」
田貫慎一郎。タヌキ・コーポレーションのCEOにして、世界最大の化石燃料企業連合の実質的な支配者。彼の顔には、相手を見下すような薄笑いが浮かんでいた。
「田貫...なぜここに」
「理事会の決定をお伝えに来ました。残念ながら、先生の研究所は今月末で閉鎖となります」
ユキが息を呑んだ。「そんな! 私たちの研究は人類の未来にとって——」
「お嬢さん」田貫は冷たい視線をユキに向けた。「現実を見なさい。我々のビジネスは世界経済の根幹です。今更化石燃料を止められると思いますか?」
兎山教授は立ち上がった。その手は怒りで震えていた。
「君は分かっているのか? このままでは10年以内に——」
「10年?」田貫は嘲笑した。「先生は30年前にも同じことを言っていましたね。でも見てください、人類はまだ生きている。エアコンの効いた部屋で快適に暮らしている」
「それは富裕層だけだ! 熱波で死んでいく貧しい人々のことを——」
「ビジネスチャンスですよ」田貫は肩をすくめた。「我が社の新型冷却システムは飛ぶように売れています。気候変動? 素晴らしいじゃないですか。需要が増えれば株価も上がる」
兎山教授は言葉を失った。この男の前では、科学も倫理も無力だった。
田貫は部下に目配せした。黒服の男たちが研究室のサーバーに近づく。
「ちなみに、先生の研究データはすべて押収させていただきます。企業秘密が含まれている可能性がありますからね」
「待て! それは人類共有の——」
「残念ですが、スポンサー契約書をお読みください。研究成果の所有権は我々にあります」
男たちは手際よくハードディスクを取り外し始めた。70年分の研究データが、むざむざと奪われていく。
「ああ、それから」田貫は立ち去り際に振り返った。「先生の退職金ですが、研究所の赤字を考慮して、支給なしということになりました。お孫さんの学費は大丈夫ですか?」
兎山教授の顔が蒼白になった。
「ミライの学費まで...」
「お気の毒に。でも、これも自己責任というやつです。時代の流れに逆らった報いですよ」
田貫たちが去った後、研究室には重い沈黙が流れた。窓の外では、灰色の空から酸性雨が降り始めている。
「先生...」ユキが心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ」兎山教授は力なく微笑んだ。「ただ、ミライには内緒にしてくれ。あの子は来月、博士論文の審査がある。心配をかけたくない」
しかし、兎山教授は知っていた。田貫という男の恐ろしさを。彼は邪魔者を排除することに何の躊躇もない。
その夜、兎山教授は研究所に一人残った。秘密の場所に隠していたバックアップサーバーに、最後の研究データをアップロードする必要があった。これだけは、人類の未来のために残さなければならない。
「ミライ、お前なら理解してくれるだろう」
老科学者は、遠くアメリカにいる孫娘のことを思いながら、キーボードを叩き続けた。
突然、研究所の電源が落ちた。非常用電源も作動しない。完全な暗闇の中で、兎山教授は誰かの気配を感じた。
「まだいらしたんですか、先生」
田貫の声だった。しかし、昼間とは違う、氷のように冷たい声。
「君は...まさか」
「申し訳ありませんが、先生にはここで消えていただきます。あなたの存在は、我々のビジネスにとって邪魔なのです」
暗闇の中で、何かが動いた。兎山教授は最後の力を振り絞って、隠しボタンを押した。孫娘へのメッセージと、研究データのありかを示す暗号が、衛星回線を通じて送信される。
「ミライ...頼んだぞ」
それが、兎山教授の最期の言葉だった。
## 第二章 覚醒
マサチューセッツ工科大学、グリーンビルディング。
激しい雷雨が窓を叩く中、兎野ミライは博士論文の最終チェックをしていた。タイトルは『熱エネルギー集束による新世代発電システムの理論と実装』。祖父から受け継いだ研究を、さらに発展させたものだった。
「ミライ、まだ起きてるの?」
ルームメイトのサラが心配そうに声をかけた。
「うん、もう少しで——」
その時、ミライのスマートフォンが特殊な着信音を鳴らした。祖父からの緊急連絡に設定している音だ。
震える手でメッセージを開く。そこには短い文章と、複雑な数式が記されていた。
『愛する孫へ。これを読んでいるなら、私はもうこの世にいない。田貫に気をつけろ。真実はオリオン座の中にある。式を解け。地球の未来は君に託す』
「おじいちゃん?」
ミライは immediately 祖父に電話をかけたが、つながらない。研究所にも、自宅にも。
不安に駆られたミライは、ニュースサイトをチェックした。そして、小さな記事を見つける。
『東京・環境研究所の兎山教授が急死。過労による心臓発作か』
「嘘...」
ミライは膝から崩れ落ちた。サラが慌てて支える。
「ミライ! どうしたの?」
「おじいちゃんが...死んだ」
次の瞬間、ミライの中で何かが変わった。悲しみが怒りに変わり、怒りが冷たい決意に変わる。祖父のメッセージに隠された数式を解読しなければ。
ミライは涙を拭い、コンピューターに向かった。オリオン座——それは祖父との思い出の星座だった。幼い頃、祖父は よく天体望遠鏡でオリオン座を見せてくれた。
「三つ星の配列...そうか!」
数式は座標を示していた。それも地上の座標ではない。衛星軌道上の座標だ。
ミライはハッキング技術を駆使して、その座標にある物体を探した。そして発見する。登録されていない小型衛星の存在を。
「おじいちゃん、いつの間に...」
衛星にアクセスすると、膨大なデータが保存されていた。70年分の研究データ、タヌキ・コーポレーションの犯罪的行為の証拠、そして祖父が密かに開発していた技術の設計図。
ミライは息を呑んだ。そこには、彼女の博士論文のテーマでもある熱エネルギー集束システムの、完成版とも言える設計が含まれていた。しかも、複数の衛星を連動させることで、地上のあらゆる地点に超高温のエネルギーを照射できる仕組みになっている。
「これは...武器にもなる」
ミライは気づいた。祖父は知っていたのだ。平和的な手段では、もはや地球を救えないことを。
次の数日間、ミライは祖父の死の真相を調べた。セキュリティカメラの映像、通信記録、金の流れ。すべてが田貫の関与を示していた。
「許せない」
ミライの中で復讐の炎が燃え上がった。しかし、彼女は冷静だった。単純な復讐では意味がない。田貫と、彼が代表する化石燃料産業全体を崩壊させなければ。
博士論文の審査は延期を申請した。指導教授は心配したが、ミライは祖父の死のショックで時間が必要だと説明した。
実際には、ミライは祖父の遺産を使って、秘密の計画を進めていた。民間宇宙企業と契約し、小型衛星を打ち上げる。表向きは気象観測衛星だが、実際は熱エネルギー集束システムの一部だった。
そして、ミライは東京行きの飛行機に乗った。
成田空港に降り立ったミライを、灼熱の風が襲った。8月の東京の気温は48度。空港の外に出ることすら危険なレベルだ。
「これが、おじいちゃんが守ろうとした世界...」
ミライは祖父の墓参りに向かった。途中、熱波で倒れた人々を何人も見かけた。救急車のサイレンが絶え間なく響いている。
墓地で、ミライは意外な人物と出会った。祖父の助手だったユキだ。
「ミライさん...」
ユキは泣き腫らした目で、祖父の最期の様子を語った。田貫の脅迫、研究所の閉鎖、そして不審な死。
「私、何もできなくて...」
「ユキさんのせいじゃない」ミライは優しく言った。「でも、このままでは終わらせない」
ユキはミライの目に宿る強い意志を見て、何かを決意したようだった。
「実は、教授から預かっているものがあります」
ユキが差し出したのは、小さなメモリーカードだった。
「教授は万が一に備えて、これを私に託しました。『ミライが来たら渡してくれ』と」
メモリーカードには、祖父の最後の研究ノートが保存されていた。そこには、熱エネルギー集束システムの軍事転用についての考察が記されていた。
『この技術は諸刃の剣だ。しかし、もはや他に地球を救う方法はないのかもしれない。ミライよ、お前の判断に託す。正義とは何か、よく考えて行動しなさい』
ミライは拳を握りしめた。
「おじいちゃん、見ていて。私は地球を救う。そして、あなたの仇を討つ」
その夜、東京を巨大な台風が襲った。カテゴリー6のスーパー台風「ネメシス」。最大風速90メートルの暴風が、ネオ・トーキョーの高層ビル群を揺るがした。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
## 第三章 カチカチ作戦始動
台風「ネメシス」が去った後の東京は、まるで戦場のようだった。倒壊したビル、氾濫した河川、そして数え切れない犠牲者。しかし、タヌキ・コーポレーションの本社ビルは、最新の耐候システムによって無傷だった。
田貫は最上階のオフィスから、破壊された街を見下ろしていた。
「素晴らしい光景だ」
秘書が怪訝そうな顔をした。
「社長?」
「考えてもみろ。復興特需だ。建設、エネルギー、医療。我が社の全部門が潤う。災害は最高のビジネスチャンスなのだよ」
その時、別の秘書が駆け込んできた。
「社長、大変です! カリフォルニアのピッツバーグ石油精製施設で原因不明の火災が!」
「何だと?」
モニターに映し出された映像に、田貫は目を疑った。巨大な精製施設全体が、まるで太陽の表面のように燃え上がっている。消防隊も近づけないほどの高温だ。
「気温は...測定不能です。少なくとも摂氏2000度以上」
「バカな。そんな自然現象があるものか」
しかし、これは始まりに過ぎなかった。
軌道上400キロメートル。
ミライは小型宇宙ステーションのコントロールルームで、作戦の成功を確認していた。祖父が残した衛星と、自分が追加で打ち上げた衛星群。合計12基の集光衛星が、完璧に連動して太陽光を一点に集束させた。
「第一目標、撃破」
ミライの表情に感情はない。これは復讐ではなく、地球を救うための外科手術なのだと、自分に言い聞かせていた。
次の標的リストが画面に表示される。タヌキ・コーポレーションとその関連企業が所有する化石燃料施設。全世界に347箇所。
「一つずつ、確実に」
翌日、テキサスの海上石油掘削プラットフォームが炎上した。
その次の日は、中東の石油パイプライン。
さらにその次は、オーストラリアの石炭採掘場。
世界中で、化石燃料施設が次々と謎の高温で破壊されていく。そして、現場には必ず同じメッセージが残されていた。
『カチカチと音を立てて、地球の敵は燃え尽きる —— U』
田貫は激怒していた。
「Uとは誰だ! なぜ我々だけを狙う!」
セキュリティチームの責任者が報告する。
「攻撃パターンから推測すると、軌道上からの何らかのエネルギー兵器と思われます」
「宇宙から? まさか...」
田貫の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。兎山教授。そして、その孫娘。
「兎野ミライの行方を探れ。今すぐだ!」
調査の結果、ミライが最近、複数の民間宇宙企業と接触していたことが判明した。そして、彼女の博士論文のテーマ。
「熱エネルギー集束システム...まさか、あの小娘が」
田貫は決断した。
「宇宙傭兵部隊を雇え。衛星軌道上の怪しい物体をすべて破壊しろ」
しかし、その決定は遅すぎた。
東京湾岸エリア。タヌキ・コーポレーションが建設中の巨大プロジェクトがあった。海上に浮かぶ人工都市「ニュー・バビロン」。気候変動で住めなくなった地上から逃れるための、富裕層専用の楽園。
その建設現場に、一人の作業員に変装したミライがいた。
「ユキさんからの情報通りね」
ミライは構造材の一部に、特殊な細工を施していた。熱に弱い素材を、重要な接合部に紛れ込ませる。通常の温度では問題ないが、1000度を超えると一気に強度を失う。
「泥舟の準備、完了」
ミライは現場を後にした。
一方、宇宙では別の戦いが始まろうとしていた。
田貫が雇った宇宙傭兵部隊が、ミライの衛星群を発見したのだ。
「目標確認。これは...ソーラーパネルか?」
「構造が変だ。まるで巨大な凹面鏡のような...」
「とにかく破壊しろ。一基残らずだ」
しかし、ミライも無防備ではなかった。衛星群には自動防御システムが搭載されていた。接近する物体を感知すると、集束した太陽光で迎撃する。
宇宙空間での、光と光の戦いが始まった。
レーザー兵器と集束太陽光が交錯する。真空の宇宙では音はしないが、まさに光の戦争だった。
「くそっ! あの衛星、反撃してきやがる!」
「回避しろ! あの光に当たったら——」
一機の戦闘機が集束光を浴びた瞬間、機体が一瞬で蒸発した。
「撤退だ! 撤退!」
傭兵部隊は半数を失って撤退した。
地上では、田貫がモニターの前で歯ぎしりしていた。
「あの小娘...ただ者ではない」
その時、新たな報告が入った。
「社長、大変です! 我が社の化石燃料施設の破壊により、世界のエネルギー供給が逼迫しています。各国政府が緊急会議を...」
「それがどうした」
「再生可能エネルギーへの全面移行を検討し始めています。このままでは、我々のビジネスモデルが...」
田貫は拳でデスクを叩いた。
「認めん! 絶対に認めん!」
しかし、時代の流れは変わり始めていた。
## 第四章 泥舟の崩壊
2087年10月10日。
この日は、人類の歴史における転換点として記憶されることになる。
東京湾に完成した海上都市「ニュー・バビロン」の開業式典が、盛大に執り行われていた。世界中から富裕層が集まり、気候変動から逃れられる新たな楽園の誕生を祝っていた。
メインホールでは、田貫が誇らしげに演説していた。
「皆様、ようこそニュー・バビロンへ! ここは人類の新たな箱舟です。地上がどれだけ暑くなろうと、海面がどれだけ上昇しようと、我々は快適に、優雅に暮らし続けることができます」
聴衆から拍手が湧き起こる。シャンパングラスを掲げる人々。しかし、彼らは気づいていなかった。会場の片隅で、ウェイターに扮したミライがすべてを見守っていることに。
「今日という日を、よく覚えておいてください」田貫は続けた。「これは、選ばれし者たちの新世界の始まりです。適者生存——それが自然の摂理。我々は生き残るべくして生き残るのです」
その瞬間、ミライは静かにつぶやいた。
「カチカチ」
空が、突然明るくなった。
まるで第二の太陽が現れたかのように、上空から凄まじい光が降り注ぐ。集束された太陽光が、ニュー・バビロンの基礎構造部を正確に狙い撃つ。
「な、何だ!」
建物が不気味な音を立て始めた。カチカチ、カチカチと。それは、ミライが仕込んだ特殊素材が高熱で変質する音だった。
「警報! 構造材の強度が急激に低下しています!」
エンジニアたちが血相を変えて報告する。
「海水温度、異常上昇! まるで...煮えているようです!」
巨大な海上都市が、ゆっくりと傾き始めた。数千億円をかけて建設された人類の新たな箱舟が、まるで泥で作った舟のように、少しずつ海に沈んでいく。
「脱出だ! 脱出しろ!」
パニックが広がった。我先にと脱出ボートに殺到する富裕層たち。つい先ほどまで優雅にシャンパンを飲んでいた彼らが、今や生存本能むき出しで争っている。
田貫も必死で脱出を図ったが、傾いた床に足を取られて転倒した。
「社長!」
秘書たちが助けようとしたが、もう遅かった。建物の傾きは加速し、内部のあらゆる物が滑り落ちていく。
その時、田貫の目の前に一人の人物が現れた。ウェイターの制服を脱ぎ捨てたミライだった。
「お前は...兎野ミライ!」
「お久しぶりです、田貫さん」ミライの声は氷のように冷たかった。「祖父の仇、取らせていただきます」
「待て! 話せば分かる! 金なら——」
「金?」ミライは嘲笑した。「あなたは金で地球を買えると思っているんですか?」
建物がさらに大きく傾いた。もはや立っていることも困難だ。
「私を殺しても何も変わらない! 他の誰かが私の後を継ぐだけだ!」
「いいえ」ミライは首を振った。「もう時代は変わったんです。見てください」
ミライが指差した先のモニターには、世界各地のニュースが映し出されていた。
『国連緊急会議、化石燃料の全面禁止を決議』
『再生可能エネルギー革命、世界同時進行』
『タヌキ・コーポレーション、破産申請へ』
「そんな...バカな...」
「あなたが破壊した化石燃料施設は、もう再建されません。世界は新しいエネルギーシステムに移行します。祖父が夢見た世界に」
建物が最後の断末魔を上げた。巨大な構造物が真っ二つに割れ、海水が濁流となって流れ込んでくる。
「さようなら、田貫さん。地獄で祖父に詫びてください」
ミライは用意していた小型潜水艇で脱出した。背後で、ニュー・バビロンが完全に海に飲み込まれていく。
数時間後、世界中のメディアがこの惨劇を報道した。死者行方不明者は3000人を超えた。しかし、同時に、これが新しい時代の始まりを告げる事件でもあった。
ミライは東京の安全な場所から、一部始終を見守っていた。
「これで終わりじゃない」
彼女の手元には、祖父が残した研究データがある。熱エネルギー集束システムを、本来の目的——クリーンエネルギー源として活用する時が来た。
## 第五章 新世界の夜明け
ニュー・バビロン崩壊から3か月後。
世界は激動の中にあった。タヌキ・コーポレーションの破綻により、化石燃料産業は完全に崩壊。各国は必死で再生可能エネルギーへの転換を進めていた。
しかし、移行は容易ではなかった。エネルギー不足により、世界各地で暴動が発生。文明社会が崩壊の危機に瀕していた。
そんな中、一人の若い女性科学者が国連で演説を行った。
「皆さん、私は兎野ミライです」
会場がざわめいた。この数か月、世界を震撼させた一連の事件の首謀者が、自ら姿を現したのだ。
「私は確かに多くの施設を破壊しました。多くの人命も奪いました。その罪は認めます。しかし」
ミライは聴衆を見渡した。
「私はここに、解決策を持ってきました」
スクリーンに、巨大な宇宙構造物の設計図が映し出される。
「宇宙太陽光発電システム。私の祖父、兎山教授が構想し、私が完成させた技術です。宇宙空間で太陽光を集め、マイクロ波で地上に送電する。クリーンで、無限で、全人類に行き渡るエネルギー」
会場が静まり返った。
「私はこの技術を、無償で提供します。ただし、条件があります」
ミライは一呼吸置いた。
「化石燃料の完全放棄。そして、地球環境の修復に全力を注ぐこと。これは人類最後のチャンスです」
長い沈黙の後、拍手が起こった。最初は小さく、やがて会場全体を包む大きな拍手に。
しかし、すべてが順調に進んだわけではなかった。
ミライへの逮捕状も出ていた。彼女の行為は、どんな理由があろうとテロリズムだった。
裁判の日。
ミライは法廷に立った。検察官が厳しく追及する。
「被告人は、347箇所の施設を破壊し、直接的に3000人以上の死者を出しました。これは明らかな大量殺人です」
ミライは静かに答えた。
「はい。私がやりました」
「反省の色が見えませんね」
「反省...」ミライは考え込むように言った。「もっと早く行動すべきだったという反省はあります」
法廷がざわめいた。
弁護人が立ち上がった。
「裁判長、ここに世界中から届いた嘆願書があります。総数1億通を超えています」
さらに、証人として多くの科学者たちが出廷した。彼らは口々に、ミライの行動がなければ人類は10年以内に絶滅していたと証言した。
判決の日。
裁判長は重々しく語った。
「被告人の行為は、法的には許されません。しかし、その動機と結果を考慮し...」
結果は、執行猶予付きの有罪判決だった。そして、社会奉仕命令として、宇宙太陽光発電システムの建設を指揮することが命じられた。
ミライは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、地球を救ってみせます」
それから10年。
2097年、地球の姿は大きく変わっていた。
大気中の二酸化炭素濃度は減少に転じ、平均気温も少しずつ下がり始めていた。荒れ狂っていた気象も、徐々に安定を取り戻しつつある。
宇宙には、巨大な太陽光発電衛星が整然と並んでいた。かつて兵器として使われた熱エネルギー集束技術が、今や人類のエネルギー源となっている。
ミライは、国際宇宙ステーションから地球を見下ろしていた。青い惑星は、まだ傷だらけだが、確実に回復しつつある。
「おじいちゃん、やったよ」
隣には、かつての助手ユキがいた。彼女は今、ミライの右腕として働いている。
「兎山教授も、きっと喜んでいらっしゃいますよ」
「でも、多くの人を...」
「ミライさん」ユキは優しく言った。「過去は変えられません。でも、未来は変えられます。あなたはそれを証明しました」
その時、通信が入った。地上からの報告だ。
「ミライ博士、南極で新種の植物が発見されました! 氷が溶けた後の大地に、生命が戻ってきています!」
ミライの顔に、久しぶりに笑顔が浮かんだ。
「生命は、強いね」
しかし、ミライは知っていた。これは始まりに過ぎないと。地球を完全に修復するには、まだ何世代もかかるだろう。
彼女は決意を新たにした。残りの人生をすべて、地球の再生に捧げると。
それは、祖父への、そして自分が奪った命への、せめてもの償いだった。
## エピローグ 200年後
2287年。
地球は再び、青と緑の惑星となっていた。
首都大学東京の講堂で、一人の老教授が講義をしていた。
「さて、今日は歴史の授業です。200年前、地球は滅亡の危機にありました。そして、一人の若い女性が、極端な方法でそれを食い止めたのです」
学生の一人が手を挙げた。
「先生、兎野ミライは英雄なんですか? それとも犯罪者なんですか?」
老教授は微笑んだ。
「良い質問です。それは、皆さん一人一人が考えるべきことです。ただ、一つ確実なのは、彼女の行動がなければ、私たちは今ここにいなかったということです」
講堂の窓から、美しい青空が見えた。白い雲がゆったりと流れ、鳥たちが自由に飛び回っている。
「歴史は複雑です。善と悪、正義と犯罪の境界は、しばしば曖昧になります。しかし、大切なのは、過去から学び、同じ過ちを繰り返さないことです」
講義の後、学生たちは大学の庭園を歩いていた。そこには、兎山教授と兎野ミライの像が並んで立っていた。
像の台座には、こう刻まれている。
『地球を愛し、地球に愛された祖父と孫へ。その複雑な遺産を、我々は永遠に記憶する』
一人の学生が、像に花を供えた。
「ありがとう、ミライさん。あなたのおかげで、私たちは生きています」
風が吹き、木々がさざめいた。
まるで、遠い過去から二人の科学者が、微笑みながら見守っているかのように。
カチカチ山の物語は、こうして新たな伝説となった。
狡猾な狸が、賢い兎に懲らしめられる昔話から、愚かな人類が、勇敢な科学者に救われる物語へ。
そして、その物語は警告として、希望として、永遠に語り継がれていくのだった。
地球が、二度と焼かれることのないように。
(完)