公務営み
心底なんだってよかった。血の気と正気をはっきりと取り戻してくる夜にだって相変わらずなんでもいいのだから、なんだっていいとかいう人は実際はなんでもよくないとかいうあるあるに魅入られた人物が、相手から何としてでもひとつ文句を引き出そうと躍起になっている。ほとんどの感情をジョークに先回りされた今世において、僕は公務員だった。
エレベーターに一人で乗ると少しソワソワする。このまま途中で落下するにしても停止するにしても、事故が起きてしまえば僕は狭い空間に一人取り残されてしまうのだ。それは恐怖症の兆候。別に大勢でならそうなってもいいというわけではないが、人が他にいれば起きもしない不安事を考えないで済むだろう? その点僕は他人に襲われる妄想には囚われない質なんだ。
うちの庁舎のエレベーターは、壁に取り付けられたアルミ製の手すりとちょうど襟元だけが映せるサイズの姿見、後ろの隅にはアロエの鉢が礼儀正しく置かれている。そのどれもここの職員たちにとって実用的であることが、エレベーターに一人で乗っている僕にとって、なぜか根源的な孤独を思い出させるのだった。
みると扉横の赤いデジタル表示が67という数字を超して、まだ増えていく。しかしこの庁舎は8階建てのはずだった。状況が明らかにおかしいからこそ僕はただ見守っていることしかできずにいる。エレベーターは75階で停止し、扉がいつも通り左右にスライドして開くと、その先にあったのは、ライトの薄暗い僕らのオフィスやお偉い方の部屋へとつながる起毛絨毯の廊下ではない。壁も床もなく、優しい光の漏れる階段が、朝焼けの空に向かってどこまでも高く伸びているのだった。景色を邪魔するものは階段の他に何も立っていない。下の方を覗けば青い地球が惑星となってみえた。どこからともなく男女混合の陽気な歌声が聞こえてきて、それはどこかチップスターのCMを彷彿とさせる。
……てんごく~に~♪ てんごく~に~♪ 着いった~~♪
それで終わると尺余りのノイズ部分までプツッと聞こえなくなった。僕はあっけに取られその場で動けないでいると、目の前の光の階段から、ジュラピケを着た黒髪ウェーブの女の人が降りてきて、エレベーターに乗り合わせる。その女は、扉横のボタンの前にいる僕の対角に陣取った。僕は誰もいないことを分かっていながら扉の外を見回してから、元に戻るための階のボタン、閉ボタンと押した。だが扉は閉まらなかった。焦って連打もしてみるが扉は一向に動く気配をみせなかった。
後ろでその様子をみていたジュラピケの女がにやけて、
「いやいや、まだ帰るには早いでしょ。」
「早いもなにも、僕はまだ仕事中なんだ。」
声に僕は振り返り、彼女が壁にもたれているのを見て自分もボタンに背をもたれる。同じように胸と腹の中間に腕を組んで、エレベーターの箱の中、僕と女とアロエの鉢で直角二等辺三角形を結んでいる。
「私神さまなの。そしてここは天国。だからちょっと話しようよ。」
「いいけど、このまま落っこちたりしないよね?」
僕はエレベーターの外にある下の地球を指さして心配する。女は「うんうん問題ないよ」と、片方の手を滑らせてパジャマの触り心地を楽しみながら、
「じゃあさっそく……私こと神さまに何か質問はあるかな。」
「質問? そっちが何か話したいんじゃないの?」
「いや、神さまってさ全部を分かってるわけ。全部分かっちゃうとさ、いわゆる、無気力症候群? それで自分から話すのも億劫なんだよね。でもたまには威張りたい。なにかしら君に知識をひけらかしたい。だからさなんか、質問してよ。」
「ええ……と、じゃあ天国って地続きっていうか、ビルのエレベーターに乗って行けるような場所なんですか?」
腕を組んだ神さまのしたり顔、「それはだね」
「実際来れたんでしょ? ならそうだよ。」
「ならそうだよって……じゃあどうして繋がってるんだよ。絶対おかしいじゃないか。」
「どうして? さあ。私、解析はしない派だから。」
「はあ?」
「神さまっていうのはだね、知識体系の……」うだうだ言っている。「とにかく理由なんてないよ。自然と一緒で、ただそうというだけなの。」
「違うね。自然にも理由はある。自然科学は現在進行形だよ。」
「うーん、私からすれば人間の営みも気ままな自然と同じでしかないからなあ。」
「なんだそれ。」
「まあ分からなくてもいいよ。この会話を望んだのは私の方だからね。いやあ、ムリに質問させてごめんね。久々に楽しかったよ。」
「ここ、君の庁舎の75階ね。憶えた。」とだけ残し、ジュラピケを着た自称神さまは階段の方へ出ていく。するとその扉はあらかじめ閉まっていたように、エレベーターは8階以内の表示で下降している最中だった。エレベーターの中には僕の他にも数人の乗客があり、デジタル表示が3という赤い数字を示す。能面の女のような音質で、『3階でございます』。扉を出てすぐにオフィスが広がっている。
バリスタの横に置かれたお金を食べる貯金箱に10円を入れて、コーヒーを飲む。それで帰る。夕方から振った雨でバスは混んでいた。車内は、仕事の疲れと雨の湿度にやられた人たちが、逆さに持ってひしめき合う濡れたビニール傘で擦れた花束みたいな音を立てている。バスにいると実際にそう聞こえたんだ。これからは生活必需品の質を密かに削られていたとしても、僕らにはきっとそれに気づく機会すら与えられない。気づかない方が幸せだろうと考えられるからだ。仮の幸せを勘定する性癖の染みついた、僕は座っていて隙間が熱くなったシートから立ち上がると、疲労したムードの人混みをかき分けて進む。僕が降りたバス停には他に誰も降りなかった。先端に水滴が集まっているビニール傘を開いて家までの距離を歩こうとしたが、雨はいつの間にか弱まり、傘を差すにしてはくだらないくらいの勢いだった。犬も気を遣って寝てしまう夜だった。